夕刻。
夜間の者への引継ぎが終わった後も、初は少し残り、必要なことを片付けてから屋敷を出た。
普段より、随分と遅い時間。
正門へと続く庭園の脇で、低い位置から鋭く差し込む陽光に照らされた花々が輝いていた。
「きれい……」
その隙間に巡らされている細い通路へと入って、しゃがみ込む。
背の高い花々は、小柄な初の身体を簡単に隠してしまった。
誰かがここを通っても、すぐには見つけられないことだろう。
眺めていると、脳裏に、故郷の姿が蘇った。
向こうを発ってから、未だ数ヶ月しか経っていないというのに、随分と懐かしく感じる。
それまでは毎日当たり前に合わせていた顔や景色が、ここでは一度たりとも見られないからだろうと思う。
母。隣のおじいさん。よく遊んでいた子たち。
田畑。小さな庭。遠くの山々。
日々眺めるものの形は、随分と変わってしまったけれど。
それらの持つ魅力というものは、どこに在っても変わらない。
「このお花――」
一つ、見覚えのある花へと手を伸ばす。
その刹那、
『ったく、もう良いって!』
誰かの怒号が耳を打った。
身体が緊張する。
その声のした方を仰いでしまうのは、もはや仕方のないことだったが――
『俺は疲れるからやりたくねぇって言ってんだ、あんなこと。そもそも、女に媚び売るのなんて武士のやることじゃねぇだろ』
花々の隙間から眺める遠目には、それは定かでないけれど。
不思議と冷静に働いた脳は、耳から届くその音と、数時間前に聞いたものが、同じであるとの判断を下すのだった。
数時間前――早朝、新たな出会いのあった、あの時に。
『しかし、若――』
『あぁもう分かった、いつもと同じ小言なら明日にしてくれ、今日はもう疲れたんだ』
『――承知致しました』
頷き、その場を退いたのだろう。年季の入ったもう一つの声は、それから聞こえなくなった。
代わりに、
『はぁぁぁぁ……』
何ともだらしのない、心底辟易したような溜め息が、長く大きく響いた。
少しし後、足音が続いた。
それはこちらへ近付いて来ているようだった。
こんなところには居られない。
こんなこと聞いていられない。
——そう、思うのだけれど。
『誰が女なんかを家に入れるかよ。窮屈そのものだろうが』
一つ、二つ、漏れ聞こえてくる言葉の数々は、凡そ我慢出来るものではなかった。
今朝抱いた違和感の正体は、これだ。
『跡取りもいらねぇっての。そういうのは愚弟にでもやらせておきゃいいだろうが。俺はまだ現場の人間でいたいんだよ』
表舞台とも取れる、女中たちの前から姿を引いた途端にこれなら、恐らく、いや間違いなく、本音、本性はこっちなのだろう。
そう思ってしまったら。
思い立ってからは早かった。
いや、速かった。
初は身体を起こすと、そのままの足で声のする方へと駆けた。
柵を曲がったその先に見つけた者の姿が、正しく眞弥であると脳が判断するより早く、
「女を蔑ろにする男なんかに、これっぽちの価値もあると思わないでください…! あなたなんて大嫌いです…!」
「は? お前――」
「さようなら! お疲れ様でした!」
「なっ、おい…!」
捲し立てるように言うだけ言って、走り出して、門を飛び出て、角を曲がって――
暫く走ったその先で、
「妖還り……」
権利、力、そういったものの象徴でさえある、真っ白な狐の耳と、同じく真っ白な九つの尾を携えた、あの幻想的な姿さえ、初の目にはただ、憎たらしさの権化としか映っていなかった。
夜間の者への引継ぎが終わった後も、初は少し残り、必要なことを片付けてから屋敷を出た。
普段より、随分と遅い時間。
正門へと続く庭園の脇で、低い位置から鋭く差し込む陽光に照らされた花々が輝いていた。
「きれい……」
その隙間に巡らされている細い通路へと入って、しゃがみ込む。
背の高い花々は、小柄な初の身体を簡単に隠してしまった。
誰かがここを通っても、すぐには見つけられないことだろう。
眺めていると、脳裏に、故郷の姿が蘇った。
向こうを発ってから、未だ数ヶ月しか経っていないというのに、随分と懐かしく感じる。
それまでは毎日当たり前に合わせていた顔や景色が、ここでは一度たりとも見られないからだろうと思う。
母。隣のおじいさん。よく遊んでいた子たち。
田畑。小さな庭。遠くの山々。
日々眺めるものの形は、随分と変わってしまったけれど。
それらの持つ魅力というものは、どこに在っても変わらない。
「このお花――」
一つ、見覚えのある花へと手を伸ばす。
その刹那、
『ったく、もう良いって!』
誰かの怒号が耳を打った。
身体が緊張する。
その声のした方を仰いでしまうのは、もはや仕方のないことだったが――
『俺は疲れるからやりたくねぇって言ってんだ、あんなこと。そもそも、女に媚び売るのなんて武士のやることじゃねぇだろ』
花々の隙間から眺める遠目には、それは定かでないけれど。
不思議と冷静に働いた脳は、耳から届くその音と、数時間前に聞いたものが、同じであるとの判断を下すのだった。
数時間前――早朝、新たな出会いのあった、あの時に。
『しかし、若――』
『あぁもう分かった、いつもと同じ小言なら明日にしてくれ、今日はもう疲れたんだ』
『――承知致しました』
頷き、その場を退いたのだろう。年季の入ったもう一つの声は、それから聞こえなくなった。
代わりに、
『はぁぁぁぁ……』
何ともだらしのない、心底辟易したような溜め息が、長く大きく響いた。
少しし後、足音が続いた。
それはこちらへ近付いて来ているようだった。
こんなところには居られない。
こんなこと聞いていられない。
——そう、思うのだけれど。
『誰が女なんかを家に入れるかよ。窮屈そのものだろうが』
一つ、二つ、漏れ聞こえてくる言葉の数々は、凡そ我慢出来るものではなかった。
今朝抱いた違和感の正体は、これだ。
『跡取りもいらねぇっての。そういうのは愚弟にでもやらせておきゃいいだろうが。俺はまだ現場の人間でいたいんだよ』
表舞台とも取れる、女中たちの前から姿を引いた途端にこれなら、恐らく、いや間違いなく、本音、本性はこっちなのだろう。
そう思ってしまったら。
思い立ってからは早かった。
いや、速かった。
初は身体を起こすと、そのままの足で声のする方へと駆けた。
柵を曲がったその先に見つけた者の姿が、正しく眞弥であると脳が判断するより早く、
「女を蔑ろにする男なんかに、これっぽちの価値もあると思わないでください…! あなたなんて大嫌いです…!」
「は? お前――」
「さようなら! お疲れ様でした!」
「なっ、おい…!」
捲し立てるように言うだけ言って、走り出して、門を飛び出て、角を曲がって――
暫く走ったその先で、
「妖還り……」
権利、力、そういったものの象徴でさえある、真っ白な狐の耳と、同じく真っ白な九つの尾を携えた、あの幻想的な姿さえ、初の目にはただ、憎たらしさの権化としか映っていなかった。



