嵐のような三日間が過ぎ去り、後宮には平穏という名の、しかし以前とは全く異なる静寂が戻っていた。
敬妃の侍女でありながらスパイ組織『狐』の最高幹部であった茗翠の身柄は、冽の直属である近衛の最奥へと移され、組織の根は完全に引き抜かれた。これに伴い、無実の罪で没落させられていた我が実家・白家の名誉は完全に回復し、静家が不正に囲い込んでいた財産の一部が、賠償金として白家へ戻されることも決定した。
すべては、事前の契約通りだった。
私は、お茶会が行われたあの御花園の東屋に一人、佇んでいた。
まとっているのは、鳳凰の刺繍が入った紅い花嫁衣裳ではない。下位の「貴人」にふさわしい、装飾の少ない、けれど上質な白い絹の衣服だ。
手元には、すでに荷物をまとめた小さな風呂敷が置いてある。
約束の三日間は終わった。実家の罪は消え、私は自由になった。これからは後宮の最奥にある、誰も立ち入らない冷宮に近い離宮で、望み通り誰にも邪魔されない静かな隠居生活を送るつもりだった。
「――本当に、行ってしまうのだな」
背後から、低く、どこか掠れた声が響いた。
振り返ると、そこには龍の刺繍が施された漆黒の長袍をまとった冽が立っていた。朝廷での戦後処理を終えたばかりなのだろう。その美しい顔には、隠しきれない疲労の色が滲んでいた。
いつもなら、彼は私を見るなり完璧な「嘘の微笑み」を貼り付け、その周囲にドス黒い嘘の煙を渦巻かせていたはずだった。 けれど、いまの彼の周囲には――。
私は、息を呑んだ。
彼の口元からも、全身からも、あの不快な【真っ黒な嘘の煙】が、ひとかけらも出ていなかったのだ。
そこにあるのは、どこまでも透き通った、まるで冬の夜空のような【どこまでも深く、切ない藍色の煙】だった。
藍色は、彼がこれまで一度も他人に見せたことのない、純度100%の「本音の寂しさ」と「孤独」の色だった。
「陛下。お約束通り、私はここを発ちます。白家の名誉を回復していただき、心より感謝申し上げますわ」
私はわざと淡々とした調子で一礼した。
「……私の嘘が見えるお前が、そんな他人行儀な挨拶をするな」
冽が一歩、私へと近づく。床を踏みしめる彼の足音が、いつもより少しだけ重く感じられた。
「契約は完了した。お前の望み通り、後宮の端にある離宮を一生保証してやる。そこでお前は、誰の嘘に怯えることもなく、平穏に暮らせばいい。だが……」
冽は言葉を切り、私の前に置かれた荷物に視線を落とした。
彼の口元から、ふわりと【薄い桃色の煙】が漏れ出る。彼が自分自身の本心に気づき、それを抑え込もうと必死になっている証拠だった。
「本当に、私を一人にするつもりか、雪」
その呼び声は、甘い仮面のものでも、皇帝としての命令のものでもなかった。ただ一人の男が、唯一、自分の醜い内側(嘘)を知ってもなお、隣にいてくれた唯一の理解者を失いたくないと願う、悲痛なまでの本音だった。
「お前がいなくなれば、私はまた、あの真っ黒な嘘の煙だらけの世界に戻らねばならない。誰も信じられず、自分さえも騙し続け、完璧な嘘の笑顔だけでこの血塗られた玉座を守り続ける……。そんな毎日に、私はもう戻りたくないのだ」
冽の切れ長の瞳が、まっすぐに私を射抜いていた。彼の全身を包む藍色と桃色の煙が、激しく混ざり合い、まるで美しい星雲のように東屋の中に広がっていく。
「雪。これは契約ではない。私からの、生涯最初で最後の『懇願』だ。……私の隣に、いてくれないか」
皇帝が、ただの一介の貴人に頭を下げるような、あり得ないセリフだった。
普通の娘なら、この熱烈な告白に胸を打たれ、涙を流して彼の胸に飛び込んだだろう。
けれど、私は白家の娘。そして、彼の嘘を監視し続けてきた「嘘つき看守」だ。
私は手元に置いていた風呂敷包みを、ゆっくりと持ち上げた。
「陛下。お言葉ですが、私はお飾りで、しかも身分の低い『貴人』ですわ。そんな私が皇帝の真隣に居座り続ければ、後宮の他の妃たちが黙っていません。また嫉妬の紫や、保身の黄色の煙が私の周りで吹き荒れることになります。私は、あの息苦しい空間が何よりも嫌いなのです」
私の冷淡な言葉に、冽の顔が絶望に染まりかけた。彼の青い煙が、一瞬にして濃くなる。
私はそれを見届けると、意地悪な笑みを浮かべ、風呂敷包みを――冽の胸元へと、ぽんと押し付けた。
「ですから、陛下。条件を変更いたしますわ」
「……条件?」
荷物を受け取った冽が、呆然と私を見つめる。
「ええ。私は後宮の端の離宮へは行きません。その代わり――乾清宮の陛下の寝室の隣にある、あの秘密の書斎を私の『新しい看守室』としてリフォームしてください。位なんて、貴人のままで結構です。その代わり、陛下が朝廷や他の妃の前で少しでも見苦しい黒い煙を吐いたなら、私はすぐに、あの袖口の鋼糸で陛下の身柄を拘束いたしますから」
冽は数秒の間、私の言葉の意味を理解しようとするかのように、目をパチパチとさせた。
やがて、彼の口元から、これまでに見たこともないような【鮮やかで、眩いほどの純粋な桃色と金色の煙】が、爆発的な勢いで噴き出してきた。
それは、「歓喜」と「心からの愛着」が混ざり合った、この世で最も美しい本音の色彩だった。
「……お前という女は、どこまでいっても私の想像を超えていくな」
冽は観念したように低く笑うと、胸に抱いていた荷物を床へと放り出し、私の身体をその強い腕で力いっぱい抱きしめた。
彼の龍涎香の香りと、温かい体温が、私の全身を包み込む。彼の全身から溢れる金色の光のような煙が、私の視界を優しく、優しく満たしていった。
「ああ、約束しよう。お前が私の看守だ。私が嘘を吐くたびに、お前がその目で私を正せ。お前がいる限り、私はこの孤独な玉座の上でも、本物の人間でいられる」
「ええ、陛下。愛のない契約結婚から始まった関係ですもの。これからも徹底的に、お互いの化かし合いを監視し合いましょうね」
私は彼の広い背中に手を回し、その温もりを確かに感じながら、いたずらっぽく微笑んだ。
私たちは、互いに「愛している」という、後宮で最も手垢のついた安易な言葉は、最後まで一度も口にしなかった。そんな言葉を使わずとも、私たちの間には、目に見える色彩よりもはるかに強固な、世界で唯一無二の「絆」が結ばれていたからだ。
東屋の外では、静かな雪が、白く美しい世界をどこまでも清らかに染め上げていた。
凍てつく冬の宮廷の奥深くで、嘘つきな皇帝と、すべてを見透かす看守妃の、歪で完璧な新しい婚姻生活が、いま本当の始まりを告げたのだった。
敬妃の侍女でありながらスパイ組織『狐』の最高幹部であった茗翠の身柄は、冽の直属である近衛の最奥へと移され、組織の根は完全に引き抜かれた。これに伴い、無実の罪で没落させられていた我が実家・白家の名誉は完全に回復し、静家が不正に囲い込んでいた財産の一部が、賠償金として白家へ戻されることも決定した。
すべては、事前の契約通りだった。
私は、お茶会が行われたあの御花園の東屋に一人、佇んでいた。
まとっているのは、鳳凰の刺繍が入った紅い花嫁衣裳ではない。下位の「貴人」にふさわしい、装飾の少ない、けれど上質な白い絹の衣服だ。
手元には、すでに荷物をまとめた小さな風呂敷が置いてある。
約束の三日間は終わった。実家の罪は消え、私は自由になった。これからは後宮の最奥にある、誰も立ち入らない冷宮に近い離宮で、望み通り誰にも邪魔されない静かな隠居生活を送るつもりだった。
「――本当に、行ってしまうのだな」
背後から、低く、どこか掠れた声が響いた。
振り返ると、そこには龍の刺繍が施された漆黒の長袍をまとった冽が立っていた。朝廷での戦後処理を終えたばかりなのだろう。その美しい顔には、隠しきれない疲労の色が滲んでいた。
いつもなら、彼は私を見るなり完璧な「嘘の微笑み」を貼り付け、その周囲にドス黒い嘘の煙を渦巻かせていたはずだった。 けれど、いまの彼の周囲には――。
私は、息を呑んだ。
彼の口元からも、全身からも、あの不快な【真っ黒な嘘の煙】が、ひとかけらも出ていなかったのだ。
そこにあるのは、どこまでも透き通った、まるで冬の夜空のような【どこまでも深く、切ない藍色の煙】だった。
藍色は、彼がこれまで一度も他人に見せたことのない、純度100%の「本音の寂しさ」と「孤独」の色だった。
「陛下。お約束通り、私はここを発ちます。白家の名誉を回復していただき、心より感謝申し上げますわ」
私はわざと淡々とした調子で一礼した。
「……私の嘘が見えるお前が、そんな他人行儀な挨拶をするな」
冽が一歩、私へと近づく。床を踏みしめる彼の足音が、いつもより少しだけ重く感じられた。
「契約は完了した。お前の望み通り、後宮の端にある離宮を一生保証してやる。そこでお前は、誰の嘘に怯えることもなく、平穏に暮らせばいい。だが……」
冽は言葉を切り、私の前に置かれた荷物に視線を落とした。
彼の口元から、ふわりと【薄い桃色の煙】が漏れ出る。彼が自分自身の本心に気づき、それを抑え込もうと必死になっている証拠だった。
「本当に、私を一人にするつもりか、雪」
その呼び声は、甘い仮面のものでも、皇帝としての命令のものでもなかった。ただ一人の男が、唯一、自分の醜い内側(嘘)を知ってもなお、隣にいてくれた唯一の理解者を失いたくないと願う、悲痛なまでの本音だった。
「お前がいなくなれば、私はまた、あの真っ黒な嘘の煙だらけの世界に戻らねばならない。誰も信じられず、自分さえも騙し続け、完璧な嘘の笑顔だけでこの血塗られた玉座を守り続ける……。そんな毎日に、私はもう戻りたくないのだ」
冽の切れ長の瞳が、まっすぐに私を射抜いていた。彼の全身を包む藍色と桃色の煙が、激しく混ざり合い、まるで美しい星雲のように東屋の中に広がっていく。
「雪。これは契約ではない。私からの、生涯最初で最後の『懇願』だ。……私の隣に、いてくれないか」
皇帝が、ただの一介の貴人に頭を下げるような、あり得ないセリフだった。
普通の娘なら、この熱烈な告白に胸を打たれ、涙を流して彼の胸に飛び込んだだろう。
けれど、私は白家の娘。そして、彼の嘘を監視し続けてきた「嘘つき看守」だ。
私は手元に置いていた風呂敷包みを、ゆっくりと持ち上げた。
「陛下。お言葉ですが、私はお飾りで、しかも身分の低い『貴人』ですわ。そんな私が皇帝の真隣に居座り続ければ、後宮の他の妃たちが黙っていません。また嫉妬の紫や、保身の黄色の煙が私の周りで吹き荒れることになります。私は、あの息苦しい空間が何よりも嫌いなのです」
私の冷淡な言葉に、冽の顔が絶望に染まりかけた。彼の青い煙が、一瞬にして濃くなる。
私はそれを見届けると、意地悪な笑みを浮かべ、風呂敷包みを――冽の胸元へと、ぽんと押し付けた。
「ですから、陛下。条件を変更いたしますわ」
「……条件?」
荷物を受け取った冽が、呆然と私を見つめる。
「ええ。私は後宮の端の離宮へは行きません。その代わり――乾清宮の陛下の寝室の隣にある、あの秘密の書斎を私の『新しい看守室』としてリフォームしてください。位なんて、貴人のままで結構です。その代わり、陛下が朝廷や他の妃の前で少しでも見苦しい黒い煙を吐いたなら、私はすぐに、あの袖口の鋼糸で陛下の身柄を拘束いたしますから」
冽は数秒の間、私の言葉の意味を理解しようとするかのように、目をパチパチとさせた。
やがて、彼の口元から、これまでに見たこともないような【鮮やかで、眩いほどの純粋な桃色と金色の煙】が、爆発的な勢いで噴き出してきた。
それは、「歓喜」と「心からの愛着」が混ざり合った、この世で最も美しい本音の色彩だった。
「……お前という女は、どこまでいっても私の想像を超えていくな」
冽は観念したように低く笑うと、胸に抱いていた荷物を床へと放り出し、私の身体をその強い腕で力いっぱい抱きしめた。
彼の龍涎香の香りと、温かい体温が、私の全身を包み込む。彼の全身から溢れる金色の光のような煙が、私の視界を優しく、優しく満たしていった。
「ああ、約束しよう。お前が私の看守だ。私が嘘を吐くたびに、お前がその目で私を正せ。お前がいる限り、私はこの孤独な玉座の上でも、本物の人間でいられる」
「ええ、陛下。愛のない契約結婚から始まった関係ですもの。これからも徹底的に、お互いの化かし合いを監視し合いましょうね」
私は彼の広い背中に手を回し、その温もりを確かに感じながら、いたずらっぽく微笑んだ。
私たちは、互いに「愛している」という、後宮で最も手垢のついた安易な言葉は、最後まで一度も口にしなかった。そんな言葉を使わずとも、私たちの間には、目に見える色彩よりもはるかに強固な、世界で唯一無二の「絆」が結ばれていたからだ。
東屋の外では、静かな雪が、白く美しい世界をどこまでも清らかに染め上げていた。
凍てつく冬の宮廷の奥深くで、嘘つきな皇帝と、すべてを見透かす看守妃の、歪で完璧な新しい婚姻生活が、いま本当の始まりを告げたのだった。



