狐に嫁入り

「ん、ん……」

 徐々に覚醒してゆく意識。
 細くぼやけた視界では、すぐに何かを把握することは叶わない。
 吸い込んだ薬品が未だ効いているのが、頭も上手く機能していない。
 それでも理解出来るのは、手足が縛られているでもないということと、どこか家屋、いや物置のような場所に投げ捨てられているのだろうということくらい。
 今の初に、それをするだけの力も体力も残っていないのだろうと踏んでのことだ。でなければ、わざわざ眠らせて攫っておいて、手枷も足枷もつけないのはおかしい。
 初のことを、もっと言えば今現在の初が置かれている状況を、把握している、把握していられる者の仕業。

 即ち――。

「あら、思ったより早いお目覚めね」

 カロン、コロン……。
 それは確かに、思った通りの声だった。
 けれどもその容姿たるや、髪は黒く、瞳は紅く、一本の尾を携えていてと、記憶の中で未だ新鮮なそれとは全く異なっていた。
 優雅な足音とは裏腹に、その顔もひどい毒に染まったかのように歪んでいる。

「今朝ぶりね、初」

「紅緒、さん……」

 思った通り見知った、けれども見たことのない形相をする紅緒に、初は本能的な恐怖を感じて、乾ききった喉で唾を飲み込んだ。
 意識の途切れる直前に嗅いだのは、あの屋敷に置いてあったお香の匂いで間違いなかった。
 幾ら複雑に上から塗り重ねたところで、染みついた匂いというものはそう簡単に取れるものではない。

「紅緒さん……どうして、こんなこと……」

 初が尋ねたことに腹を立てたのか、紅緒は鋭く睨みつけて来た。
 けれどもすぐに目を伏せて、近くに用意していた椅子へと腰を下ろした。

「田舎の娘って、騙すのが楽だわ。だってそうでしょう? 普段からそこいらに生えているようなものしか食べていないから、こっちで当たり前に手に入る安物でも価値は上なんだもの。美味しい美味しいって、莫迦みたいで面白かったわ。百鬼夜行なんて御伽噺も信じいてくれてね」

「生えて……あの、茸のことですか……」

 半月前に食べた、あの茸料理の数々を思い出す。

「程よく弱ってて良いわね。手を汚す必要もなくなって、とても嬉しいわ」

「やはり、仕組まれていたことだったのですね……」

「あら、気付いていたの?」

「自分を疑い直す程の……軽微な、違和感でしたが……」

「へえ、面白そう。話して聞かせてくれるかしら?」

「……どうしましょう。話し終えるより、私が果てる方が先なような気がするので」

 そう返す初に、紅緒は目を細めた。

「――へえ。やっぱりあなた、面白いわ」

 不敵に微笑む紅緒に、初の予想は確信へと変わった。
 ここへ連れて来られてから、もう何日も経っているであろうことが。
 村にいた頃、獅桜院の屋敷で働いていた頃、食事を抜くなんてことは当たり前だった。
 節約のため。仕事のキリが悪いため。そんな心持ちではなかったため。
 理由は様々あったが、続けざまに何食も何日も抜くなどということは、験しがない。
 紅緒の屋敷にいた時でさえそうだった。

 それ故に分かるのだ。
 これは、その時の非でないくらいの空腹感と脱力感、飢餓感とすら言えてしまうくらいの危険な状態なのだと。

「そこまで分かっていて、随分と冷静なのね」

「どうでしょう……死というものは、正直そこまで怖くはありません……ただ……私が死んだ後、母が、友人が、どうなってしまうのか……その結末を知ることが出来ないということは……どんな叱責より、刃を突き立てられることより、恐ろしく、悲しいです……」

「美しい親子愛ね。涙を禁じ得ないわ」

「ご冗談を……」

 そんなこと、露とも思っていない顔だ。

「あの男が貴女に言った言葉……あれが、嘘なのか本当なのかは分かりかねますが……貴女が私を匿ったこと……いえ、屋敷へ招き活動を制限したのは、その為の出会いは……偶然なんかじゃないんでしょう……?」
今度は、眉一つ動かさずに、へぇ、とだけ紅緒は呟いた。

「紅緒さん、あなた……あの男に嫁ぐ目的、お金だけじゃありませんよね……?」

「聞かせなさい」

「ちょっと考えれば、誰でも分かることです……あの男の欲する番が、自分に興味のない女なのだと分かってから近付き始めたと言っていましたよね……なら、まるまる太っていようと、化粧の仕方が分からなかろうと、そのままの自分で挑めば勝率がグンと上がることでしょう」

「私の考えだとも言ったはずよ、それは」

「いえ……当たってますよ、それ……他でもない、あの男が言っていたことですから……目を引かない女の方が良い。その方が、愛し合った上でも子宝に恵まれなかったという嘘も信憑性を帯びるから、と……」

「――へぇ。あなたには話したんだ、それ」

 紅緒の視線が鋭く射抜く。
 些か気圧されるが、初は努めて強くそれを睨みつけ、笑ってみせる。

「わざわざ自分を磨き、美貌を手にし、その上で近付いた……相手に対し心がない人間の、することじゃありませんよ……」

 普通なら、それは取り入る為の有効打だ。
 しかし、こと眞弥に於いてそれは、却って逆効果になる。
 それを紅緒は、予想の域を出なくとも分かっていたのだ。
 努力せずとも富が手に入る。そんなの、金好きを自称する人間にとって一番の手であるはずだ。

「気分が変わったわ。少し、昔話をしてあげる」

 そう話しながら一度伏せた目を、一呼吸置いてから細く開いた。

「うちはね、あの人と同じで、血統による妖還りを繰り返す家系なの。因子は管狐――妖怪化した時の姿はこんな感じで、他者を呪う力を持つ。代々、人々から恐れられてきた家系なのよ」

「恐れられて……」

 その言葉が、どれだけの意味合いを孕んでいるのか。それは、

「今、あなたも思ったはずよ。なんて怖い姿をしているんだろう、ってね」

 続けて紅緒の発したその言葉を、即座に否定できなかったことが物語っていた。
 先入観。固定観念。
 そういったものから既に、彼女の家系は迫害の一途を辿って来たのだろう。

 しかし、そうであるのなら――。
 初は強く歯を噛み合わせた。

「自らの不幸を、血のせいにするんですか……?」

「私、我慢強い方なのよ。頭に血が昇りにくいの。分かる?」

「たちまちその呪いというものをかけて殺す意思はない、ということでしょうか……?」

「それは分からないわ。我慢強いというのは、沸点がないという意味ではないもの」

「突沸することもあると……?」

「あなたの言葉次第よ」

 横たわる初に不敵な笑みを向ける。
 初はふと視線を逸らしそうになるが、努めてその端正に歪んだ顔を見上げ続けた。

「ええ。あなたの言う通り。私は、あの人のことが好き。愛してるわ。あの人だけが、私のことを見てくれたから」

 見てくれた。
 その言葉の意味が分からず、初は顔を顰めた。
 あの男は女が嫌いだ。綻びを誤魔化そうともせず、自ら進んで口にする程に。
 それがどうして、紅緒のことを特別に見るなどということがあるのか。

「私のことなんて誰も見ようともしてくれないのに、あの人だけは、私と目を合わせてくれた。恐怖の色のない、真っ直ぐな目で。だから私は、あの人の子どもが欲しいの」

 そこまで聞いてようやく、初はその言葉の意味を理解した。
 理解出来ていないことを、理解したのだった。

「蓼食う虫も何とやら、ですかね……母の為だからと甘えていましたが、私の間違いだったようです……」

「挑発には乗ってあげられないわよ」

「別に構いません……それに、そんなの、ただの勘違いじゃありませんか……? あの男が女性を嫌っていることを、知っているんですよね……? 相手にされませんよ、きっと……」

「かもしれないわね。でも私、生憎こんな見た目の妖だから、それが出来てしまうのよ」

 紅緒は上機嫌に続ける。

「さっきも言ったけれど、私の妖としての能力は呪いよ。夢。痛み。死。そんなものを他者に与えて、肉体や精神を蝕み自由を奪う。そういう力」

「自由……」

 その言葉を一度、反芻したところで、初はまさかと思う。
 僅かに眉を動かすそんな初の表情を見下ろしながら、紅緒はニヤリと微笑んだ。