敬妃が自宮に幽閉された翌日の深夜。後宮の東端にそびえ立つ、歴代の古文書が眠る「図書閣(としょかく)」は、生き物の気配が一切ない完全な静寂に包まれていた。
普段なら厳重な警備が敷かれているはずのこの場所に、いま、私と皇帝・冽は二人きりで忍び込んでいた。
「足元に気をつけろ、雪。ここから先は朝廷の最高機密が保管されている禁書エリアだ」
冽が手にした一本の蝋燭が、埃の舞う暗闇をぼんやりと照らし出す。彼の声は低く、私の耳元でかすかに響いた。
昼間のお茶会で見せるような甘い仮面の笑顔はどこにもない。けれど、昨夜彼を包んでいたあの自分自身を騙すような【漆黒の嘘の煙】も、いまは薄らいでいた。いまの彼は、ただ純粋に目的を見据える冷徹な一匹の狼のようだった。
「わかっております。ですが陛下、本当にここへスパイ組織『狐』の手がかりがあるのですか?」
「ああ。敬妃の実家が白家を嵌めた件は、単なる地方の汚職だ。だが、静家が密貿易を行っていた東部国境の港――あそこは十年前、敵国との間で凄惨な大戦が起きた場所でもある。当時の軍事記録と、後宮への人員の出入りを突き合わせれば、必ず何かが浮き彫りになるはずだ」
私たちは天井まで届く巨大な書架の間を抜け、色褪せた古い竹簡や書物が並ぶ部屋の奥へと進んだ。
冽は手際よく目的の年代の記録を探し出し、机の上に広げる。蝋燭の小さな灯りを二人で囲むようにして、私たちは顔を近づけて文字を追った。
静寂の中、ページをめくる音だけがサラサラと響く。
ふと、隣にいる冽の横顔が目に入った。整った鼻筋、長く美しい睫毛。その瞳は驚くほど真剣で、同時にどこかひどく疲弊しているようにも見えた。十九歳という若さで、巨大な帝国の頂点に立ち、四方から向けられる殺意と嘘の中で生き抜いてきた男の、これが本当の素顔なのだろう。
「陛下」
「なんだ。文字の読み間違いか?」
「いえ……。なぜそこまで、ご自身を追い詰めるのですか。スパイを見つけ出すためとはいえ、皇帝自ら夜中にこんな場所へ潜り込むなど、一歩間違えれば暗殺の絶好の機会を与えてしまうようなものですわ」
私の言葉に、冽は手を止め、ゆっくりと顔を上げた。
彼の口元から、ふわりと【淡い、冷たい紫色の煙】が立ち上る。
「私は誰も信用していない。近衛の兵の中にさえ、『狐』の息がかかった者がいるかもしれないのだ。自分で動くのが最も確実だ。……それに、私はこの座を守るために、あまりにも多くのものを捨ててきた。いまさら死を恐れて立ち止まるわけにはいかない」
(あ……いまの紫の煙は、少しだけ『強がり』の嘘ね)
「お前には、私のこの歪な生き方が滑稽に見えるだろうな」
冽は自嘲気味に笑った。だが、その微笑みの直後、彼の周囲から立ち上ったのは、昼間の黒でも紫でもない、**【透き通った、深い夜の海のような深い青の煙】**だった。
青は「本音の哀しみ」の色。
「滑稽だなんて、思いません」
私は彼の蝋燭を持つ手に、そっと自分の手を重ねた。彼の指先は、いつも凍りつくように冷たい。
「誰も信じられない世界で、完璧な嘘の笑顔を作り続けて生きることが、どれほど孤独で息苦しいか……。私には、陛下の煙の色でわかります。だから、少なくとも私の前では、その見苦しい嘘の煙を吐かなくても結構ですわ。私はあなたの『契約の妻』なのですから」
冽の瞳が、驚いたようにわずかに大きく開かれた。
彼の重ねられた手から、微かに熱が伝わってくる。彼の口元から出る青い煙が、一瞬だけ、柔らかい桃色に染まりかけた――その時だった。
パキ、と。 静まり返った図書閣の、はるか遠くの床板が鳴る音がした。
一瞬で、冽の表情が修羅のそれへと変貌した。彼は素早く蝋燭の火を指先で揉み消し、世界を完全な闇へと叩き落とした。それと同時に、私の腰を強い力で引き寄せ、巨大な書架の影へと押し込んだ。
「……気配が複数ある。近衛ではない」
暗闇の中、冽の冷たい囁きが鼓膜に触れる。
暗闇に目が慣れてくると、禁書エリアの入り口から、足音を完全に消した数人の人影が滑り込んでくるのが見えた。彼らの手には、月光を浴びて妖しく光る湾曲した短剣が握られている。
(嘘……! 本当に暗殺者が来たの!?)
驚く私を庇うように、冽は静かに腰の長剣を抜いた。金属が擦れ合う微かな音さえ、夜の闇に溶けていく。
しかし、何かがおかしかった。 侵入してきた暗殺者たちの姿を見た瞬間、私の瞳が恐怖とは別の理由で激しく見開かれた。 彼らの口元からは、人間が襲撃の直前に放つべき「緊張」や「殺意」の煙が、一切出ていなかったのだ。
それどころか、彼らの全身の周囲は、不気味なほどに**【完全な無色透明】**だった。
人間なら、息をしているだけで、どんなに感情を殺していても微かな「建前」や「本音」の煙が出る。それが一切ないということは、彼らは――。
「陛下、気をつけて……! あの者たち、感情がありません! 嘘も本音もない、完全に心を破壊された人形のような状態です!」「なんだと?」
私の警告と同時に、暗殺者の一人が爆発的な踏み込みで、私たちの隠れる書架へと躍り出てきた。短剣が闇を切り裂き、激しい金属音が図書閣の静寂を粉々に打ち砕く。
冽は片手で私を背後に押しやりながら、見事な剣術で暗殺者の刃を受け流し、その胸元を深く切り裂いた。
だが、斬られた暗殺者は、悲鳴一つ上げない。血を流しながらも、まるで痛みを感じていないかのような虚ろな目のまま、再び機械的に短剣を振り下ろしてきた。
「チッ……気味が悪い奴らだ!」
冽が毒づきながら二人目を斬り伏せるが、入り口からはさらに三人、四人と、同じ「無色透明」の暗殺者たちが次々と現れる。 戦況は圧倒的に不利だった。狭い図書閣の中で、私を庇いながら戦う冽の動きに、確実に疲労が溜まっていく。
さらに最悪なことに、暗殺者の一人が、懐から小さな筒を取り出すのが見えた。筒の先が、激しい戦闘で一瞬体勢を崩した冽の背中へと向けられる。
「陛下、後ろ!!」
私は考えるよりも先に、冽の背中へと飛びついていた。
直後、シュッと鋭い風を切る音が響き、私の二の腕に、熱い火傷のような激痛が走った。
「――雪!?」
冽の怒号が響く。振り返った彼は、私の腕から放たれた小さな毒矢と、そこから滴る黒い血を見て、その瞳を血の引くような驚愕に染めた。 私を人質に取るかのように、背後の暗闇から新たな影がゆっくりと這い出てくる。
罠は完全に閉ざされた。仕掛けられた死の迷宮の中で、毒に侵された私の意識は、急激に薄れ始めていた。
普段なら厳重な警備が敷かれているはずのこの場所に、いま、私と皇帝・冽は二人きりで忍び込んでいた。
「足元に気をつけろ、雪。ここから先は朝廷の最高機密が保管されている禁書エリアだ」
冽が手にした一本の蝋燭が、埃の舞う暗闇をぼんやりと照らし出す。彼の声は低く、私の耳元でかすかに響いた。
昼間のお茶会で見せるような甘い仮面の笑顔はどこにもない。けれど、昨夜彼を包んでいたあの自分自身を騙すような【漆黒の嘘の煙】も、いまは薄らいでいた。いまの彼は、ただ純粋に目的を見据える冷徹な一匹の狼のようだった。
「わかっております。ですが陛下、本当にここへスパイ組織『狐』の手がかりがあるのですか?」
「ああ。敬妃の実家が白家を嵌めた件は、単なる地方の汚職だ。だが、静家が密貿易を行っていた東部国境の港――あそこは十年前、敵国との間で凄惨な大戦が起きた場所でもある。当時の軍事記録と、後宮への人員の出入りを突き合わせれば、必ず何かが浮き彫りになるはずだ」
私たちは天井まで届く巨大な書架の間を抜け、色褪せた古い竹簡や書物が並ぶ部屋の奥へと進んだ。
冽は手際よく目的の年代の記録を探し出し、机の上に広げる。蝋燭の小さな灯りを二人で囲むようにして、私たちは顔を近づけて文字を追った。
静寂の中、ページをめくる音だけがサラサラと響く。
ふと、隣にいる冽の横顔が目に入った。整った鼻筋、長く美しい睫毛。その瞳は驚くほど真剣で、同時にどこかひどく疲弊しているようにも見えた。十九歳という若さで、巨大な帝国の頂点に立ち、四方から向けられる殺意と嘘の中で生き抜いてきた男の、これが本当の素顔なのだろう。
「陛下」
「なんだ。文字の読み間違いか?」
「いえ……。なぜそこまで、ご自身を追い詰めるのですか。スパイを見つけ出すためとはいえ、皇帝自ら夜中にこんな場所へ潜り込むなど、一歩間違えれば暗殺の絶好の機会を与えてしまうようなものですわ」
私の言葉に、冽は手を止め、ゆっくりと顔を上げた。
彼の口元から、ふわりと【淡い、冷たい紫色の煙】が立ち上る。
「私は誰も信用していない。近衛の兵の中にさえ、『狐』の息がかかった者がいるかもしれないのだ。自分で動くのが最も確実だ。……それに、私はこの座を守るために、あまりにも多くのものを捨ててきた。いまさら死を恐れて立ち止まるわけにはいかない」
(あ……いまの紫の煙は、少しだけ『強がり』の嘘ね)
「お前には、私のこの歪な生き方が滑稽に見えるだろうな」
冽は自嘲気味に笑った。だが、その微笑みの直後、彼の周囲から立ち上ったのは、昼間の黒でも紫でもない、**【透き通った、深い夜の海のような深い青の煙】**だった。
青は「本音の哀しみ」の色。
「滑稽だなんて、思いません」
私は彼の蝋燭を持つ手に、そっと自分の手を重ねた。彼の指先は、いつも凍りつくように冷たい。
「誰も信じられない世界で、完璧な嘘の笑顔を作り続けて生きることが、どれほど孤独で息苦しいか……。私には、陛下の煙の色でわかります。だから、少なくとも私の前では、その見苦しい嘘の煙を吐かなくても結構ですわ。私はあなたの『契約の妻』なのですから」
冽の瞳が、驚いたようにわずかに大きく開かれた。
彼の重ねられた手から、微かに熱が伝わってくる。彼の口元から出る青い煙が、一瞬だけ、柔らかい桃色に染まりかけた――その時だった。
パキ、と。 静まり返った図書閣の、はるか遠くの床板が鳴る音がした。
一瞬で、冽の表情が修羅のそれへと変貌した。彼は素早く蝋燭の火を指先で揉み消し、世界を完全な闇へと叩き落とした。それと同時に、私の腰を強い力で引き寄せ、巨大な書架の影へと押し込んだ。
「……気配が複数ある。近衛ではない」
暗闇の中、冽の冷たい囁きが鼓膜に触れる。
暗闇に目が慣れてくると、禁書エリアの入り口から、足音を完全に消した数人の人影が滑り込んでくるのが見えた。彼らの手には、月光を浴びて妖しく光る湾曲した短剣が握られている。
(嘘……! 本当に暗殺者が来たの!?)
驚く私を庇うように、冽は静かに腰の長剣を抜いた。金属が擦れ合う微かな音さえ、夜の闇に溶けていく。
しかし、何かがおかしかった。 侵入してきた暗殺者たちの姿を見た瞬間、私の瞳が恐怖とは別の理由で激しく見開かれた。 彼らの口元からは、人間が襲撃の直前に放つべき「緊張」や「殺意」の煙が、一切出ていなかったのだ。
それどころか、彼らの全身の周囲は、不気味なほどに**【完全な無色透明】**だった。
人間なら、息をしているだけで、どんなに感情を殺していても微かな「建前」や「本音」の煙が出る。それが一切ないということは、彼らは――。
「陛下、気をつけて……! あの者たち、感情がありません! 嘘も本音もない、完全に心を破壊された人形のような状態です!」「なんだと?」
私の警告と同時に、暗殺者の一人が爆発的な踏み込みで、私たちの隠れる書架へと躍り出てきた。短剣が闇を切り裂き、激しい金属音が図書閣の静寂を粉々に打ち砕く。
冽は片手で私を背後に押しやりながら、見事な剣術で暗殺者の刃を受け流し、その胸元を深く切り裂いた。
だが、斬られた暗殺者は、悲鳴一つ上げない。血を流しながらも、まるで痛みを感じていないかのような虚ろな目のまま、再び機械的に短剣を振り下ろしてきた。
「チッ……気味が悪い奴らだ!」
冽が毒づきながら二人目を斬り伏せるが、入り口からはさらに三人、四人と、同じ「無色透明」の暗殺者たちが次々と現れる。 戦況は圧倒的に不利だった。狭い図書閣の中で、私を庇いながら戦う冽の動きに、確実に疲労が溜まっていく。
さらに最悪なことに、暗殺者の一人が、懐から小さな筒を取り出すのが見えた。筒の先が、激しい戦闘で一瞬体勢を崩した冽の背中へと向けられる。
「陛下、後ろ!!」
私は考えるよりも先に、冽の背中へと飛びついていた。
直後、シュッと鋭い風を切る音が響き、私の二の腕に、熱い火傷のような激痛が走った。
「――雪!?」
冽の怒号が響く。振り返った彼は、私の腕から放たれた小さな毒矢と、そこから滴る黒い血を見て、その瞳を血の引くような驚愕に染めた。 私を人質に取るかのように、背後の暗闇から新たな影がゆっくりと這い出てくる。
罠は完全に閉ざされた。仕掛けられた死の迷宮の中で、毒に侵された私の意識は、急激に薄れ始めていた。



