妖に愛されたわたしは、このたび妖祓いの若き当主様の元に嫁ぎまして〜愛のない契約結婚のはずが、無口な旦那様に溺愛されました〜



 「み、道孝様そのお怪我は……!」

 「大したことはない」

 月が大きく照らす夜、妖祓いの務めから帰還した道孝の右腕には、鋭い刃で裂かれたような真新しい切り傷が刻まれていた。

 けれど道孝は全く気にする素振りも見せないまま、いつものように衣装部屋でゆるりとした着流しの姿に変わっていく。

 「早くお怪我の手当をなさいませんと!」

 「騒ぐな」

 「しかし……!」

 光院家の使用人たちは若き当主に何かあっては困ると慌てふためいている。

 けれど当の本人は医者を呼ぼうとする使用人を低い声で静かに制して人払いをした。

 実際のところ、最強の封印師である道孝にとって、この程度の傷は日常茶飯事であり、痛みのうちにも入らないのだろう。

 道孝が自室へ向かうと、菜子もその後に続いた。

 「あの……っ、道孝様」

 控えめな声が道孝の部屋に響いた。

 振り返ると、小さな小瓶を両手でぎゅっと握りしめたまま、彼の前に進み出てきていた菜子の姿があった。

 普段は決して自分から目立とうとしない彼女の思いがけない行動に、道孝はそっと菜子を招き入れる。

 「どうした」

 「もしよろしければ、私が手当てをしてもよろしいでしょうか」

 「君が?」

 「はい。……この前いただいた、帽子のお礼に」

 伏し目がちに紡がれたその言葉に、道孝はほんの少しだけ目を見開いた。

 道孝からもらった麦わら帽子は自分の部屋の目に留まるところへ大事に置いてある。他人からの贈り物など経験したことのなかった菜子は、どうしても道孝の好意に報いたかった。

 道孝はしばらくの間じっと菜子の顔を見つめると、小さく息を吐いた。

「……なら、頼もうか」

 大量の本や封書で溢れた道孝の部屋にある長椅子に腰を下ろすと、菜子はそっと彼の目の前に向かい跪く。

 そして小瓶の蓋を開けて指先にほんの少しだけ軟膏を取ると、道孝の逞しい腕に刻まれた傷口へ優しく塗り込んでいく。

 その瞬間、まるで嘘のようにジクジクとした傷の痛みが引いていき、赤黒く腫れていた周囲の皮膚がスッと元の色を取り戻した。

 信じられないほどの効能に、道孝は己の腕の傷から目の前で跪く妻へゆっくりと視線を移した。

 「妙によく効く薬だ。自分で作ったのか?」

 「えぇ」

 「どこで覚えた」

 感情の読めない、けれど微かな熱と詮索の色を帯びた瞳が菜子を射抜く。

 菜子はびくりと肩を震わせて、誤魔化すように長い睫毛を伏せた。

 「……昔、少し」

 消え入るような声で出所を濁す。

 言えるはずがなかった。
 この薬の知識も、材料となる薬草の在り処も、すべて彼が命を懸けて滅している『妖』たちから教わったものだなどと。

 「(どうかこれ以上、聞かないで……)」

 「……そうか」

 菜子の願いどおり、道孝はそれ以上深くは追及してこなかった。
 けれど、その静かな瞳は、菜子が何かを隠していることなどとうに見透かしているようだった。

 真っ直ぐに向けられる彼の眼差しが、ひどく痛かった。

 いずれ光院家を去るその日まで、このことだけはなんとしてでも秘密にしておかなくてはならない。

 この甘くて苦しい罪悪感は、ずっと菜子を苛み続けるのだろう。

 「助かった、感謝する」

 「……いえ」

 道孝の治療を終えて小瓶をしまいながら、菜子はきつく唇を噛み締めた。

***

 草木も眠る、深い丑三つ時。

 使用人たちもすっかり寝静まり、日中の活発な光院家の屋敷が完全な静寂に包まれた頃。
 菜子は自室をそっと抜け出して、裏手に広がる深い森へと足を踏み入れた。

 光院家の敷地内でありながら強固な結界が張られているせいで、普通の人間は立ち入ることさえできない禁足地。

 けれど妖の力を『解く』力を持つ菜子にとって、その結界の綻びを見つけてすり抜けることなど造作もないことだった。

 青々と茂る木々の合間を縫うように歩いて、慣れたように奥へと進んでいく。

 やがて、月の光が差し込む小さな広場へと出た。
 苔むした岩と、清らかな小川が流れるその場所は、誰にも知られていない菜子だけの秘密の園だった。

 「……みんな、お待たせ」

 菜子がそっと声をかけると、森の茂みから次々と小さな影が飛び出してきた。

 淡い光を帯びた鞠のような姿をした者、耳の長い兎に似た姿の者、尻尾をふりふりと揺らす子犬のような者。どれも人に害をなすことのない低級の妖であり、そして菜子の友達だった。

 彼らは菜子の姿を見ると嬉しそうに足元に擦り寄ったり肩に飛び乗ったりしてじゃれついてくる。

 その瞬間、菜子の体はこれまで無意識のうちに気張っていた力がふっと抜けていく。
 帝の命令によって決まった、誰にも祝福されることのない結婚。慣れない生活に、敵対心むき出しの光院家の人々。

 小さな菜子の肩に乗っかっていたものがすべて、唯一心を許せる妖たちに会った途端スッと軽くなるのがわかった。
 
 花が綻ぶような、心からの無邪気な笑顔。
 それは実家である花乃井の家でも、嫁ぎ先である光院家でも、誰一人として見たことのない、彼女の本当の顔だった。

 「ふふっ、くすぐったいよ。元気にしてた?昨日ね、少しだけ結界の隅を解いておいたの。これで息がしやすくなったでしょう?」

 菜子は妖たちを抱き上げて、頬擦りをして慈しんだ。

 妖を『封じて滅する』ことを至上とする花乃井家において、妖の封印を『解く』力を持って生まれた菜子は、忌み嫌われる厄介者だった。

 幼い頃から薄暗い部屋に閉じ込められ、両親からはいないものとして扱われ、侍女たちにさえ冷ややかな目で見られてきた。誰も彼女に寄り添ってくれなかった。誰も彼女の隣に並んでくれなかった。

 そんな絶望のような孤独の中で唯一彼女のそばにいてくれたのが、窓の隙間からこっそりと忍び込んできた低級の妖たちだったのだ。

 菜子はこれまで人間に恵まれなかった分、妖たちと密かな友情を育んできた。

 兄妹たちが練習のために低級の妖を封じては滅していく様子を見て、菜子はその度に心を痛めていた。

 あの妖は痛みを感じるのだろうか。封印されたら苦痛を味わってしまうのだろうか。

 そんなふうに考えると居ても立っても居られなかった。

 面白がって妖を痛ぶる兄妹たちを止めに入ったとき、菜子は三日の食事を禁止され、庭に出ることも許されなくなった。それでも菜子は夜がふけると花乃井家が所有する森へ立ち入り、害のない妖たちの封印を解いて回った。

 菜子の周りに人間は寄り付かなくても、代わりにこれまで助けた妖たちが彼女の元へやってきて友達になったのだ。

 彼らは言葉を持たない。ただ泣いている菜子の涙を拭って、冷えた身体に寄り添って温めてくれた。

 人間に拒まれた分、人ならざるものたちから無条件の愛を与えられてきた娘。だからこそ菜子は、妖を恐れない。彼らの命を慈しみ、不当に封じられているものがあれば自らの力でそっと解き放ってきた。

 「(もしもこのことを知られたら……妖と親しくしていると知られたら、私は確実に光院家にはいられなくなる)」

 封印師御三家の中でもトップの座に君臨する若き当主である道孝は、最強の妖祓いだ。妖を滅する彼にとって、妖と戯れる妻など許されるはずがない。

 見られたら、すべてが終わる。それでも菜子は妖たちと会うことをやめることはできなかった。
 彼らだけが、無条件に菜子を必要としてくれる唯一の存在だから。

 「さあ、お仕事もしなくちゃね。この間の軟膏をもう少し作っておきたいの。みんな、手伝ってくれる?」

 とりあえず今は久しぶりの彼らとの時間を堪能しよう。
 菜子は雑念を振り払って柔らかい笑みを浮かべると、小さな籠を取り出す。すると妖たちは嬉しそうに森の奥へと駆け出していった。

 彼らは森の植物の知識に長けている。昨日、道孝の傷を塞いだあの見事な薬草の知識も、すべて妖たちから教わったものだった。

 青々とした葉の手触り、森の湿った土の匂い。妖たちと他愛のない時間を過ごしながら、月明かりの中で見せるその笑顔は、どこまでも澄み切って美しかった。

 ──彼女は気づいていなかった。
 木立の陰からその姿を見られているということに。

***

 屋敷の裏に続く森に張られた結界に、微かな綻びと妖の気配を感じ取った道孝は、その日一人で様子を探りに来ていた。

 御三家筆頭である光院家の当主であり、最強の封印師。その責務に従えば、結界内に潜む妖を野放しにしておくわけにはいかない。即座に符を抜き、滅するべきだ。

 そのために彼は音もなく神木の陰に潜み、気配の源へと冷酷な視線を向けた。

 けれど、大樹に手をついた道孝の指は、目の前の光景を見た瞬間ピタリと止まった。

 「──ふふっ、くすぐったいよ」

 鈴を転がすような、甘く柔らかな声。
 月明かりの下、小川のほとりで妖たちに囲まれながら無邪気に笑っていたのは、他でもない妻である菜子だった。

 道孝は息を呑んでその場に立ち尽くした。

 まるで別人のようだった。
 光院家の屋敷で見せるいつも怯えたように伏し目がちな姿は一切ない。
 薄明かりの中で淡く発光する妖たちに寄り添って慈しむように微笑む彼女の横顔は、神々しいほどの美しさを放っていた。

 「……っ」
 咎めなければならない。彼女がしていることは、封印師の妻として決して許されない重罪だ。
 頭では痛いほど分かっているのに、あの無垢な笑顔からどうしても目を逸らすことができない。

 「(……なんて顔で、笑うんだ)」
 帝から直接結婚の話を受けたとき、道孝は花乃井家の令嬢が嫁に来ると聞いても一切動じることはなかった。
 己の封印の力に絶対的な自信を持っている次女の方か、それとも病弱なせいで一切表に出ることができないと言われている長女のほうか。

 正直なところ、どちらが来ようと構わなかった。どうせ花乃井の家から来る娘など、権力に目が眩んだ強欲な女か、光院の技術を盗もうとする間者のようなものだろうと高を括っていたからだ。

 けれど道孝の予想とは裏腹に、実際に嫁いできた菜子は違った。

 常に怯えたように身を縮めながら、与えられた環境に一切の不満を漏らさず、ただ静かに息を潜めている。それでいて得体の知れない軟膏で夫の傷を治す不思議な手際の良さを持っていた。

 そして今、彼女は光院家にとって滅すべき対象であるはずの妖たちに囲まれながら、これ以上ないほど幸せそうに笑っている。

 「……っ」

 これまで妖を滅することしか知らず、己の感情すら切り捨てて生きてきた道孝の胸の奥で、これまで感じたことのない感情が一気に押し寄せた。

 それは、他人に無関心だった最強の当主が、ひとりの少女にどうしようもなく心を奪われた決定的な瞬間だった。

***

 次の日、道孝の書斎に呼ばれた菜子は、静かな声で告げられた言葉に背筋を凍らせた。

 「裏の森へ行くのはほどほどにしておけ」
 「……え?」
 「あんなことを続けていれば、いつか足元を掬われる」
 「……っ!?」

 ──知られていた?いつから?
 菜子の頭の中は真っ白になっていく。

 けれど、道孝の言葉に怒気は感じない。
 森の結界に綻びを作り、妖と戯れていたなどということが知られていればこんなふうに静かではいられないはずだ。

 「……気をつけます」
 菜子はそう返事をして深く頭を下げた。
 あの森へはもう行かないという約束はできなかった。彼女にとって、あそこは唯一息ができる場所だからだ。

 明らかに落胆した様子で菜子が部屋を出て行った直後、襖の奥から道孝の側近が青ざめた顔で駆け寄った。

 「旦那様!あのまま放置してよろしいのですか!?いくら当主様の奥様とはいえ、妖の封印を解くなど……」
 「彼女は優しすぎる。妖は狡賢い、いつかそこにつけ込まれる日が来るだろう」
 「奥様の心配をしている場合ではないでしょう!当主様の……、いえ光院家の立場自体が危ぶまれます!」

 焦って身振りを大きくしながら訴えかける側近とは正反対に、窓の外を見つめたまま道孝は頬杖をついていた。
 これは重大な件だとわかっていても、道孝の心の中は昨夜の菜子の屈託のない笑みだけが映し出されている。

 「やはり何をしてでもやめさせたほうが……!」
 「だが彼女のあの優しさまで奪わせたくない」
 「と、当主様……」
 「幸いにも彼女が封印を解くのは害のない低級のものだけだ。さほど問題はないはずだ」

 道孝はあの時見た菜子の笑顔を守りたかった。
 あんなふうに笑ってくれるなら、今回のことは目を瞑ろう。

 このまま平穏に彼女との時間を過ごせるならそれでもいいと思っていた。
 その考えが間違いだということを、道孝はすぐに知ることになる──。