狐に嫁入り

「おはようございます! 本日も、よろしくお願いします!」

 (うい)は、深くお辞儀をしつつ声を出した。
 昨日、17歳になった。
 長い黒髪が揺れる。

 そのままの姿勢で、数秒待ってみる。
 けれど――桜花(おうか)の国は武士家系の名門、獅桜院(しおういん)家の屋敷に仕える女中の中で、それに応える声は一つもない。

 当然、それは分かり切っていたことだった。
 ここへ来てからひと月と半分、毎日続けているこの習慣で、変わったことなど一度もなかったのだから。
 そんな余裕がどこにもないのは、皆一様に、腹に抱える目的があるからだ。

 誰より早く起床していれば、或いは。
 誰より熱心に働いていれば、或いは。
 誰より姿が目立っていれば、或いは。

 それぞれ異なる方法で以って、けれども目指すところは唯一つ。
 追い越し蹴落とし、とまでの光景こそ未だ目にしたことはないが、自分の知らないどこかでは、そのようなことが繰り広げられているのだろうとも思う。
 それでも初は、今日も繰り返す。
 最愛の母から受けた教育を、その一人娘として、損なう訳にはいかないからだ。

「ちょっと、そこ邪魔なのだけれど」

 背後からの声に、振り返る間もなくその場を避ける。
 代わりに、既に額に汗をかいている背の高い女中が一人、通り過ぎて行った。

 思わず目を引かれる赤髪が美しいその女性は、紅緒(べにお)
 髪だけでなく、はっきりとした目鼻立ち、程よい凹凸の映える長い線は、女性であればこそ羨む容姿だ。
 周りが慌ただしい中での歩き方一つ取っても、気品がある。
 それに加えて、誰より貪欲に仕事をこなす姿勢も眩しい。
 女中の中で今最もその目的地に近いのは、彼女だと言われる程だ。

(私も、頑張らないと)

 拳を強く握って、初も仕事に取り掛かる。
 そんな折だった。

 耳を劈く程の歓声が、そこかしこから響いた。
 弾かれたように仰け反り、慌てて耳を塞ぐ。
 様子を窺った周囲の女中たちの向ける視線の先へと、初も釣られて見やる。

「おはようございます、眞弥(まひろ)様!」

 一人が口火を切ったことで、一歩も動かなかった皆が一斉に駆け出し、その名前を呼んだ相手のことを取り囲んだ。
 瞬く間にその姿が見えなくなる。
 けれども初は、そんな中に在っても、向けかけた視線を手元に戻し、仕事を再開した。

「うわ、まーたやってんね。よくもまぁ飽きないことだわ」

 その傍で一人、ぼやくように言う者もいた。
 雑に纏められた長い黒髪が表情を半分程隠すその女性は、美弥(みや)
 乳白色の装いは、深緑色を纏う初とは担当する仕事が異なることを意味している。

「あんたもそう思わない?」

 そうして、初の方へと視線を落とす。
 珍しいこともあるものだ。
 ここにいる女中は皆、初の知る限り、眞弥の姿を見るや、またとない売り込みの好機とばかりに駆け出してゆくというのに。
 それを達観し、寧ろ冷めた目で見ているのは、自分くらいのものだろうと思っていた。

「おはようございます。えっと……」

「美弥。普段は(くりや)の方にいるから、初めましてだよ」

 厨は、火災を避ける為に屋敷の離れにある。
 思えばこれまで、この色合いの服を着た者とは、出会ったことがなかった。

「あんたは?」

「へ……?」

「名前。いつまでもあんたじゃ悪いでしょ」

「――あっ! はい、そうですよね…!」

 それなら『あんた』と呼ばなければ良いだけなのでは、と思いかけた頭を振って、初は立ち上がり、姿勢を正した。

「初と申します。先月の頭から、ここでお世話になっています」

「初……初ね。うん、覚えた。よろしくすることは少ないかもだけど、まぁよろしくね」

「はい! よろしくお願いします!」

 努めてはっきりと言葉を発し、頭を下げる。
 それを戻したところで、美弥は別の方を向いていた。

「美弥さん?」

「若、こっち見てんね」

「へっ?」

 首を傾げつつ、そちらを仰ぐ。
 人波の隙間からこちらを見やる眞弥と、目が合ってしまった。

「美弥さん――じゃない……? え、わたし……?」

 と思いかけて、そうでもないことを悟る。
 ふわりと微笑んだ眞弥は、そのまま隣にいる美弥へもそのキラキラを飛ばすのだった。

「うわー眩し」

 やや呆れたような口調でそう言いながら、美弥は僅かに頭を下げる。

「ほら初も」

 促されてようやく、初もそちらに頭を下げる。
 が、初にはそれをする意味が、いまいちよく分からないのだった。
 他の女中たちは皆、そんなことはしないまま、我先にと駆け出していたというのに。

「ありがとう。ありがとうね、みんな。君たちのおかげで、僕は今日も仕事を頑張れるよ」

 眞弥を取り囲む女中たちを順々に見やりながら、眞弥は笑顔を振りまく。
 姿勢を戻した初は、それを程々に見送って、また仕事を再開する。

「初はああいうんじゃないんだ?」

 美弥の言葉に、初は間髪入れず頷く。

「お給金をいただく為に来ていますから。それが発生している時間に働かないのは、悪いことです」

「へえ。しっかりしてんね」

「目的が違うだけです」

 初があの輪に加わらないのは、当然それが理由だ。
 もし自分も同じ野望に燃えているのなら、今頃は同じようにああしていたことだろうけれど。

「色々苦労しそうだけど、まぁ頑張りな。あたしも戻るね」

「はい。行ってらっしゃいませ」

 ひらりと手を振る美弥を見送って、初は何となく、例の輪の方を一瞥した。
 が、その場は既に解散しており、渦中にいた眞弥の姿もなくなっていた。
 初はそれに、何とも言えない違和感を覚えていた。