狐に嫁入り

 寝殿へと向か合っていると、心は却って穏やかになっていった。
 仕事は別で探せばいい。
 悪いのはあの二重人格野郎だ。
 女だからと見下すなんて最低なんだから。
 怒りを思い出している内は、心は幾らか無敵になった。

 けれど――。

「おう、来たか」

 視線を合わせるでも、手を挙げるでも、会釈をするでもなく。
 傍に置いていた何かの紙を見やりながら呟くように言う眞弥に、初は昨夕の出来事を思い出し、少し頭が熱くなった。
 ふわりと鼻をくすぐったお香の匂いなんて、一瞬間の内に意識の埒外へと離れていってしまう。

「おうお前。っと、名前」

「えっ……? う、初と申しますが――」

「そうか。初、お前今日から俺の番だから」

「……………………はい?」

 自らの耳と頭と目とついでに嗅覚とを、一瞬の内に疑いに疑った。
 喉の奥が急速に乾いてゆく。
 代わりに、驚愕と嫌悪の入り混じった、不快な味が広がった。

「俺の女だ。夫婦。良いな?」

 重ねて言われてようやく、喉に微かな潤いが戻った。

「は――は、はい…!? お、お断りです…! 有り得ません…!」

 そんなこと、断じて認められない。受け入れられない。
 現実的にも、感情的にも。
 初は声を大にして、それを拒絶した。
 それを眞弥は「まぁ聞けよ」と気怠そうな声で制する。

「まず俺は、女に興味がねぇ。何なら嫌いだ。身体は弱いし音は喧しいし群れるしそのくせ自分が一番になりたがるし、と言い出しゃキリがねぇ。持て囃されるのは悪い気分じゃねぇんだけどな」

「あの――!」

「でもよ、俺も年齢が年齢なもんで、そろそろ番だの後継者だのって問題で周りが喧しいんだよ。俺はまだまだ戦えるってのに、それだけで忙しいっつーのに、はやく次代を作れってな」

 眞弥は、初の言葉には耳を貸さないままで続ける。

「で、そこにお前が来た。お前、俺のことが嫌いだろ?」

「だ――だ、大嫌いです…!」

 こんなところで発せば大問題になるのではないだろうか—―と思いかけた気持ちを押して、初は強く言い放った。

「女性を蔑ろにする男に、か、価値なんてありません…! 弁えてください…!」

 どれだけ強く言おうとも、眞弥は表情一つ変えないで続ける。

「騙せ、周りの奴らを。民衆を。俺に代わってな」

 怪訝な顔をする初に、眞弥は続ける。

「番は出来た。が、愛し合った努力の甲斐も虚しく、後継には最後まで恵まれなかった。そういった筋書きにするんだ。その為の番は、俺なんかとは死んでも床を共にしたくないって人間が相応しいと思うわけだ。めんどくせぇし、俺はそんなことしたくもないからな。
 情は無ぇ、見てくれも地味で目を引くようなところも無ぇ、そういうやつが隣に大人しくいりゃあ、愛し合ってるっつー嘘も本当に見えるだろ」

「嘘の夫婦生活をしろ、と……?」

「ああ、形だけのな。最低限の舞台で俺の傍にさえいてくれれば、それ以外の時間は何をしていようとも構わん。それさえ守ってくれるのなら、日夜働かなくとも金だってくれてやる。これ以上ない条件だと思うが」

 苦労せずに金が手に入る。
 ここへ来た目的である、金が。
 それはとても、甘美な誘い文句ではあるが――。

「……あなたなんかと、結婚なんてしたくありません」

「契約だと言っている」

「同じことです。共に居たくないと言っているのです」

「俺の隣を狙う莫迦女共との競争もなくなる」

「そんなもの、元々狙っていません」

「だろうな。風に聞いたぞ、お前は金の為に働いているんだってな。何の目的にどれだけの額が必要かは知らんが、それと同等ということはまずない。そこいらにこの屋敷と同じだけの家を数軒建てられるってくらいは保証してやる。それなら文句はないだろう」

「分かりました。では重ねて、丁重にお断りさせていただきます」

「――阿呆なのか、お前は?」

「かもしれませんが、今の問答で、自分がどうすべきかはよく分かりました」

 気が付けば、張り詰めていた空気も、重く苦しくなっていた胸にも、意識は向いておらず。

「昨日の一件を咎め職を辞させられるのか、と不安を抱いておりましたが――もう構いません。身分、金銭、婚姻、子ども、そういったものを一括りに考えてしまえるような人間だったのですね。先入観を悔いて抱いた一縷の希望も、消えてなくなりました」

 初は、堂々たる覚悟をもって、きっぱり、そう括った。

「重ねて阿呆なのかと聞いてやる。それはな、お前とは立場も、住む世界も、全く異なるからこそ生まれる差だ」

「なればこそ、私を選ぶ理由はありません。立場が対等で自分のことを嫌いな莫迦女なんて、探せば見つかることでしょうから」

「貴様――」

「それとも何でしょう? 平民を(めと)って隣に並べて民衆に見せびらかして、そんな生活を、あなたのような気位の高い人間が耐えられるとでも?」

「――へぇ」

 挑発的に向けられた視線を、眞弥は鼻で笑い飛ばす。

「俺の見込み違いだったようだ。もういい、出て行け」

「言われなくとも。ひと月程ではありましたが、お世話になりました」

 相対する人間はそんなだが、その家から給金を貰っていたのは事実。
 まだまだ足りはしないが、幾らかの助けにはなるはずだ。
 そこへの義理は通さなければならない。

 初は深く、深く頭を下げながら、これから先どうしたものかと思案し始めた。
 入れ替わるようにして入って来た紅緒に、軽い会釈だけ残して。