妖に愛されたわたしは、このたび妖祓いの若き当主様の元に嫁ぎまして〜愛のない契約結婚のはずが、無口な旦那様に溺愛されました〜

 光院家での仮初めの夫婦生活が始まって、数日が過ぎた。

 菜子の毎日は花乃井家に居たころとは比べものにならないほど静かだった。

 ただ一つ問題があるとすれば、それはあまりにも時間を持て余してしまうことだ。

 道孝から家事や掃除を手伝うよう指示されることもなく、光院家の金の管理や屋敷を任されることもなかった。そもそもいずれこの家を出ていく妻にそんなことをさせるはずもないと、菜子自身もそう理解していた。

 ぽかぽかとした陽気に包まれた昼下がり。

 菜子は光院家の広大な庭の片隅にしゃがみ込みながら、小さな畝を作って野菜の種を蒔いていた。

 土に触れながら小さな命が芽吹くのを手助けしていると、長く日の当たらない部屋に閉じ込められてきた菜子の心は不思議と安らいでいく。

 「(いずれこの家を出たとき、外の世界で一人でも生きていけるように少しでも身になることをしておかないと)」

 胸の中でそんな言い訳をしながら、そっと土を被せた。

 古い納屋から見つけた肥料を撒いて、木造りの小さな手桶に水を汲んでそっと柄杓でかけていく。

 「──本当に、なぜあのような方が道孝様の花嫁なんかにねぇ。もっと相応しい方がいらしたはずなのに」

 そのとき、屋敷の縁側を忙しなく歩いてくる侍女達の足音と共に、ひそひそと話し声が菜子の耳に届いた。

 「よりにもよってあの花乃井の家の娘と婚姻されるなんて信じられないわ」

 「仕方ないんじゃない?だってこの結婚は帝の命令だって話よ?」

 「でもあの娘、妖を『解く』しか能のない出来損ないの封印師だっていうじゃない?あんなの、光院家の恥だわ」

 「それに今まで一度だって表舞台に立ってこなかったらしいのよ。舞踏会や夜会はもってのほか、封印師が集まる御三家会議にすら出席させてもらえなかったそうじゃないの」

 それは古参の侍女たちの声だった。

 菜子は土を払う手を止めて、ふっと力なく微笑んだ。

 実家で面と向かって言われ続けてきた言葉に比べれば、この程度どうということはない。怒りすら湧いてはこなかった。

 仮にも光院家の妻としてこの屋敷に居座る以上、波風を立てず、ただおとなしくやり過ごせばいい。そう思いながら、菜子は静かに部屋へ戻ろうと立ち上がった瞬間。

 「──待ちなさい」

 重みのある低い声がそこに響いた。

 侍女たちがヒッと短い悲鳴を上げるのと同時に、菜子も同じように声の発信源へ振り返る。

 そこには、いつの間にか屋敷に戻っていた道孝が立っていた。

 彼は声を荒げることも、感情を露わにすることもない。ただ淡々と、事実を突きつけるように言い放った。

 「……裏での陰口を叩くのがお前たちの仕事か?」

 「み、道孝様!」

 「申し訳ございません!」

 その静かな威圧感に、侍女達は青ざめて震えている。

 「(庇われた……?)」

 それは菜子にとって生まれて初めてのことだった。

 花乃井家にいたころは、誰かに庇われたことなど一度もなかった。実の父親から暴言を吐かれ、出来損ないだと罵られても、母親は冷たい目で彼女のことを見下ろすだけだった。

 兄妹たちはそれを見て腹を抱えながら笑い、同じように馬鹿にした態度で菜子をなじる。

 花乃井家にはたくさんの侍女や庭師、配下となる子弟たちがいたけれど、菜子のことを気にかける者は一人もいなかった。

 妖を封印し滅するための一族の中に、その封印を解く力しか持たなかった菜子は異質すぎた。

 「彼女は光院家の妻だ。二度目はないと思え」

 「しょ、承知いたしました……!」

 「肝に銘じておきます!」

 それでも道孝は彼女のことを決して蔑むことはしない。

 今日は御三家の当主だけが集まる会合に行っていたはずの道孝は、帰宅したばかりなのか上質な生地で作られた羽織袴に身を包んでいた。綺麗な濡羽色に、金の刺繍で彫られた光院家の家紋は全封印師たちの憧れでもある。

 「(……いいえ、私を庇ったんじゃない。この家の体裁を守るためにあぁ言ったんだわ)」

 それに、実際のところ侍女たちが話している内容はどれも間違いではない。

 すべて本当のことだ。

 何より封印師の家系の中でもトップに君臨する光院家のことを妬み、あらゆる手を使ってその座を奪おうとしてきた花乃井家のことをこの家の者たちが快く思うはずがない。

 帝の勅命がなければ決して交わることのなかった縁なのだ。

 「お待ちください、道孝様」

 菜子は急いで道孝たちのいる縁側へ回り込み、深く頭を下げた。

 「そこにいたのか」

 「どうか、彼女たちをお咎めにならないでくださいませ」

 「……なぜだ」

 「この家の方々は、御三家筆頭の光院家に仕える者として、強い誇りを持ってお務めをされていらっしゃいます。他所から来た、ましてや花乃井の姓を持つ私をすぐに受け入れられないのは当然のことでございます」

 「……」

 自分が疎まれていることを訴えるのではなく、相手の誇りを尊重する言葉へと変えて飲み込む。それが厄介者として生きてきた菜子の、優しくも悲しい処世術だった。

 道孝はしばらくの間、感情の読めないその瞳で菜子を見下ろしていた。

 自分よりも身分の低い者に貶されても叱るどころか庇うような令嬢など、道孝は今まで見たことがなかった。

 「(……妙な娘だ)」

 彼の瞳の奥で、確かな興味と、名付けようのない小さな熱が揺れた。

 「わたしの妻である以上、守るのは当然の義務だ。……己を蔑むのはやめろ」

 「守る?」

 「当然だ。……それに、手や着物に泥をつけている理由は?」

 「あ、いや、これは……!」

 道孝は古参の侍女たちに『もう行きなさい』と手で合図をしたあと、袂から真っ白な手巾を取り出して菜子の手についていた泥を払った。

 「なっ!」

 あまりに予想外の行為に、菜子は思わず大きな声を出して咄嗟にその手を引っ込める。

 「……なんだ」

 「な、なりません!道孝様の手巾が汚れてしまいます!」

 「本来汚れを落とすためのものだが」

 「いいえ!それに、まだ作業が残っておりますので私もこれで失礼いたします!」

 早口にそう言って、菜子は慌てて立ち去ろうとした瞬間、グイッと手首を掴まれた。

 「わっ!」

 「……動くなと言っている」

 有無を言わさぬ低い声に、菜子の体は一気に硬直する。

 道孝は菜子の汚れた小さな手を己の大きな両手で包み込むと、真っ白な手巾で、まるで壊れ物を扱うかのように優しく泥を拭い始めた。

 「……っ!」

 菜子の心臓は今にも飛び出そうなほど激しく脈を打ちつけている。急速に体温が上昇していくのが自分でも分かるほど、菜子の顔は真っ赤に染まっていた。

 されるがままになっていると、やがて道孝は手巾を離し、菜子の小さな手をそっと解放した。

 「……で、何故泥だらけになっていた」

 「あ、その、あちらの庭に、少しだけ野菜の種を蒔いておりまして。そのお世話を……」

 「そうか」

 光院家の土地でそのようなことをするなと咎められるかと思っていた菜子は、道孝のその一言に目を見開いた。

 そして、ふわりと頭の上に心地よい日陰が落ちる。

 「え?」
 
 それは道孝が菜子の頭にすっぽりと麦わら帽子を被せているところだった。

 春の野花が挿された、菜子にピッタリのそれ。

 「道孝様……?」

 「今日は日差しが強い。倒れられては困る」

 短い言葉とともに、無口な当主は当然のように菜子の手を引いて畝のあるところまで歩いた。

 そして羽織袴の裾が土で汚れることも一切気にせず、長い指でひょいと菜子の足元の雑草を抜き始めたのだ。

 「道孝様がそのような真似をされてはなりません!」

 「構わない。わたしにも少しばかり時間ができただけだ」

 御三家が集まる厳格な会合から帰ってきたばかりだというのに。

 最強の封印師であり、妖祓いであり、雲の上の存在であるはずのこの人は、今、不格好に土をいじる菜子の隣に、ただ静かに並んでくれている。

 誰の邪魔にもならないよう、ずっと一人で生きてきた。実家でも誰一人として自分の隣に並んでくれる者などいなかったのに。

 心地よい沈黙の中で、草をむしりながら道孝は口を開いた。

 「……何か、好きなものはないか」

 「えっ?」
 
「着物でも、菓子でも。君は光院の家にきてから、何も欲しがらない」

 突然の問いに、菜子は慌てて首を振る。

 「滅相もございません。雨風しのげるお部屋も、お食事も、何不自由なく与えていただいておりますから」

 菜子がこれまでに欲しがったのはたった一つだけ。それは誰かに認められ、自由に生きること。

 それ以外の贅沢など、自分のようなはみ出し者が望む権利すらないと思っている。

 そんな彼女の強張りを見て、道孝はほんの少しだけ口の端を緩めた。それは、菜子が初めて見る彼の笑みだった。

 「ならわたしが適当に見繕うが、問題ないか?」

 「え?」
 
「わたしは世間の流行りには疎い。見当違いのものばかり買ってしまうかもしれないが、それでもいいか?」

 道孝のその言葉に、菜子の心臓は再び大きな音を立てた。

 端正な顔に浮かんだ不器用でお茶目な響きに、どうしようもなく視線を奪われる。

 「(……駄目。勘違いしたら駄目よ、私)」

 いずれ去るのだと自分に言い聞かせてきたはずなのに、胸の奥で芽生えた温かい高鳴りを、もう止めることはできなかった。