視界が、急速に歪んでいく。
二の腕をかすめた小さな毒矢。たったそれだけの傷のはずなのに、傷口から侵入した毒は、瞬く間に私の全身の血管を駆け巡り、激しい熱となって脳を焼き始めていた。
体の自由が利かなくなり、床へ倒れ込みそうになった私の体を、強い力が抱きとめた。
「――雪! 目を開けろ、雪!」
冽の声が、ひどく遠くで聞こえる。いつも冷静沈着な彼の声が、信じられないほどに激しく張り詰めていた。
朦朧とする意識の中で、私は必死に彼の口元を見た。
その瞬間、私は息を呑んだ。
彼の周囲を覆っていた完璧な「嘘の仮面」――あの黒い煙が、完全に吹き飛んでいたのだ。代わりに彼の全身から噴き出していたのは、【見たこともないほどに鮮烈な、烈火のような赤と、焦燥の濃い桃色の煙】だった。
赤は「怒りと激情」、桃色は「深い愛着(恋心)」。
「嘘だろ……お前、なぜ私を庇った……!」
冽の言葉には煙が一切交じっていない。100%の本音だった。彼は、私の命が消えかけていることに、自分自身の魂が引き裂かれるほどの恐怖と怒りを感じているのだ。
「へ、いか……黒い煙が……消えて、ます……」
「黙れ! 喋るな!」
冽は私を横抱きにすると、図書閣の闇を切り裂くようにして走り出した。背後から迫る「無色透明」の暗殺者たちを、彼は片手に持った長剣の一振りで次々と一蹴していく。我が身を顧みない、獰猛なまでの戦いぶりだった。
どれほどの時間が経っただろう。
気づけば、私は乾清宮のさらに奥にある、皇帝しか立ち入ることを許されない「秘密の寝室」のベッドに横たえられていた。 部屋には医官の姿すらない。誰のことも信用していない冽は、私の治療さえ自分で行うつもりなのだ。
「痛むか。すぐに毒を出す」
冽は手際よく私の漢服の袖を切り裂き、黒く変色し始めた傷口を露出させた。彼の額からは、大粒の汗が滴り落ちている。 彼は懐から鋭い小刀を取り出すと、その刃を蝋燭の炎で清め、私の傷口を小さく切り開いた。激痛が走り、私は短く悲鳴を上げる。
「堪えろ。この毒は国境の部族が使う『蛇蝎の毒』だ。一刻も早く体外へ排出せねば、五臓六腑が溶けて死ぬ」
冽の言葉は冷酷に聞こえる。しかし、彼の口元から立ち上る煙は、相変わらず激しい【涙色の青と、焦燥の赤】が混ざり合い、嵐のように渦巻いていた。彼は、私が死ぬかもしれないという恐怖に、狂いそうになっている。
冽は躊躇うことなく、私の傷口に自身の唇を押し当てた。
「……!? 陛下、何を……毒が……!」
「動くなと言っている!」
彼は私の制止を無視し、傷口から毒血を強く吸い出すと、それを床にペッと吐き捨てた。それを何度も、何度も繰り返す。皇帝という至高の身でありながら、下位の貴人に過ぎない私のために、自ら毒を吸い出すなどという命懸けの行為を、彼は一切の迷いなく行っていた。
やがて、床に吐き出される血が赤みを取り戻した頃、冽は私から唇を離した。彼の美しい唇には、私の毒血が薄く付着して妖しく光っている。
彼は棚から取り出した白い粉末の薬を傷口に擦り込み、清潔な布で手際よく包帯を巻いた。
全ての処置が終わったとき、私は熱が引き始め、確かな呼吸を取り戻していた。
冽はベッドの脇に力なく腰掛け、自身の長い前髪を荒々しくかき上げた。
「……愚かな女だ」
冽は冷たく私を見下ろし、いつもの低い声で言い放った。
「私はお前をただの『囮』として雇ったに過ぎない。契約相手が、雇い主の身代わりに死んでどうする。お前が死ねば、スパイを暴く私の計画が全て台無しになるところだった」
――その言葉を発した瞬間。 彼の口元から、再び【薄汚れた、真っ黒な嘘の煙】がふわりと立ち上った。
私は、思わず小さく笑ってしまった。
「……何がおかしい」
「いえ……陛下。口では私のことを『ただの囮』とおっしゃるのに、その口元からは、とても見事な黒い煙が出ていますわ」
私はまだ動かない手を伸ばし、彼の冷たい頬にそっと触れた。
「あなたが私を吸命されるとき、あなたの周囲には一切の嘘がありませんでした。あなたが私を失うことを、どれほど恐れてくださったか……私の目には、全て色付きで見えていたのですから」
冽の身体が、びくりと強張った。
彼は私の手を振り払おうとしたが、その力は驚くほど弱かった。
黒い煙の奥から、再びあの【濃い桃色の煙】がじわじわと染み出してくる。他人の嘘は見破れても、自分自身の雪への感情という「嘘」だけは、もう私の前で隠し通せないことを、彼は思い知ったのだ。
「お前は……本当に、可愛げのない看守だな」
冽は観念したように息を吐くと、私の頬を自身の冷たい手で包み込んだ。
「ああ、認めよう。お前を死なせたくなかった。お前がいない後宮など、またあの退屈で呪われた嘘だけの世界に戻ってしまう。私は、それが耐え難いほど恐ろしかったのだ」
言葉と本音が、初めて完全に一致した瞬間だった。彼の周囲には、濁りのない純粋な桃色の光が優しく灯っていた。愛のない契約結婚だったはずの二人の間に、目に見える確かな絆が生まれた夜だった。
「ですが、陛下。まだ安心はできませんわ」
私は彼を見つめ返し、真剣な声で言った。
「図書閣に現れたあの暗殺者たち……彼らの『無色透明な煙』の特徴。私、気づいてしまったのです。私たちが探すべき真犯人の正体に」
二の腕をかすめた小さな毒矢。たったそれだけの傷のはずなのに、傷口から侵入した毒は、瞬く間に私の全身の血管を駆け巡り、激しい熱となって脳を焼き始めていた。
体の自由が利かなくなり、床へ倒れ込みそうになった私の体を、強い力が抱きとめた。
「――雪! 目を開けろ、雪!」
冽の声が、ひどく遠くで聞こえる。いつも冷静沈着な彼の声が、信じられないほどに激しく張り詰めていた。
朦朧とする意識の中で、私は必死に彼の口元を見た。
その瞬間、私は息を呑んだ。
彼の周囲を覆っていた完璧な「嘘の仮面」――あの黒い煙が、完全に吹き飛んでいたのだ。代わりに彼の全身から噴き出していたのは、【見たこともないほどに鮮烈な、烈火のような赤と、焦燥の濃い桃色の煙】だった。
赤は「怒りと激情」、桃色は「深い愛着(恋心)」。
「嘘だろ……お前、なぜ私を庇った……!」
冽の言葉には煙が一切交じっていない。100%の本音だった。彼は、私の命が消えかけていることに、自分自身の魂が引き裂かれるほどの恐怖と怒りを感じているのだ。
「へ、いか……黒い煙が……消えて、ます……」
「黙れ! 喋るな!」
冽は私を横抱きにすると、図書閣の闇を切り裂くようにして走り出した。背後から迫る「無色透明」の暗殺者たちを、彼は片手に持った長剣の一振りで次々と一蹴していく。我が身を顧みない、獰猛なまでの戦いぶりだった。
どれほどの時間が経っただろう。
気づけば、私は乾清宮のさらに奥にある、皇帝しか立ち入ることを許されない「秘密の寝室」のベッドに横たえられていた。 部屋には医官の姿すらない。誰のことも信用していない冽は、私の治療さえ自分で行うつもりなのだ。
「痛むか。すぐに毒を出す」
冽は手際よく私の漢服の袖を切り裂き、黒く変色し始めた傷口を露出させた。彼の額からは、大粒の汗が滴り落ちている。 彼は懐から鋭い小刀を取り出すと、その刃を蝋燭の炎で清め、私の傷口を小さく切り開いた。激痛が走り、私は短く悲鳴を上げる。
「堪えろ。この毒は国境の部族が使う『蛇蝎の毒』だ。一刻も早く体外へ排出せねば、五臓六腑が溶けて死ぬ」
冽の言葉は冷酷に聞こえる。しかし、彼の口元から立ち上る煙は、相変わらず激しい【涙色の青と、焦燥の赤】が混ざり合い、嵐のように渦巻いていた。彼は、私が死ぬかもしれないという恐怖に、狂いそうになっている。
冽は躊躇うことなく、私の傷口に自身の唇を押し当てた。
「……!? 陛下、何を……毒が……!」
「動くなと言っている!」
彼は私の制止を無視し、傷口から毒血を強く吸い出すと、それを床にペッと吐き捨てた。それを何度も、何度も繰り返す。皇帝という至高の身でありながら、下位の貴人に過ぎない私のために、自ら毒を吸い出すなどという命懸けの行為を、彼は一切の迷いなく行っていた。
やがて、床に吐き出される血が赤みを取り戻した頃、冽は私から唇を離した。彼の美しい唇には、私の毒血が薄く付着して妖しく光っている。
彼は棚から取り出した白い粉末の薬を傷口に擦り込み、清潔な布で手際よく包帯を巻いた。
全ての処置が終わったとき、私は熱が引き始め、確かな呼吸を取り戻していた。
冽はベッドの脇に力なく腰掛け、自身の長い前髪を荒々しくかき上げた。
「……愚かな女だ」
冽は冷たく私を見下ろし、いつもの低い声で言い放った。
「私はお前をただの『囮』として雇ったに過ぎない。契約相手が、雇い主の身代わりに死んでどうする。お前が死ねば、スパイを暴く私の計画が全て台無しになるところだった」
――その言葉を発した瞬間。 彼の口元から、再び【薄汚れた、真っ黒な嘘の煙】がふわりと立ち上った。
私は、思わず小さく笑ってしまった。
「……何がおかしい」
「いえ……陛下。口では私のことを『ただの囮』とおっしゃるのに、その口元からは、とても見事な黒い煙が出ていますわ」
私はまだ動かない手を伸ばし、彼の冷たい頬にそっと触れた。
「あなたが私を吸命されるとき、あなたの周囲には一切の嘘がありませんでした。あなたが私を失うことを、どれほど恐れてくださったか……私の目には、全て色付きで見えていたのですから」
冽の身体が、びくりと強張った。
彼は私の手を振り払おうとしたが、その力は驚くほど弱かった。
黒い煙の奥から、再びあの【濃い桃色の煙】がじわじわと染み出してくる。他人の嘘は見破れても、自分自身の雪への感情という「嘘」だけは、もう私の前で隠し通せないことを、彼は思い知ったのだ。
「お前は……本当に、可愛げのない看守だな」
冽は観念したように息を吐くと、私の頬を自身の冷たい手で包み込んだ。
「ああ、認めよう。お前を死なせたくなかった。お前がいない後宮など、またあの退屈で呪われた嘘だけの世界に戻ってしまう。私は、それが耐え難いほど恐ろしかったのだ」
言葉と本音が、初めて完全に一致した瞬間だった。彼の周囲には、濁りのない純粋な桃色の光が優しく灯っていた。愛のない契約結婚だったはずの二人の間に、目に見える確かな絆が生まれた夜だった。
「ですが、陛下。まだ安心はできませんわ」
私は彼を見つめ返し、真剣な声で言った。
「図書閣に現れたあの暗殺者たち……彼らの『無色透明な煙』の特徴。私、気づいてしまったのです。私たちが探すべき真犯人の正体に」



