――――「失礼します。お加減はいかがですか?」
布団を畳み手持ち無沙汰に過ごしていた頃、盆を持った真人が現れ、巴は茶を差し出された。
彼は相変わらず丁寧で、湯気の立つ温かな湯呑みを勧める。
「……あの、私は式神ですので……こういったものが無くとも大丈夫です」
「そう仰らず口になされてください。実弥様から式神も供物を口にすると聞きました。これは生きるためというより嗜好品として。ほっとしますよ」
彼はどうやら本心から巴を気遣ってくれているようだった。
「ありがとうございます……」
ひと息ついたあと、巴は真人に連れられ屋敷の外に出た。
黒で塗り潰したような闇が広がっていて、着物の擦れる音ひとつ捉えるような静寂に包まれている。
「もうすぐです。目覚めますよ、宵の市が」
真人が声を潜めて巴に告げた。
するとその言葉と共に、突如がらりと空気が変わる。
提灯の明かりが次々と灯りはじめ、それは遠くに見える豪華絢爛な塔を中心に美しく広がっていった。
店が次々に開いて、様々な文字が書かれた赤や黄色の提灯が怪しく揺れ、賑やかな声と数多の影がどこからともなく湧いて活気に溢れている。
一体何が起こっているのかと巴は目を瞠った。
香しい匂いや、笛や太鼓の音色。
近くの二階建ての建物からは妖艶な女性が格子の外に向かって手を振っていた。
路を行き交うのは妖が多いが、中には芦屋家の紋を施された着物に身を包む者や、陰陽領でも見た高貴な貴族らしき人間がちらほらと混じっている。
巴はこの異質な世界に心が震えた。
「おはよう、奥方サマ」
「サネミの奥方様、おはようございます」
屋敷の前に佇む巴と真人を見て、通りすがりの妖達が首を垂れる。
「……おはようございます……」
反射的につられて挨拶を返したが、胸は騒めき、巴は状況を把握すべくおずおずといった調子で真人に訊ねた。
「あの……ここは一体どこですか?人と妖が一緒にいるのは普通のことなのですか?」
「そうですね……ここは宵の市と呼ばれる人と妖の共栄区域です。といっても実情は、表立って扱えない品の取り引きや、女の妖を買ったり賭博などする歓楽街ですが。そういったものを好んで集まる物好きは種族関係なく関われるものなのかもしれませんね」
そう告げると真人が歩き始め、そして振り返る。
「さぁ、奥方様。ご案内いたします。足元にお気をつけてくださいね」
巴は頷き、そして後を追うように進み出ては真人の隣へ並んだ。
巴は陰陽領の世界しか知らない。
そこで教えられたことが全てで、しかし彼らが偏ったことしか教えないことも知っていた。
それはひとえに悪口に混じって噂される下女らの言葉に疑念を感じていたからでもある。
巴は自分が知らないことだらけだという事を知っている。
だからこそ、初めて眼にするこの光景に、慄くと同時に感動があったのだろう。
視界に映るもの全てが新鮮で、驚きと感動の連続だった。
「式神の方には恐ろしく感じるかもしれませんが、ここは実弥様の拠点ですので奥方様には慣れて頂けると私共は嬉しく思います」
真人はまだ巴が実弥と正式に従属婚をしていないのに、案内の道すがら奥方様としきりに呼んでくる。
実弥は逃げても良いと唆すが、この見習い陰陽師はやたらと親切で打ち解けようとしてくれるのだ。相反する二人の思惑に戸惑いがないと言えば嘘になるが、真人の人の良さそうな笑みや声音は心地が良かった。
「――私、陰陽師は妖を祓うものだと教わっていました」
「安倍家の派閥はそうかもしれませんね……ですが蘆屋家は妖を滅したりしませんよ。よほどの悪事でも働かなければ……」
真人が言いかけて、ふと賭博と書かれた店に視線を留めた。
そこは騒がしく、喧噪というよりも怒声に近い叫び声があがっていた。
真人は一度はそれを無視して通り過ぎようとしたが、しかし突如戸口から男が一人投げ出され、続いて実弥の姿が現れたことで立ち止まる。
そして慌てて巴の着物の袖を引き耳打ちした。
「誤解されないで下さい。実弥様は悪辣ですが、悪い人じゃないのです」
どういう意味かと疑問が過った刹那、その答えはすぐに落ちてきた。
いや、飛んできたのだ。男の腕が。
刀を持ちだして男の腕を切り伏せたのは実弥だった。男の悲鳴が上がったが、問答無用ともう一方の腕も切り落とされる。
巴は目の前に転がってきた腕に思わず鼻を覆った。
式神は血を嫌う。これは性質のようなもので、凶将という陰の位に属する巴とて、程度が違えど生理的に受け付けられない。
しかもその転がった腕を、通りすがりの妖が食らったので余計に目眩いがした。
もはや立っていられる事が出来ず、気が遠くなってゆく。
――――倒れ伏した巴は目覚めると、元の座敷に居た。
そこには真人がひれ伏しており、隣には実弥が胡坐をかいて不満気に座っていた。
「申し訳ございませんでした!」
「真人さん、頭を上げてください……」
「……まさか実弥様があの場で切り伏せると思わず、凶将の属性の奥方様は多少の荒事も耐性があるかと油断しておりました……」
粛々と言い訳を交え反省の色を示して項垂れる真人に巴は眉尻を下げた。
あれは偶然の出来事で、悪気がないのは十分理解している。咎めるつもりなどなかった。
一方の実弥は黙りこくったままで眉間に皺を刻んだまま動かない。
「大丈夫ですから、気にしないで下さい。あれは一体何が起きていたのでしょうか?」
両腕を失ったであろう男がその後どうなったか知る由はないが、切り伏せた実弥も理由があったのだろう。
すると真人は一度だけ実弥を盗み見たあと口を開いた。
「実弥様は宵の市の夜番頭をされていて、あれは取り締まりの一環だったのです……」
真人の説明によると、実弥は治安維持の部隊の頭らしい。
「そうでしたか……お勤め中だったのですね。あの、まさか抜けられて来たのですか?」
巴は静々と視線を実弥に向けた。すると実弥は片眉をあげて唐突に立ち上がった。
「――あぁ。俺は戻る、お前は無理せず大人しく過ごせ」
その動きで実弥の着物から甘い香りが空気に伝った。よく見れば同じ色味の着物を身につけているが最後に見た意匠と少し異なる。
まさかわざわざ身を清めてきたのだろうか。
「気遣っていただきありがとうございました……」
そう声を掛けたが実弥は振り返ることなく出て行ってしまった。
「奥方様。体調が戻られたなら稲荷はいかがですか?向かいの妖狐の方々が、ぜひ奥方様に召し上がっていただいたいと持ってきているのですが」
すかさず真人に訊ねられ巴は僅かに口許を綻ばせた。
その夜は屋敷で過ごすこととなり、しかし来客が多く賑やかな一夜となった。
妖達が巴に挨拶がしたいと押しかけてきたのだ。
実弥は巴が疲れないなら対応すれば良いと言い残していたらしく、巴は真人に都度様子を窺われながら訪ねてくる妖に挨拶することにした。
歓迎されている事に最初こそ戸惑ったが、受け入れられたことが嬉しかったのだ。
「なぜ妖達は私に丁寧なのですか……?」
ひとしきりの対応を終えたあと、巴は真人に訊ねた。
「それは奥方様が実弥様と従属婚されるからですよ」
「……妖にとって従属婚はいいことなのですか?」
「えぇ、それはもう!妖は力の強大な者の配下になるのが誉です。そしてその絆はより強固なものを好み従属婚がその最高位です」
「一般的な婚姻よりも、ですか?」
「はい。通常の婚姻は霊力が関係ないので、むしろ価値はありません。従属婚は強い絆の印で、兄弟の盃よりも価値があります。そもそも相応の霊力がないと認められない婚姻ですから」
「では皆様がよくしてくれるのは実弥様が相当な霊力をお持ちだからなのですね……強奪の術式も扱える方ですし」
「その通りです!実弥様と従属婚出来るということはすなわち巴様の霊力も相応に素晴らしいという解釈ですね」
妖達の言動にようやく合点がいった巴だったが、しかしいくつか引っかかるところがあった。
あの選択を突きつけられた時、巴は人と違わぬ程度の霊力しかなかった。
それに実弥は妖達に……
「洞窟でいろいろと言われていたような……」
「実弥様はあれで妖には気安い方ですし、そもそも妖は口が悪いのですよ」
真人は安心させるように笑って言った。しかし巴が先程まで対応した妖達はみな丁寧だった。
「みな実弥様を慕っていますから奥方様を害そうとする者はおりませんので、ご安心ください。それに実弥様はこの宵の市を統べる頭領に気に入られてますから多少の嫉妬も混じってるのですよ」
言って目を細め絶えず穏やかな笑みを向けられる。
巴は深く考えることを止めて明け方を待つことにした。
真人の説明によると、実弥が次に戻るのは夜明け前とのことだった。
今後はこれまでと違い、日が高いうちに眠り、夜が深まると目覚める生活になる。
それから、まだ正式に契りを結んでいないが夫婦に予定のため今日から寝所を共にすることになっていた。
これは屋敷に勤める使用人らの意向が強く、実弥もそれで良いとしたそうなので巴も従うことにした。
「――従属婚をするつもりだが、俺はお前を取って食うつもりはない」
寝所に現れた実弥は揃えられた布団が綺麗にくっつけられているのを見たあと冷静に告げた。
洞窟で子供を産む気があるならと申し出たはずの男は、巴に手を出すつもりがないと急に言い出したのだ。
「理由を聞いてもよいですか?使役頂いたのですから、私は自分の勤めを果たす気持ちでおります」
まさかやはり不要だからと手放すつもりなのだろうか。
強奪した所有権を放棄すれば元の主に返還されてしまう。
瞳が揺れ、巴は息を呑んだ。
「……俺は今年で二十八だ。そろそろ子を成せと周りに急かされていたもんで都合のいいお前を所望したが、正直まだ優先してやるべきことがある。つまり時期を考え直しただけだ」
答えを聞いて巴は安堵した。
手放されるわけではないのだと分かったからだ。
子を望むがまだ先でいい、そういう解釈だと理解し、この利害関は続くのだと胸を撫で下ろす。
「でしたら、布団は離しますね」
出会った時から巴を荷物と称してきたほどだ。
実弥から面倒に思われているのは察しがついた。子を成すつもりがないのならくっつけておく必要はない。
嬉々として用意してくれた屋敷の者達には申し訳ないが、巴は布団を適切な距離に変えるつもりで手を伸ばした。しかし……ーーーー
「このままでいい。宵の市は陰の力が強すぎるからな。お前の神気の釣り合いが崩れやすい環境だ」
言うと実弥は先に布団へと横になり傍を叩く。
巴が双眸を瞬いていると「来い」と言われる。
実弥は自らの元へ来るよう巴を促したのだ。
「ただ寝るだけよりも式神は主人に大事にされると霊力が高まるものだろ」
元の主である翔期からは、契約後は殆ど目すら合わせてもらえなかった。
しかし目の前の実弥は使役を結んだ主人としての役割を果たすべく巴を呼ぶのだ。
「遠慮することはない。いずれは子を産んでもらう身体だ。大事にしなければな」
そんな言葉を紡いで身体を預ける理由をくれる。
実弥に背を抱きしめられるように眠った。
何をせずとも霊力は寝れば回復するが、実弥の言う通り大事にされれば回復は早く、神気は安定し霊力は一層高まる。
愛などなくとも、人が違えば扱いはこうも違うのか。
そんなことを脳裏で独り言ちた。
新しい主人は、謎めいて悪辣で粗野な夜番頭だが、しかし主として細やかな配慮をくれる人間らしい。
――――数日後、初夏のうだる暑さの中、従属婚は執り行われた。
婚礼を取り仕切るのは宵の市を統治する妖の総大将――ぬらりひょんだった。
美しい白無垢を着て、市に棲みつく妖らに見守られながら婚礼は進む。
そして最後に従属の術が唱えられた。
鈍い熱と共に胸元に従属の紋章が浮かび上がる。
その一瞬、何かが焼き切れたような、まるで火花が散った音が聞こえた気がしたが、紋章の顕現以外に特別なことはなく、契りはつつがなく終わる。
これで正式に巴は実弥の妻となった。
陰陽領で教えられた恥辱の婚儀。
それがここでは最上位の婚儀というのは本当で、その日は一晩中宴が催され、巴と実弥は市の妖や芦屋家の一派から多くの祝福を受けたのだった。
巴の踏み出した一歩は、自由を掴む一歩だったのかもしれない。
そんな考えさえ過ったが、しかし現実はそう甘くない。
「――もう随分と伏せっておいでですが……大丈夫ですか?華蛇様」
陰陽領の騰蛇の宮。
そこの女官たちはおろおろと部屋の前で狼狽えていた。
一族の長女である華蛇が婚礼の日取りを延期し続けているのだ。
「……煩いわね、時期に体調は戻るから放っておいてっ……」
彼女が身体を患っている理由を、華佗以外この領内で誰も知る者はいない。
「どうして……なんで鱗が黒くなるのよ……こんな、髪まで……」
乱れた部屋には斬り捨てられた短い黒髪が散らばっていた。
切っても切っても毛先から染まってしまう髪に華佗はひとり怯えていた。
布団を畳み手持ち無沙汰に過ごしていた頃、盆を持った真人が現れ、巴は茶を差し出された。
彼は相変わらず丁寧で、湯気の立つ温かな湯呑みを勧める。
「……あの、私は式神ですので……こういったものが無くとも大丈夫です」
「そう仰らず口になされてください。実弥様から式神も供物を口にすると聞きました。これは生きるためというより嗜好品として。ほっとしますよ」
彼はどうやら本心から巴を気遣ってくれているようだった。
「ありがとうございます……」
ひと息ついたあと、巴は真人に連れられ屋敷の外に出た。
黒で塗り潰したような闇が広がっていて、着物の擦れる音ひとつ捉えるような静寂に包まれている。
「もうすぐです。目覚めますよ、宵の市が」
真人が声を潜めて巴に告げた。
するとその言葉と共に、突如がらりと空気が変わる。
提灯の明かりが次々と灯りはじめ、それは遠くに見える豪華絢爛な塔を中心に美しく広がっていった。
店が次々に開いて、様々な文字が書かれた赤や黄色の提灯が怪しく揺れ、賑やかな声と数多の影がどこからともなく湧いて活気に溢れている。
一体何が起こっているのかと巴は目を瞠った。
香しい匂いや、笛や太鼓の音色。
近くの二階建ての建物からは妖艶な女性が格子の外に向かって手を振っていた。
路を行き交うのは妖が多いが、中には芦屋家の紋を施された着物に身を包む者や、陰陽領でも見た高貴な貴族らしき人間がちらほらと混じっている。
巴はこの異質な世界に心が震えた。
「おはよう、奥方サマ」
「サネミの奥方様、おはようございます」
屋敷の前に佇む巴と真人を見て、通りすがりの妖達が首を垂れる。
「……おはようございます……」
反射的につられて挨拶を返したが、胸は騒めき、巴は状況を把握すべくおずおずといった調子で真人に訊ねた。
「あの……ここは一体どこですか?人と妖が一緒にいるのは普通のことなのですか?」
「そうですね……ここは宵の市と呼ばれる人と妖の共栄区域です。といっても実情は、表立って扱えない品の取り引きや、女の妖を買ったり賭博などする歓楽街ですが。そういったものを好んで集まる物好きは種族関係なく関われるものなのかもしれませんね」
そう告げると真人が歩き始め、そして振り返る。
「さぁ、奥方様。ご案内いたします。足元にお気をつけてくださいね」
巴は頷き、そして後を追うように進み出ては真人の隣へ並んだ。
巴は陰陽領の世界しか知らない。
そこで教えられたことが全てで、しかし彼らが偏ったことしか教えないことも知っていた。
それはひとえに悪口に混じって噂される下女らの言葉に疑念を感じていたからでもある。
巴は自分が知らないことだらけだという事を知っている。
だからこそ、初めて眼にするこの光景に、慄くと同時に感動があったのだろう。
視界に映るもの全てが新鮮で、驚きと感動の連続だった。
「式神の方には恐ろしく感じるかもしれませんが、ここは実弥様の拠点ですので奥方様には慣れて頂けると私共は嬉しく思います」
真人はまだ巴が実弥と正式に従属婚をしていないのに、案内の道すがら奥方様としきりに呼んでくる。
実弥は逃げても良いと唆すが、この見習い陰陽師はやたらと親切で打ち解けようとしてくれるのだ。相反する二人の思惑に戸惑いがないと言えば嘘になるが、真人の人の良さそうな笑みや声音は心地が良かった。
「――私、陰陽師は妖を祓うものだと教わっていました」
「安倍家の派閥はそうかもしれませんね……ですが蘆屋家は妖を滅したりしませんよ。よほどの悪事でも働かなければ……」
真人が言いかけて、ふと賭博と書かれた店に視線を留めた。
そこは騒がしく、喧噪というよりも怒声に近い叫び声があがっていた。
真人は一度はそれを無視して通り過ぎようとしたが、しかし突如戸口から男が一人投げ出され、続いて実弥の姿が現れたことで立ち止まる。
そして慌てて巴の着物の袖を引き耳打ちした。
「誤解されないで下さい。実弥様は悪辣ですが、悪い人じゃないのです」
どういう意味かと疑問が過った刹那、その答えはすぐに落ちてきた。
いや、飛んできたのだ。男の腕が。
刀を持ちだして男の腕を切り伏せたのは実弥だった。男の悲鳴が上がったが、問答無用ともう一方の腕も切り落とされる。
巴は目の前に転がってきた腕に思わず鼻を覆った。
式神は血を嫌う。これは性質のようなもので、凶将という陰の位に属する巴とて、程度が違えど生理的に受け付けられない。
しかもその転がった腕を、通りすがりの妖が食らったので余計に目眩いがした。
もはや立っていられる事が出来ず、気が遠くなってゆく。
――――倒れ伏した巴は目覚めると、元の座敷に居た。
そこには真人がひれ伏しており、隣には実弥が胡坐をかいて不満気に座っていた。
「申し訳ございませんでした!」
「真人さん、頭を上げてください……」
「……まさか実弥様があの場で切り伏せると思わず、凶将の属性の奥方様は多少の荒事も耐性があるかと油断しておりました……」
粛々と言い訳を交え反省の色を示して項垂れる真人に巴は眉尻を下げた。
あれは偶然の出来事で、悪気がないのは十分理解している。咎めるつもりなどなかった。
一方の実弥は黙りこくったままで眉間に皺を刻んだまま動かない。
「大丈夫ですから、気にしないで下さい。あれは一体何が起きていたのでしょうか?」
両腕を失ったであろう男がその後どうなったか知る由はないが、切り伏せた実弥も理由があったのだろう。
すると真人は一度だけ実弥を盗み見たあと口を開いた。
「実弥様は宵の市の夜番頭をされていて、あれは取り締まりの一環だったのです……」
真人の説明によると、実弥は治安維持の部隊の頭らしい。
「そうでしたか……お勤め中だったのですね。あの、まさか抜けられて来たのですか?」
巴は静々と視線を実弥に向けた。すると実弥は片眉をあげて唐突に立ち上がった。
「――あぁ。俺は戻る、お前は無理せず大人しく過ごせ」
その動きで実弥の着物から甘い香りが空気に伝った。よく見れば同じ色味の着物を身につけているが最後に見た意匠と少し異なる。
まさかわざわざ身を清めてきたのだろうか。
「気遣っていただきありがとうございました……」
そう声を掛けたが実弥は振り返ることなく出て行ってしまった。
「奥方様。体調が戻られたなら稲荷はいかがですか?向かいの妖狐の方々が、ぜひ奥方様に召し上がっていただいたいと持ってきているのですが」
すかさず真人に訊ねられ巴は僅かに口許を綻ばせた。
その夜は屋敷で過ごすこととなり、しかし来客が多く賑やかな一夜となった。
妖達が巴に挨拶がしたいと押しかけてきたのだ。
実弥は巴が疲れないなら対応すれば良いと言い残していたらしく、巴は真人に都度様子を窺われながら訪ねてくる妖に挨拶することにした。
歓迎されている事に最初こそ戸惑ったが、受け入れられたことが嬉しかったのだ。
「なぜ妖達は私に丁寧なのですか……?」
ひとしきりの対応を終えたあと、巴は真人に訊ねた。
「それは奥方様が実弥様と従属婚されるからですよ」
「……妖にとって従属婚はいいことなのですか?」
「えぇ、それはもう!妖は力の強大な者の配下になるのが誉です。そしてその絆はより強固なものを好み従属婚がその最高位です」
「一般的な婚姻よりも、ですか?」
「はい。通常の婚姻は霊力が関係ないので、むしろ価値はありません。従属婚は強い絆の印で、兄弟の盃よりも価値があります。そもそも相応の霊力がないと認められない婚姻ですから」
「では皆様がよくしてくれるのは実弥様が相当な霊力をお持ちだからなのですね……強奪の術式も扱える方ですし」
「その通りです!実弥様と従属婚出来るということはすなわち巴様の霊力も相応に素晴らしいという解釈ですね」
妖達の言動にようやく合点がいった巴だったが、しかしいくつか引っかかるところがあった。
あの選択を突きつけられた時、巴は人と違わぬ程度の霊力しかなかった。
それに実弥は妖達に……
「洞窟でいろいろと言われていたような……」
「実弥様はあれで妖には気安い方ですし、そもそも妖は口が悪いのですよ」
真人は安心させるように笑って言った。しかし巴が先程まで対応した妖達はみな丁寧だった。
「みな実弥様を慕っていますから奥方様を害そうとする者はおりませんので、ご安心ください。それに実弥様はこの宵の市を統べる頭領に気に入られてますから多少の嫉妬も混じってるのですよ」
言って目を細め絶えず穏やかな笑みを向けられる。
巴は深く考えることを止めて明け方を待つことにした。
真人の説明によると、実弥が次に戻るのは夜明け前とのことだった。
今後はこれまでと違い、日が高いうちに眠り、夜が深まると目覚める生活になる。
それから、まだ正式に契りを結んでいないが夫婦に予定のため今日から寝所を共にすることになっていた。
これは屋敷に勤める使用人らの意向が強く、実弥もそれで良いとしたそうなので巴も従うことにした。
「――従属婚をするつもりだが、俺はお前を取って食うつもりはない」
寝所に現れた実弥は揃えられた布団が綺麗にくっつけられているのを見たあと冷静に告げた。
洞窟で子供を産む気があるならと申し出たはずの男は、巴に手を出すつもりがないと急に言い出したのだ。
「理由を聞いてもよいですか?使役頂いたのですから、私は自分の勤めを果たす気持ちでおります」
まさかやはり不要だからと手放すつもりなのだろうか。
強奪した所有権を放棄すれば元の主に返還されてしまう。
瞳が揺れ、巴は息を呑んだ。
「……俺は今年で二十八だ。そろそろ子を成せと周りに急かされていたもんで都合のいいお前を所望したが、正直まだ優先してやるべきことがある。つまり時期を考え直しただけだ」
答えを聞いて巴は安堵した。
手放されるわけではないのだと分かったからだ。
子を望むがまだ先でいい、そういう解釈だと理解し、この利害関は続くのだと胸を撫で下ろす。
「でしたら、布団は離しますね」
出会った時から巴を荷物と称してきたほどだ。
実弥から面倒に思われているのは察しがついた。子を成すつもりがないのならくっつけておく必要はない。
嬉々として用意してくれた屋敷の者達には申し訳ないが、巴は布団を適切な距離に変えるつもりで手を伸ばした。しかし……ーーーー
「このままでいい。宵の市は陰の力が強すぎるからな。お前の神気の釣り合いが崩れやすい環境だ」
言うと実弥は先に布団へと横になり傍を叩く。
巴が双眸を瞬いていると「来い」と言われる。
実弥は自らの元へ来るよう巴を促したのだ。
「ただ寝るだけよりも式神は主人に大事にされると霊力が高まるものだろ」
元の主である翔期からは、契約後は殆ど目すら合わせてもらえなかった。
しかし目の前の実弥は使役を結んだ主人としての役割を果たすべく巴を呼ぶのだ。
「遠慮することはない。いずれは子を産んでもらう身体だ。大事にしなければな」
そんな言葉を紡いで身体を預ける理由をくれる。
実弥に背を抱きしめられるように眠った。
何をせずとも霊力は寝れば回復するが、実弥の言う通り大事にされれば回復は早く、神気は安定し霊力は一層高まる。
愛などなくとも、人が違えば扱いはこうも違うのか。
そんなことを脳裏で独り言ちた。
新しい主人は、謎めいて悪辣で粗野な夜番頭だが、しかし主として細やかな配慮をくれる人間らしい。
――――数日後、初夏のうだる暑さの中、従属婚は執り行われた。
婚礼を取り仕切るのは宵の市を統治する妖の総大将――ぬらりひょんだった。
美しい白無垢を着て、市に棲みつく妖らに見守られながら婚礼は進む。
そして最後に従属の術が唱えられた。
鈍い熱と共に胸元に従属の紋章が浮かび上がる。
その一瞬、何かが焼き切れたような、まるで火花が散った音が聞こえた気がしたが、紋章の顕現以外に特別なことはなく、契りはつつがなく終わる。
これで正式に巴は実弥の妻となった。
陰陽領で教えられた恥辱の婚儀。
それがここでは最上位の婚儀というのは本当で、その日は一晩中宴が催され、巴と実弥は市の妖や芦屋家の一派から多くの祝福を受けたのだった。
巴の踏み出した一歩は、自由を掴む一歩だったのかもしれない。
そんな考えさえ過ったが、しかし現実はそう甘くない。
「――もう随分と伏せっておいでですが……大丈夫ですか?華蛇様」
陰陽領の騰蛇の宮。
そこの女官たちはおろおろと部屋の前で狼狽えていた。
一族の長女である華蛇が婚礼の日取りを延期し続けているのだ。
「……煩いわね、時期に体調は戻るから放っておいてっ……」
彼女が身体を患っている理由を、華佗以外この領内で誰も知る者はいない。
「どうして……なんで鱗が黒くなるのよ……こんな、髪まで……」
乱れた部屋には斬り捨てられた短い黒髪が散らばっていた。
切っても切っても毛先から染まってしまう髪に華佗はひとり怯えていた。



