式神の従属婚 〜悪辣陰陽師は出来損ないの騰蛇を娶る〜

巴の願いに応えるように紋様は陰陽領を焼き尽くすかの如く紫焔を広げ飲み込んでゆく。
迫りくる炎を前に巴は唇を噛みしめた。

――何もしないよりいい。ここから逃れるにはこれしかない。

紫焔は巴ひとりを掬い上げるように吸い込んで、同時に脳を焼き尽くすような灼熱に包まれた。

身体が宙に浮いたが、霞む意識では陰陽領が遥か下にあることに巴が気付くことはなく、黒雲が身体を飲み込んだ次の瞬間、冷たい地面にたたきつけられていた。

身体は人より頑丈だが、強い衝撃にズキズキと痛み、人に例えるなら脳震盪を起こしたような、眠気か眩暈か定かでない感覚が襲う。

「なんじゃこりゃ、娘じゃねぇか」

「失敗、失敗だろサネミ。見たか、賭けはオレサマのカチだ」

「人なら食ってイイ?イイよね」

「落ち着いてください、皆さん」

気分の悪さに意識が混濁している最中、巴は無数の視線を感じていた。

口々に何か言っているが、はっきりと聞き取れたのはひと言ふた言である。

瞬きを繰り返し、ようやく意識がはっきりとしてきたころ、巴は自分が洞窟にいることを理解した。

灰褐色の岩に包まれた、薄暗い洞窟だ。

そこには蝋の明かりがいくつか灯っていて、妖と呼ばれるものと複数の人間が存在していた。

「呼んだのは十二天将のはずですが……おかしいですね。騰蛇の気配は僅かにありますが……術を解きますか?」

唐突に眼前に出てきたのは大振りの数珠を首から下げる青い装束の少年。
彼は訝し気に巴を眺めたあと、後方を振り返った。

「――まぁ、待て」

少年が指示を仰いだ相手のものだろう、低く、支配的な雰囲気を漂わせる冷たい声が響いた。

その男の声で野次を飛ばしていた妖達は鎮まり、そして声の主は巴の元へと進み出てくる。

黒い装束を纏い、淡い栗色の長髪の男が見下ろしてくる。

そして男は無造作に屈むと巴の姿を舐めるように見て、徐に着物をはだけさせた。

胸元が露わになり、一瞬、妖が冷やかすように再び騒めく。

身体は痺れて動かず、恐ろしく声すら出ない。

そんな巴から視線を外した男が「黙れ」と冷ややかに告げると、場は凍りついたように静寂が戻る。

「こいつは確かに騰蛇の一族だ。……仕方ねぇな、失敗を認めよう」

口端を持ち上げ取り囲む妖に向かって男が告げると場は湧いた。

妖らは口々に罵倒する。

「失敗!シッパイした!エセ陰陽師め」

「サネミの負けダ!弱いヤツは負ル」

「やはり失敗スルと思っていたぞ!サネミの馬鹿め!」

しかしそれらを無視して実弥と呼ばれる男は巴に告げた。

「父親にでも伝えろ。次はてめぇを引き摺り出してやると、この蘆屋実弥(あしや さねみ)が言っていたとな」

言って立ち上がった実弥に、巴はようやく声を出した。無理やり絞り出したのだ。

「……ま、待ってください」

「なんだ?」

実弥の静かな視線が注がれ、巴はこれまでの痺れを忘れ無意識に背を正す。短く問われただけなのに威圧感を覚える声音だったのだ。

それでも訊かねばならない。

「私を陰陽領に帰すのですか……?」

「あぁ、お前に用はないからな。俺が強奪したかったのは凶将騰蛇だ。術を解けばお前は主人の元へ帰れる」

醸し出される威圧感とは裏腹に、言葉はまるで宥めるような口振りだった。

だが巴が欲しかったのは生まれ育った場所に帰れるかどうかの保証ではない。

「……それでは駄目なの」

奮える声で呟いた。

わざと自分から召喚に応じたと知られれば、今度こそ陰陽領で居場所を失ってしまうだろう。

既に粗末な扱いをされているのに、最悪消されてしまうかもしれない。

「私がいらないなら見逃してください……陰陽領には、あそこには帰りたくないのです!」

巴は懇願した。

「ほぉ……なるほどな」

実弥はひとしきり巴の瞳を責めるように見遣る。
端正な造形の顔は堀が深く、力強い切れ長の目が恐ろしい。

その時間は永久のように感じるほどで、緊張から巴の瞳は揺れた。

すると実弥は、おもむろに視線を上げ妖らに向かって言い放った。

「……おい、テメェら。十二天将を差し置いてこいつが釣れた理由が分かったぞ。次の召喚は間違いなく成功するだろう、期待しておけ」

喜色を僅かに孕んだ芯のある声音が響くと、挑発的な野次が再び巻き起こったが実弥の口許には笑みが乗っている。

そこへ先ほどの年若い少年がおずおずと出てきて小首を傾げた。

「あの……実弥様。それで彼女はどうするのです?一時的に所有権は浮いてますが、実弥様が所有するか、陰陽領に返すしかないでしょう?」

丁寧な口調の少年は妖らと違い、巴の処遇を気にしていた。

ここに居させてもらえるのだろうかと期待した巴は実弥の言葉を待ったが、紡がれたのは期待とはかけ離れたものだった。

「は……?不要なもんは返すに決まってるだろ。術を解け」

眇めた眼で巴を見遣ると実弥はさも当然と言い切ったのだ。

「お願いですっ!」

瞬間、反射的に巴は実弥の前に跪いた。

この男は恐ろしいが、陰陽領に帰ればもっと恐ろしい目に合うかもしれないのだ。生き地獄、その言葉が脳裏に浮かんだ。

「なんでもします!なんでもしますから、返さないでくださいませっ……」

額を岩場に擦り付け赤褐色の長い髪が血溜まりのように広がる。

その頭に注がれる疑念渦巻く無数の視線。
その中に実弥のものも含まれている。

「実弥様?」

少年が促すように問うと、暫しの沈黙を置いて小さな舌打ちが漏れた。

僅かに瞼が反応してしまうのはその音が拒絶には聞こえなかったからかもしれない。

「――お前、何でもすると言ったな?」

「はい……」

顔を上げると巴の視線の先には眉間に皺を集めた嫌悪の表情があった。

その顔で彼はこう言ったのだ。

「俺の妻となり子を産む気があるなら、帰さないでやろう」