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もう二度と、あの家には戻らない。誰の邪魔にもならず、いずれ──。
妖を『封じて滅する』ことを生業としている花乃井家で、妖を『解く』力を持って生まれた菜子は、両親や親戚たちから厄介者としてぞんざいに扱われていた。
そんな息の詰まる日々にようやく終止符を打つことができたのは、皮肉にも、最強の妖祓いへの嫁入りという帝命だった。
雨上がりの冷たい空気を切り裂くように進んでいた豪華な黒塗りの馬車が、ゆっくりと歩みを止めた。
封印師の御三家筆頭である光院家の本邸。
車窓から見える敷地には、見上げるほど高い漆喰の壁と、威圧感すら覚える屋敷がそびえ立っていた。
重厚な造りの正門には、光院家の家紋が染め抜かれた幕が堂々と掲げられている。
「お待ちしておりました奥様、こちらです」
「……はい」
門前で待機していた光院家の者に案内されるがまま、菜子は馬車から降りた。
すっと背筋を正して、帯の乱れがないかを確認する。
花乃井の家ではほんの小さな粗相も許されなかった。〝次〟に期待をされるのは、いつだって真っ当に封印師としての能力を持っている兄妹だけ。
彼女の背後には、花乃井家が御三家としての体面を保つためだけに用意した、家紋入りの豪奢な長持や箪笥が山のように積まれている。
けれど菜子自身の私物が収められているのは、彼女がその手に提げている小さなトランク一つ分だけだった。
門を潜り、屋敷までの長い道のりを歩いていく。
道中に見える庭ひとつとって見ても、さすがは光院家だと言わざるを得ないほど丁寧に整えられていた。
「旦那様、奥様をお連れいたしました」
そして、屋敷の前に立っていたのは、この家の若き当主である光院道孝本人だった。
二十五歳という若さで名家を束ねる彼の凄みは、その佇まいだけで周囲の空気をピンと張り詰めさせている。
感情のすべてを削ぎ落としたかのような彼の視線が、静かに菜子を見据えた。
「光院の家へようこそ」
彼の第一声は、拍子抜けするほど淡々としていた。
菜子を邪険にすることもなく、厄介者として嫌な顔をすることもない。ただどこまでも真っ当な響きだった。
「(彼が自ら挨拶に出向いてくるとは……)」
御三家筆頭の光院家ならば、菜子がどのような能力の持ち主で、これまでどのような扱いを受けていたのかすべて耳に入っているはずだ。
誰が見ても分かるであろう明らかに花乃井の家から厄介払いされた身でありながら、この家の当主が直々に出向いて挨拶をしてくれるとは思いもしなかった。
予想外の待遇に戸惑いながらも、菜子はスッと綺麗な姿勢で頭を下げる。
「花乃井菜子と申します。……どうぞ、よろしくお願いいたします」
ありきたりな挨拶を終えると、広間へと通された。
人払いされた静寂の中で、二人は初めて正面から向き合う。
「(これまで彼の名前は幾度となく耳にしてきたけれど……最後にお会いしたのはいつだっただろうか)」
妖を『解く』という封印とは真逆の力を持つ菜子は、花乃井の家の奥深くで日の当たらない部屋に長く追いやられていた。
そのため、同じ御三家でありながらも他家の者と顔を合わせる機会など皆無に等しかった。
遠い記憶の中にある光院の跡取りは、まだ線の細い物静かな少年だったはず。
御三家の会合で花乃井家が主催になったとき、部屋の窓から彼がやってくる姿を一方的に覗き見たのが最後だった。
「(綺麗な人、ね)」
二十五歳という若さで名家を背負う道孝の顔立ちは、息を呑むほど整っていた。
切れ長の目元に、高く通った鼻筋。感情を一切読ませない漆黒の瞳は恐ろしいほどに静かだというのに、どこか目を逸らせなくなるような美しさを兼ね備えている。
見惚れてはいけないと頭では分かっているのに、菜子はほんの一瞬、瞬きすら忘れてその顔に引き込まれてしまった。
膝の上でぎゅっと手を握りしめながら、あらかじめ決めていたことを口にする。
「──道孝様、ひとつお話をよろしいでしょうか」
「なんです」
「此度の結婚は両家が和解するまで、といたしましょう」
菜子のその言葉を聞いた瞬間、道孝の眉がわずかに動いた。
菜子は動揺を悟られないよう、淡々と続ける。
「元よりこの婚姻は、御三家の不仲を危惧された帝の勅命です。ですが、両家がきちんと和解さえすればその後は離縁の許可も容易に下りるでしょう」
「……」
「そもそも私達の結婚は道孝様が当主になられる前に決められたもの。今や御三家を束ねる立場におられるのですから、この関係を終わらせるくらい簡単なことと思います」
静かな広間に、菜子の凛とした声だけが響く。
光院家の地位にすがりつくでもなく、庇護を求めるでもない。少し前に嫁いできたばかりの娘が、自ら「自分を捨てるための退路」を堂々と用意していたことに、道孝は微かな揺らぎを見せた。
「その理由は?」
少しの間を空けて、道孝の落ち着いた声が菜子の耳に届いた。
まさかこの契約結婚を深掘りされると思っていなかった菜子は、道孝の質問に咄嗟に答えられない。
帝が心配に思うほど亀裂を生み続けている光院家と花乃井家の婚姻を喜ぶものは誰もいなかった。強いていうならば、花乃井家の恥晒しだった菜子を手放すことができた両親の肩荷が下りたことくらいだろうか。
だから菜子の口からそのような話がでたとき、道孝から了承の言葉が出ることはあっても、まさかそれに対して理由を聞かれることなどないと思っていたのだった。
「えっと、それは……」
道孝の問いに答えられない菜子を見た彼は、質問を変えてさらに追求する。
「他に思いを寄せている男がいるのか?」
「ち、違います……!そういうことではございません!ただ……」
「ただ?」
「私と、道孝様とでは……あまりにも不釣り合いだからです」
「……」
「いくら帝の勅命とはいえ、これ以上光院家の皆様にご迷惑をおかけしたくはないのです」
これ以上、誰からも虐げられたくはない。
それが、厄介者として生きてきた菜子の切実な本音だった。
「もしもわたしと別れたとして、その後は何をして生きていくつもりだ?」
探るような彼の低い声に、菜子はかすかに伏し目がちになり、ふっと力なく微笑んだ。
「……詳しいことは、何も」
実家に帰ることはしたくない。花乃井家に出戻ったところで自分の居場所などあるわけがないことは目に見えている。
それどころか離縁したことを恥じとしてさらに疎まれるだけだろう。
ただ、晴れて自由の身になったあかつきには、外の世界を自分の目で見てみたいという密かな夢を昔から持っていた。
外に出ることも許されず、女学校さえ通わせてもらえなかった菜子にとって、花乃井家の屋敷の外は彼女の好奇心を掻き立てた。
その小さな希望を胸の奥に隠して、菜子は真っ直ぐに道孝を見つめ返した。
道孝はしばらくの間、感情の読めない瞳で菜子をじっと見つめていた。
まるですべて見透かされているのではないかと思うほど真っ直ぐなその視線に、菜子は思わず俯いて表情を隠す。
しかし、道孝がそれ以上踏み込んでくることはなかった。
「……分かった。君の望む通り、両家の和解が成立し次第、この婚姻について考え直そう」
「はい」
「ただし、ここにいる間は光院家の妻としての最低限の務めは果たしてもらいたい。その代わり何不自由ない暮らしを保証する」
「もちろんでございます。しっかりとお勤めを果たす所存です」
「ではわたしは仕事へ戻る。君は侍女に屋敷の中でも見て回ってくれ」
「承知いたしました」
道孝は最後まで菜子を突き放すようなことはせず、どこまでも誠実な対応だった。
ほっと安堵するとともに、菜子の胸の奥にほんの小さな痛みが走る。
「(……これでいい。私はここで息を潜めて、ただ時が過ぎるのを待つだけ)」
こうして、二人の夫婦生活が幕を開けた。



