乾清宮の寝室に、冷たい月光が一条の筋となって差し込んでいた。
ベッドの中で死んだように息を殺していた私は、掛け布団の下で、漢服の袖口に仕込んだ「あるもの」に指をかけていた。
枕元に迫る気配。頭上から振り下ろされる、毒を塗られた短剣の冷気。
「――そこまでだ、狐」
その瞬間、帳の影から電光石火の勢いで躍り出た冽の長剣が、暗殺者の短剣を真横から弾き飛ばした。金属同士が激しくぶつかり合う火花が、一瞬だけ闇を白く照らし出す。
私は即座に布団を跳ね除け、ベッドから転がり出るようにして距離を取った。
「くっ……!」
低く鋭い声が響く。月光の下に晒されたのは、やはり敬妃の影に隠れていた無口な侍女――茗翠だった。
彼女の全身の周囲には、相変わらず【日常の建前の灰色さえもない、完全な無色透明】の不気味な空気が漂っている。心が完全に壊され、操られている証拠だ。彼女は罠だと気づきながらも、私の命を確実に絶つために、この危険な寝室へと飛び込んできたのだ。
「やはりお前だったか、茗翠。十年前の戦争の生き残りが、よくもこれまで私の後宮で息を潜めていたものだ」
冽が長剣を構え、氷のような声で言い放つ。彼の体からは、敵に対する激しい敵意を示す【血のような赤黒い煙】が猛烈に噴き出していた。
「……計算違いでした。まさか、あの白家の娘が、私の『無色』を見破るとは」
茗翠の声には、抑揚が一切なかった。
「ですが、皇帝。あなたがその娘をどれほど愛おしもうと、私たちの計画は止まりません。国境はすでに開かれました」
「寝言はあの世で言え」
冽が床を蹴った。彼の剣技は一国の主とは思えないほど苛烈で、一撃一撃が茗翠の身体を確実に追い詰めていく。
しかし、茗翠もまた、ただの侍女ではなかった。彼女の細い身体からは想像もつかない怪力と、人間の限界を超えた身のこなしで、冽の剣を受け流していく。心が壊れている彼女は、肉体の限界というブレーキが存在しないのだ。
激しい攻防が数十秒続いた、その時。
茗翠は冽の猛攻をまともに受けると見せかけ、わざと体勢を崩して後方へと吹っ飛んだ。その着地先は――部屋の隅に避難していた、私のすぐ目の前だった。
「雪!」
冽の叫び声が響く。 茗翠が隠し持っていたもう一本の細い針が、私の喉元にピタリと突きつけられた。彼女の冷たい腕が、私の身体を後ろからがっちりと固定する。
「動かないで、皇帝。一歩でも進めば、この娘の頸動脈を突き通します」
完全に人質に取られた。冽の足が、ぴたりと止まった。
彼は剣を構えたまま、ギリ、と奥歯を鳴らした。その美貌には、いつもの冷酷な独裁者の仮面が戻っていた。
「……ふん、愚かな奴め。そんな女を人質にして、私を脅せると思ったか?」
冽は冷ややかに笑い、私の目を見据えながら声を張った。
「私はその女を、お前たち『狐』をおびき寄せるための『囮』として雇ったに過ぎない。愛のない契約結婚だ。ただの使い捨ての道具がどうなろうと、この私の心が痛むとでも思うのか? 殺したければ殺すがいい。その後で、お前を八つ裂きにしてやる」
その言葉は、あまりにも残酷で、冷徹だった。
しかし、彼の口元から、いや、彼の全身から、【部屋の天井を突き破らんばかりの、猛烈な大爆発を起こしたような『烈火の赤』と、狂おしいほどの『焦燥の桃色』の煙】が噴き出していた。
口では冷酷に突き放しながらも、彼の本心は、私が傷つけられるかもしれないという恐怖に狂いそうになっていた。私を死なせないために、必死で暗殺者を油断させようとする、あまりにも不器用で、命懸けの「嘘」だった。
(……もう、陛下ったら。嘘が下手くそすぎますわ。それに、私のことをそんなに弱くて儚いお人形だと思っていましたの?)
私は、彼の煙に込められた本当の意図を完璧に理解した。
私の実家、白家は武官の名門だ。没落令嬢として大人しく振る舞ってはいたが、私は幼少期から、父や兄たちに徹底的に叩き込まれた「暗殺を無力化する護身の極意」を持っていた。
「陛下、100点満点で見切りましたわ。――『狐』、私をただの薬師か何かと一緒にしないで」
私がフッと冷たい笑みを浮かべた瞬間、私の右袖の奥から、シャランと冷たい金属音が響いた。
「なっ――」
茗翠が気づいた時には遅かった。私が袖口から滑り出させたのは、白家に伝わる極細の鋼糸――「捕縛糸(ほばくし)」だった。
私は人質に取られた状態のまま、指先の信じられない精密な動きだけで、私の首を狙っていた茗翠の手首へ瞬時に糸を巻き付け、そのまま彼女の腕の関節の「経穴(けいけつ:ツボ)」へと鋼の針を深く刺し通した。
経穴を正確に破壊された茗翠の右腕が、麻痺したように完全に脱力し、ポロリと暗殺の針が床へ落ちる。
肉体のブレーキがない茗翠であっても、神経の伝達を物理的に遮断された腕は動かせない。
「しまっ――」
「そこをどけ、雪!!」
茗翠の拘束が一瞬で解けたその刹那、冽の力強い蹴りが茗翠の腹部を捉える。壁まで吹き飛んだ彼女は、今度こそ意識を失い、床へと崩れ落ちた。完全な無力化だった。
「……はぁ」
私は首筋を軽くさすりながら、指先に巻き付いた鋼糸を慣れた手つきで袖の奥へと格納した。
「…………え?」
部屋の真ん中で、長剣を構えたままの冽が、文字通り石のように硬直していた。
彼の美しい顔は完全に驚愕に引きつり、その口元からは、これまでに見たこともないような【真っ白な、大混乱を表す煙】が、煙突のようにモクモクと立ち上っていた。
「雪……お前、いま、何をした……? その糸は……」
「白家は武官の家系ですもの。人の嘘(隙)を見つける目があるのですから、そこに一瞬で針を通す技術くらい、嗜みとして叩き込まれておりますわ。陛下こそ、口では『ただの道具』とおっしゃいながら、全身から私を心配する桃色の煙が爆発していましたわよ?」
「うっ……!」
冽は顔を真っ赤に染め、バツが悪そうに視線を逸らした。彼の周囲の煙が、白から一気に【純粋な桃色】へと変わり、激しく揺れ動いている。他人の嘘は見破れても、自分自身の雪への感情と、彼女のプロフェッショナルな強さという現実の前に、皇帝としてのプライドは完全に形無しだった。
「……お前は本当に、可愛げのない嘘つき看守だな」
「お互い様ですわ、陛下」
床に倒れる真犯人を前に、私たちは視線を合わせ、今度は本物の、嘘のない笑みを交わし合ったのだった。
ベッドの中で死んだように息を殺していた私は、掛け布団の下で、漢服の袖口に仕込んだ「あるもの」に指をかけていた。
枕元に迫る気配。頭上から振り下ろされる、毒を塗られた短剣の冷気。
「――そこまでだ、狐」
その瞬間、帳の影から電光石火の勢いで躍り出た冽の長剣が、暗殺者の短剣を真横から弾き飛ばした。金属同士が激しくぶつかり合う火花が、一瞬だけ闇を白く照らし出す。
私は即座に布団を跳ね除け、ベッドから転がり出るようにして距離を取った。
「くっ……!」
低く鋭い声が響く。月光の下に晒されたのは、やはり敬妃の影に隠れていた無口な侍女――茗翠だった。
彼女の全身の周囲には、相変わらず【日常の建前の灰色さえもない、完全な無色透明】の不気味な空気が漂っている。心が完全に壊され、操られている証拠だ。彼女は罠だと気づきながらも、私の命を確実に絶つために、この危険な寝室へと飛び込んできたのだ。
「やはりお前だったか、茗翠。十年前の戦争の生き残りが、よくもこれまで私の後宮で息を潜めていたものだ」
冽が長剣を構え、氷のような声で言い放つ。彼の体からは、敵に対する激しい敵意を示す【血のような赤黒い煙】が猛烈に噴き出していた。
「……計算違いでした。まさか、あの白家の娘が、私の『無色』を見破るとは」
茗翠の声には、抑揚が一切なかった。
「ですが、皇帝。あなたがその娘をどれほど愛おしもうと、私たちの計画は止まりません。国境はすでに開かれました」
「寝言はあの世で言え」
冽が床を蹴った。彼の剣技は一国の主とは思えないほど苛烈で、一撃一撃が茗翠の身体を確実に追い詰めていく。
しかし、茗翠もまた、ただの侍女ではなかった。彼女の細い身体からは想像もつかない怪力と、人間の限界を超えた身のこなしで、冽の剣を受け流していく。心が壊れている彼女は、肉体の限界というブレーキが存在しないのだ。
激しい攻防が数十秒続いた、その時。
茗翠は冽の猛攻をまともに受けると見せかけ、わざと体勢を崩して後方へと吹っ飛んだ。その着地先は――部屋の隅に避難していた、私のすぐ目の前だった。
「雪!」
冽の叫び声が響く。 茗翠が隠し持っていたもう一本の細い針が、私の喉元にピタリと突きつけられた。彼女の冷たい腕が、私の身体を後ろからがっちりと固定する。
「動かないで、皇帝。一歩でも進めば、この娘の頸動脈を突き通します」
完全に人質に取られた。冽の足が、ぴたりと止まった。
彼は剣を構えたまま、ギリ、と奥歯を鳴らした。その美貌には、いつもの冷酷な独裁者の仮面が戻っていた。
「……ふん、愚かな奴め。そんな女を人質にして、私を脅せると思ったか?」
冽は冷ややかに笑い、私の目を見据えながら声を張った。
「私はその女を、お前たち『狐』をおびき寄せるための『囮』として雇ったに過ぎない。愛のない契約結婚だ。ただの使い捨ての道具がどうなろうと、この私の心が痛むとでも思うのか? 殺したければ殺すがいい。その後で、お前を八つ裂きにしてやる」
その言葉は、あまりにも残酷で、冷徹だった。
しかし、彼の口元から、いや、彼の全身から、【部屋の天井を突き破らんばかりの、猛烈な大爆発を起こしたような『烈火の赤』と、狂おしいほどの『焦燥の桃色』の煙】が噴き出していた。
口では冷酷に突き放しながらも、彼の本心は、私が傷つけられるかもしれないという恐怖に狂いそうになっていた。私を死なせないために、必死で暗殺者を油断させようとする、あまりにも不器用で、命懸けの「嘘」だった。
(……もう、陛下ったら。嘘が下手くそすぎますわ。それに、私のことをそんなに弱くて儚いお人形だと思っていましたの?)
私は、彼の煙に込められた本当の意図を完璧に理解した。
私の実家、白家は武官の名門だ。没落令嬢として大人しく振る舞ってはいたが、私は幼少期から、父や兄たちに徹底的に叩き込まれた「暗殺を無力化する護身の極意」を持っていた。
「陛下、100点満点で見切りましたわ。――『狐』、私をただの薬師か何かと一緒にしないで」
私がフッと冷たい笑みを浮かべた瞬間、私の右袖の奥から、シャランと冷たい金属音が響いた。
「なっ――」
茗翠が気づいた時には遅かった。私が袖口から滑り出させたのは、白家に伝わる極細の鋼糸――「捕縛糸(ほばくし)」だった。
私は人質に取られた状態のまま、指先の信じられない精密な動きだけで、私の首を狙っていた茗翠の手首へ瞬時に糸を巻き付け、そのまま彼女の腕の関節の「経穴(けいけつ:ツボ)」へと鋼の針を深く刺し通した。
経穴を正確に破壊された茗翠の右腕が、麻痺したように完全に脱力し、ポロリと暗殺の針が床へ落ちる。
肉体のブレーキがない茗翠であっても、神経の伝達を物理的に遮断された腕は動かせない。
「しまっ――」
「そこをどけ、雪!!」
茗翠の拘束が一瞬で解けたその刹那、冽の力強い蹴りが茗翠の腹部を捉える。壁まで吹き飛んだ彼女は、今度こそ意識を失い、床へと崩れ落ちた。完全な無力化だった。
「……はぁ」
私は首筋を軽くさすりながら、指先に巻き付いた鋼糸を慣れた手つきで袖の奥へと格納した。
「…………え?」
部屋の真ん中で、長剣を構えたままの冽が、文字通り石のように硬直していた。
彼の美しい顔は完全に驚愕に引きつり、その口元からは、これまでに見たこともないような【真っ白な、大混乱を表す煙】が、煙突のようにモクモクと立ち上っていた。
「雪……お前、いま、何をした……? その糸は……」
「白家は武官の家系ですもの。人の嘘(隙)を見つける目があるのですから、そこに一瞬で針を通す技術くらい、嗜みとして叩き込まれておりますわ。陛下こそ、口では『ただの道具』とおっしゃいながら、全身から私を心配する桃色の煙が爆発していましたわよ?」
「うっ……!」
冽は顔を真っ赤に染め、バツが悪そうに視線を逸らした。彼の周囲の煙が、白から一気に【純粋な桃色】へと変わり、激しく揺れ動いている。他人の嘘は見破れても、自分自身の雪への感情と、彼女のプロフェッショナルな強さという現実の前に、皇帝としてのプライドは完全に形無しだった。
「……お前は本当に、可愛げのない嘘つき看守だな」
「お互い様ですわ、陛下」
床に倒れる真犯人を前に、私たちは視線を合わせ、今度は本物の、嘘のない笑みを交わし合ったのだった。



