蝋燭の炎が、真っ赤な帳(とばり)を怪しく揺らしていた。
ここは後宮の最奥、皇帝の寝所である「乾清宮」。しんと静まり返った広い部屋の中で、私は一人、絹のシーツの上に腰を下ろしていた。
身にまとっているのは、花嫁にふさわしい鮮やかな紅の漢服だ。金糸で鳳凰が刺繍された重い袖に触れながら、私は自嘲気味に息を吐く。
私の立場は、この華やかな部屋にふさわしい最高位の「妃」などではない。下から二番目の身分、ただの「貴人」だ。
私の実家である白(バイ)家は、一ヶ月前に謂れのない謀反の疑いをかけられ、一瞬にして没落した。家族の命と引き換えに私に突きつけられたのが、この後宮への入宮だった。
「お前は皇帝の不興を買うための生贄だ」
送り出される際、親族から浴びせられた言葉が耳の奥で蘇る。歓迎されるはずのない、呪われた没落令嬢の輿入れ。昼間、後宮の門をくぐった際に見かけた官僚や侍女たちの目は、一様に冷ややかで、腫れ物に触れるかのようだった。
誰もが、私が初夜の内に皇帝の逆鱗に触れて処刑されるか、冷宮に幽閉されるのを待っている。それが、この「雪貴人」という中途半端な位に込められた、後宮からの残酷なメッセージだった。
――重厚な扉が開き、張り詰めた空気を破る足音が近づいてくる。
現れたのは、息を呑むほど美しい男だった。漆黒の髪を金の冠で結い、すべてを見透かすような冷徹な切れ長の瞳。彼こそが、この大帝国の頂点に立つ若き独裁者――皇帝・冽。
冽は私を一瞥すると、世の女性が誰しも骨抜きになるような、極上の甘い微笑みを浮かべた。一歩、また一歩と距離を詰め、私の隣に腰を下ろす。彼の体から、高価な龍涎香の香りがかすかに漂った。
「待たせたね、私の可愛い雪。これからは何も心配いらない。私が君を、世界で一番幸せな花嫁にしてみせるよ」
その声は耳に心地よい絹のように滑らかで、深い情熱に満ちていた。
普通の娘なら、この瞬間に絶望から救われたと錯覚し、恋に落ちただろう。けれど、私の目には、彼の甘い言葉など一文字も届いていなかった。
(うわぁ……ひどい。真っ黒。前が見えないくらい煙を吐いてる)
私の瞳には、生まれつき特殊な「力」がある。
他人が嘘をつくとき、その口元から「感情の煙」が色付きで見えるのだ。軽いお世辞なら薄い灰色、悪意のある欺瞞なら濁った茶色。
いま、私の目の前にいる美貌の皇帝は、頭の先からつま先まで、ドス黒い「嘘の煙」に完全に包まれていた。私への甘い囁きも、愛おしげな微笑みも、すべてが100%の偽物。内側は氷のように冷え切っているのが、視覚的に丸見えだった。
「……陛下」
「なんだい? 緊張しているのかい? 怯えなくていい、私は君の味方だ」
さらに濃くなる黒い煙。もはや彼の顔が煙でかすんで見えるほどだ。私は小さく溜息をつき、手元でおろしていた扇をパサリと閉じた。
「お戯れはそこまでにしてください。その見苦しい黒い煙のせいで、せっかくの御尊顔が台無しです」
「……何?」
冽の微笑が、ぴたりと凍りついた。
「私は陛下に愛されたいなどと思っておりません。陛下も、私を愛する気など微塵もないでしょう。そんな真っ黒な嘘の煙を吐き散らされては、部屋の空気が濁って仕方がありませんわ。これでは喉を痛めてしまいます」
静寂が、広い寝室を支配した。
次の瞬間、冽の顔から「甘い微笑み」が綺麗さっぱり消え去った。後に残ったのは、触れただけで凍傷を負いそうなほど、鋭く冷酷な「本物の独裁者」の表情。
同時に、彼の周囲を覆っていた黒い煙が、一瞬でかき消えた。嘘をつくのをやめ、剥き出しの本音になった証拠だ。
「……面白いな。私の『仮面』を見破った人間は、お前が初めてだ」
冽は低く冷たい声で笑い、私の顎を乱暴に指で掬い上げた。その指先は、驚くほど冷たい。
「なぜ分かった? 私は生まれたときから嘘の笑顔だけで生き残り、この座に就いた。誰一人、私の本心など気づかなかったはずだ。お前の実家の間者どもが、何か情報を握らせていたのか?」
「いいえ。私には、人の嘘が色付きの煙で見えるのです。ただの特異体質ですわ。……陛下、私を実家の罪の身代わりとして、今夜ここで処刑されるおつもりですか?」
「まさか」
冽の口元から、今度は一切の煙が出ない。本当のことを言っている。
「お前を殺しはしない。むしろ、誰も代わりに務められない最高の役割を与えてやる。雪貴人、私と『契約』をしろ」
冽は私の顎を離し、冷徹な瞳で私を見下ろした。彼は立ち上がり、部屋の隅にある豪奢な机から、一通の書状を取り出して私の前に放り投げた。
「この後宮には、我が命を狙う敵国のスパイ組織『狐』の最高幹部が潜んでいる。容疑者は、宸妃、敬妃、麗嬪の三人だ。だが、どいつも完璧に無実の顔を取り繕っていて、近衛の調べでも決定的な証拠が掴めない。そこで、お前だ」
「私に、その三人の嘘を見破れと?」
「そうだ。お前は今日から、私の『特別なお気に入り』となる。位は貴人のままだが、私は毎夜、他の誰でもなくお前の元へ通い詰める」
冽の言葉に、私は思わず眉をひそめた。
「……それは、私を後宮で最も目立つ『囮』にするということですね?」
「理解が早くて助かる。身分が低い分際で皇帝の寵愛を独占するお前を見て、三人は必ず焦り、動き出す。嫉妬、焦燥、裏切り――その時に吐く嘘を、お前のその目で暴け」
お互いに愛など欠片もない。あるのは、剥き出しの利害関係だけだ。
「期間は三日間。それまでにスパイを炙り出せ。成功すれば、お前の実家の罪をすべて不問にし、命を保証しよう。さらに、お前が望むなら、後宮の奥で誰にも邪魔されない静かな隠居生活を一生約束してやる。――どうだ?」
「お受けいたします、陛下。愛のない契約結婚としては、上出来な条件ですわ」
私は不敵に微笑み、皇帝が差し出してきた冷たい手を取り、強く握り返した。
こうして、後宮を舞台にした、お互い嘘つきだらけの三日間の「人狼ゲーム」が幕を開けたのだった。
ここは後宮の最奥、皇帝の寝所である「乾清宮」。しんと静まり返った広い部屋の中で、私は一人、絹のシーツの上に腰を下ろしていた。
身にまとっているのは、花嫁にふさわしい鮮やかな紅の漢服だ。金糸で鳳凰が刺繍された重い袖に触れながら、私は自嘲気味に息を吐く。
私の立場は、この華やかな部屋にふさわしい最高位の「妃」などではない。下から二番目の身分、ただの「貴人」だ。
私の実家である白(バイ)家は、一ヶ月前に謂れのない謀反の疑いをかけられ、一瞬にして没落した。家族の命と引き換えに私に突きつけられたのが、この後宮への入宮だった。
「お前は皇帝の不興を買うための生贄だ」
送り出される際、親族から浴びせられた言葉が耳の奥で蘇る。歓迎されるはずのない、呪われた没落令嬢の輿入れ。昼間、後宮の門をくぐった際に見かけた官僚や侍女たちの目は、一様に冷ややかで、腫れ物に触れるかのようだった。
誰もが、私が初夜の内に皇帝の逆鱗に触れて処刑されるか、冷宮に幽閉されるのを待っている。それが、この「雪貴人」という中途半端な位に込められた、後宮からの残酷なメッセージだった。
――重厚な扉が開き、張り詰めた空気を破る足音が近づいてくる。
現れたのは、息を呑むほど美しい男だった。漆黒の髪を金の冠で結い、すべてを見透かすような冷徹な切れ長の瞳。彼こそが、この大帝国の頂点に立つ若き独裁者――皇帝・冽。
冽は私を一瞥すると、世の女性が誰しも骨抜きになるような、極上の甘い微笑みを浮かべた。一歩、また一歩と距離を詰め、私の隣に腰を下ろす。彼の体から、高価な龍涎香の香りがかすかに漂った。
「待たせたね、私の可愛い雪。これからは何も心配いらない。私が君を、世界で一番幸せな花嫁にしてみせるよ」
その声は耳に心地よい絹のように滑らかで、深い情熱に満ちていた。
普通の娘なら、この瞬間に絶望から救われたと錯覚し、恋に落ちただろう。けれど、私の目には、彼の甘い言葉など一文字も届いていなかった。
(うわぁ……ひどい。真っ黒。前が見えないくらい煙を吐いてる)
私の瞳には、生まれつき特殊な「力」がある。
他人が嘘をつくとき、その口元から「感情の煙」が色付きで見えるのだ。軽いお世辞なら薄い灰色、悪意のある欺瞞なら濁った茶色。
いま、私の目の前にいる美貌の皇帝は、頭の先からつま先まで、ドス黒い「嘘の煙」に完全に包まれていた。私への甘い囁きも、愛おしげな微笑みも、すべてが100%の偽物。内側は氷のように冷え切っているのが、視覚的に丸見えだった。
「……陛下」
「なんだい? 緊張しているのかい? 怯えなくていい、私は君の味方だ」
さらに濃くなる黒い煙。もはや彼の顔が煙でかすんで見えるほどだ。私は小さく溜息をつき、手元でおろしていた扇をパサリと閉じた。
「お戯れはそこまでにしてください。その見苦しい黒い煙のせいで、せっかくの御尊顔が台無しです」
「……何?」
冽の微笑が、ぴたりと凍りついた。
「私は陛下に愛されたいなどと思っておりません。陛下も、私を愛する気など微塵もないでしょう。そんな真っ黒な嘘の煙を吐き散らされては、部屋の空気が濁って仕方がありませんわ。これでは喉を痛めてしまいます」
静寂が、広い寝室を支配した。
次の瞬間、冽の顔から「甘い微笑み」が綺麗さっぱり消え去った。後に残ったのは、触れただけで凍傷を負いそうなほど、鋭く冷酷な「本物の独裁者」の表情。
同時に、彼の周囲を覆っていた黒い煙が、一瞬でかき消えた。嘘をつくのをやめ、剥き出しの本音になった証拠だ。
「……面白いな。私の『仮面』を見破った人間は、お前が初めてだ」
冽は低く冷たい声で笑い、私の顎を乱暴に指で掬い上げた。その指先は、驚くほど冷たい。
「なぜ分かった? 私は生まれたときから嘘の笑顔だけで生き残り、この座に就いた。誰一人、私の本心など気づかなかったはずだ。お前の実家の間者どもが、何か情報を握らせていたのか?」
「いいえ。私には、人の嘘が色付きの煙で見えるのです。ただの特異体質ですわ。……陛下、私を実家の罪の身代わりとして、今夜ここで処刑されるおつもりですか?」
「まさか」
冽の口元から、今度は一切の煙が出ない。本当のことを言っている。
「お前を殺しはしない。むしろ、誰も代わりに務められない最高の役割を与えてやる。雪貴人、私と『契約』をしろ」
冽は私の顎を離し、冷徹な瞳で私を見下ろした。彼は立ち上がり、部屋の隅にある豪奢な机から、一通の書状を取り出して私の前に放り投げた。
「この後宮には、我が命を狙う敵国のスパイ組織『狐』の最高幹部が潜んでいる。容疑者は、宸妃、敬妃、麗嬪の三人だ。だが、どいつも完璧に無実の顔を取り繕っていて、近衛の調べでも決定的な証拠が掴めない。そこで、お前だ」
「私に、その三人の嘘を見破れと?」
「そうだ。お前は今日から、私の『特別なお気に入り』となる。位は貴人のままだが、私は毎夜、他の誰でもなくお前の元へ通い詰める」
冽の言葉に、私は思わず眉をひそめた。
「……それは、私を後宮で最も目立つ『囮』にするということですね?」
「理解が早くて助かる。身分が低い分際で皇帝の寵愛を独占するお前を見て、三人は必ず焦り、動き出す。嫉妬、焦燥、裏切り――その時に吐く嘘を、お前のその目で暴け」
お互いに愛など欠片もない。あるのは、剥き出しの利害関係だけだ。
「期間は三日間。それまでにスパイを炙り出せ。成功すれば、お前の実家の罪をすべて不問にし、命を保証しよう。さらに、お前が望むなら、後宮の奥で誰にも邪魔されない静かな隠居生活を一生約束してやる。――どうだ?」
「お受けいたします、陛下。愛のない契約結婚としては、上出来な条件ですわ」
私は不敵に微笑み、皇帝が差し出してきた冷たい手を取り、強く握り返した。
こうして、後宮を舞台にした、お互い嘘つきだらけの三日間の「人狼ゲーム」が幕を開けたのだった。



