式神の従属婚 〜悪辣陰陽師は出来損ないの騰蛇を娶る〜

黒雲を侍らせ天高く戸愚呂を巻く黒い大蛇の姿があった。

巴はそれに目を見張っていたが、実弥は喜色を孕んだ吐息を溢し、悪どい笑みを向けている。

「六限鏡にお前の霊力の基盤となる信念を封じるには、あの陰陽師の霊力だけで足りるはずがないからな……華佗が力を与えたんだろ。自ら使えずとも術者を触媒に吸収させることは可能だ」

それほどまでに恨まれていたのだろうか。巴は心中で独り言ちた。

青龍になる可能性を秘めていたのは華佗も同じだったはずだ。

「あの姿は自業自得だ」

実弥は冷ややかに言った。
それから巴にひと枝の桃の花を差し出す。

「六限鏡の中を随分と歩き回ったが、おそらく原点はこれだろう」

それを受け取った瞬間、走馬灯のように華佗の記憶が流れ込んでくる。

これは華佗が安倍時晴から受け取った花だ。

『――時晴様は、もし私が青龍になれずとも娶ってくださるのですか?』

『当然だ。私は君がいいんだよ』

『仮に……仮にですよ、私が騰蛇のままだとして、他の方を娶ったりは?』

『しないよ。君が騰蛇なら家を説得する。四将だから娶りたいわけじゃない』

しかし父に嗜められ華佗は悲壮に溢れていた。

『時晴様のことは諦めろ。お前の鱗は最近白くなってきている。今実っている騰蛇の子がお前よりも強大な力を持つからだろう。青龍を冠するのはお前ではない。実質破談も同然だ』

『なぜですか?時晴様は私を愛してくれています』

『安倍家の当主になる方は四将しか娶らない』

『でも時晴様は青龍でなくとも私が良いと……』

『忘れろ。執着すると捨てられるぞ』

『そんな……』

愛情と不安。生まれてくる巴への憎しみ。

『この子がただの騰蛇なら、青龍になるのは私……』

時晴を慕っていた華佗の記憶は巴を複雑な気持ちにさせた。


「――騰蛇の恋は執念に似ている」

不意に実弥は言った。

諦めることが出来ず重く苦しむ華佗の記憶に触れた巴は顔を曇らせた。

「しきたりを選ぶか、自分を選ぶか、相手に委ねる選択もあったはずだ。焦って呪具に手を出したのはあいつの業だ」

時晴への想いの強さから道を踏み外し、六限鏡に亀裂が入ったことで呪詛返しに遭い邪神へと変わったのだ。

「翔期のように鏡の中で滅せられりゃ良かったが、呪った本人ではないから分身がいなかった。だが翔期に貸した霊力の穢れを一気に受け止めることにはなる。その結果があの姿だ」

黒い大蛇は鳴いた。
その叫びは人語ではない。
もはや華佗は式神だった頃の意識を保っているようには見えなかった。

「あれは祓う。村に寄せ付けたくない。近くまで行けるか?」

「もちろんです」

巴は転身し実弥を乗せ、雷雨で吹き荒れる悪天を登ってゆく。

六限鏡とはそもそも、心を殺して主の代わりに女に文を書き続けた女官の残穢が鏡に取り憑き生まれたものらしい。

報われない想いを封じ、宮仕えという人の悪意や恋情に揉まれ、非情な運命を辿った物語からはじまるのだと、書き記されてあった。

恐ろしく、切ない呪具だ。華佗も辛かっただろう。

しかしだからといって他者を陥れていいとは、許せるものだとは思えない。

巴は真っすぐ大蛇を目指す。実弥はその背で術を唱え、そして炎を吐き出した黒い大蛇を紫焔で焼き尽くしたのだった。

のちにその村には、紫焔を纏う昇龍が村を救ったと言い伝えられるようになるのだが、今は巴や実弥の知るところではない。

――――華佗の最後はあっけなかった。

「呪いとは業だ。業とは不自由だ。まぁあの記憶じゃ、お前の力を封殺しなかったとしても、どのみち華佗は嫉妬にかられ邪神となっていただろうな……――お前は業に囚われるなよ」

割れた六限鏡を集めながら、実弥は言った。
同じく鏡の破片を拾いながら巴は小さく頷いた。

「あの……勝手に来てしまって申しわけありません」

「別に。村に被害が出なかったのはお前のおかげだ。俺は空は飛べねぇからな……助かった」

「そうですか……」

なら来て良かったのか。あの時は衝動的に来てしまったが、呼ばれないということは実弥自身で解決出来ていたともいえるが……しかし、礼を言われて巴の口許は綻んだ。

「――ところで、離縁してやってもいいがどうする?」

「……え?」

突如問われ、鏡を拾う手が止まった。

「お前が望むなら従属婚を解消する。翔期の邪念も消滅して縁は完全に断たれた。加えて立派な四神になれたわけだ。もう無理矢理服従させられることも、自由を奪われることもない。自分の力で拒否できるはずだ」

「実弥様は……私が必要ではないのですか?」

「居たら都合がいいが、お前が感じている恩義とやらは精算されている」

「六限鏡は壊れたのに……」

「呪具を扱う職人に張り直させれば別の形で使える」

「……私は、妻としても不要ですか……?」

「不要だとは言ってない」

実弥はあくまで巴の意思を尊重するらしい。

それが彼なりの優しさだと気付くと、胸に込み上がってくるものがある。

ずっと陰陽領を出たいと願っていた。
そして彼と出会った。

従属婚とは、やはり巴にとって自由を掴むための一歩だったのだ。

「私は妻として実弥様のお傍にいたいです」

彼のことはまだ知らない部分が多い。
しかし夫婦として少しずつで知ってゆきたい。

そして、式神として妻として、守られるだけでなく守りたい。

巴は自分の意思で、実弥と共に歩むことを決意したのだ。

今度はただの意地ではない。


「そうか……――なら、帰るか」

実弥は巴に手を差し出した。

その手を取ると、寝所でもないのに不意に抱きしめられた。

嫌な気はまったくしない。
むしろ身体は喜んでいた。

契約で始まった婚姻で愛を囁かれたことは一度もなかったが、この温もりはいつも安心をくれる。

自由に選んでいいと、見守ってくれる大切な腕なのだ。