この世には、男女の別とはまた異なる、もうひとつの性がある。
人は生まれながらにして、あるいは十二、三の年頃に至って、α、β、Ωのいずれかの性質をあらわす。
αとは――人を導き、支配し、家を興す性である。
気性は強く、身体も丈夫で、香りは鋭く澄んでいる。
政界、軍部、財界において頭角をあらわす者には、このαが多いとされる。
とくに高位のαは、その存在だけで周囲を圧する。
βとは――もっとも数多く、世を支える性である。
発情も番も持たず、香りも薄い。
男女の婚姻と家制度の中で、もっとも安定した人生を送るとされた。
世間一般では、βこそが「普通」と見なされている。
Ωとは――αを狂わし、血をつなぎ、家を揺るがす性である。
Ωは数が少なく、その身体は香りに敏い。
周期的に「熱」と呼ばれる発情期を迎え、強いαの香りにあてられると、理性を保つことが難しくなる。
特に男のΩは、世間から奇異の目で見られる。
男でありながらΩであることは、武家や軍人の家では恥とされるうえ、その道を絶たれる。
「——そう、Ωの軍人など、あってはならない」
——衛戍病院での邂逅より一年八か月前。
明治三十七年、北海道。
くどくどと説かれた見合い相手のご高説に「はあ」と小さな声で返してみたけれど、果たして彼の耳には届いているのだろうか。
溜息の混じる私の息は風に吹かれて消えていく。まだ少し暑い夏の日だった。
「その点私は一族皆生粋のαだ。心配することは何もない。ご安心いただけましたか? 月守 小夜子さん」
そう言って足を組みなおす目の前の男性は、獅子王 司大尉。
ご実家は薩摩の武士の出で、男爵位を授かった名家。ご本人も優秀な方で、αとして生まれた高い能力をいかんなく発揮して、若くして大尉に任命されている。
その自信に満ち溢れた態度は覇気として出ていて、近くにいるだけでピリピリとした威圧感に包まれる。
これはα特有のものだ。この威圧感をもってして人を導き、従わせ、彼らはあらゆる環境で上へと駆け上がっていく。
「わ、私は……まだ第二の性がわかっていなくて……」
「きみは女学校に通う歳でしょう。まだなのか。発育の遅い」
そしてその態度は時に傲慢に見える。いや、傲慢すぎる。
第二の性の話は非常に繊細なもので、男女の間、それも見合いの場で軽々と話題に出していいものではない。
私が第二の性にまだ目覚めていない未熟者であることはわかってる。けれど、馬鹿にするように言われるとむっとなった。お腹の底が熱くなる。珍しく怒りの感情が沸いてきて、勇気を出して声を出した。
「あ、あの……」
「何か?」
怖い。
ちら、と目を合わせただけでぎゅっと喉が詰まった。
よく日に焼けた肌に赤褐色の髪。獅子王大尉は精悍な顔立ちをした美丈夫だ。世間が日露戦争の報に一喜一憂する中、忙しい時間を縫ってきたせいで、見合いの場にも濃紺の軍服を纏ってきている。胸元を横断する太い黒の飾り紐が、彼らα特有の分厚く逞しい胸板をこれでもかと強調していた。
αの軍人。その威圧感たるや、やくざ者すら目を伏せて道を開ける。こんなちんちくりんの私が逆らえるはずもなく、しおしおと目を閉じて黙ることしかできない。
(いちおう公爵令嬢なのにな。愛人の子だけど……)
御簾の向こうにも覚えめでたい月守公爵、その末娘である私は、男爵のご子息である獅子王大尉よりも立場は上のはず。けれど気弱な気質のせいか、母の立場のせいか、これまであらゆる人間になめられてきた。
獅子王大尉も例にもれず。席だけは上座を譲ってくれるものの、喋り方も、目の前で足を組む態度も私を格下扱いしているようだった。
「聞けば母君のちゑ殿はΩだとか。公爵様はαだが……血の流れや、きみの喋り方を見るに、きっとΩでしょう」
Ωの母。その言葉を聞くと心臓が縮み上がる。
母の話をするものは皆、侮蔑するようにその名を口にした。公爵を誑かした淫らな女だと、公爵家を壊した悪女だと。
「αとΩにただ一人現れる【運命の番】でしたか? 馬鹿馬鹿しい話だが、公爵様ほどの方が農家の娘を見初められたとあって、巷では夢物語のように広まっている。なにせ玉の輿どころの話ではない、きみの母君は泥の中から雲の上へ羽ばたいたも同然だ」
「あの……母の、話は……」
「母君のことは恥ずかしいだろうが、私は気にしない。きみがΩでも構わない」
恥ずかしくなんか、ない。
母は確かに既婚者だった父に【運命の番】として見初められ、愛妾として召し上げられた。
けれど立場をわきまえて、決して公爵家に深入りはしなかった。ヒートが来ても強い薬を打って抑えていた。その副作用で寝たきりになっても、不満ひとつ言わなかった。
悲しかっただろうに、惨めだっただろうに、彼女はずっと一人だった。
【運命】なんてものに狂わされた母の人生を、そんな簡単に吐き捨ててほしくない。
「あ、ああ、あの!」
「声が大きい。ここは陸軍のサロンです。日露戦争に奔走している兵がいる前でわめくなど、恥ずかしくはないのですか?」
私の精いっぱいの抵抗は虚しく空回りした。声を上げても、冷たい目と共に一蹴されるだけ。
獅子王大尉の言う通り、周りには将校さんがたくさんいて、皆がじろりと私を見ている。恥ずかしくなって、悲しくなって、私は下を向いて唇をかんだ。
「私達ももうすぐ出兵です。国のため極寒の地へ赴き、銃弾に身を晒して、敵を殺す」
「す、すみません……将校様に、失礼なことを……」
「私を待つきみに【運命の番】なんてものが現れないよう——印をつけておきましょうか」
「えっ……」
私が何か言う前に、襟元に手が伸びる。
触れられている、その恐ろしさに身がすくむと同時に、何をされるのかはっきりと分かった。
項を噛むことで施行される印と呼ばれる、αとΩの契り。
印をつけられたΩはα以外の体を受け付けられなくなる。貞淑の誓いでもあり、Ωを縛る呪いでもある。
「やめて……」
私はΩじゃないのに。
それだけじゃない、初めて会ったばかりの男性に項を差し出したくない。
恐ろしくて身をよじって逃げようとするけれど、力強い腕に抑え込まれて動けない。
かすれた声で助けを呼ぶも、誰の耳にも届いていないようだった。
獅子王大尉の牙が項に触れる。噛みつかれる——
「そこまでだ、獅子王」
その時、冷たい手が項に触れた。
獅子王大尉の物とは違う、冷たくて大きな手。その手は私の項を大切そうに守ってくれたあと、スッと離れる。
「女性が嫌がっている」
「貴様には関係ないだろう!」
何が起きたのだろう。固まる体を必死に動かして彼らと距離を取る。
目の前では二人の男性がもみ合っていた。
「出しゃばるな、鷹島!」
人は生まれながらにして、あるいは十二、三の年頃に至って、α、β、Ωのいずれかの性質をあらわす。
αとは――人を導き、支配し、家を興す性である。
気性は強く、身体も丈夫で、香りは鋭く澄んでいる。
政界、軍部、財界において頭角をあらわす者には、このαが多いとされる。
とくに高位のαは、その存在だけで周囲を圧する。
βとは――もっとも数多く、世を支える性である。
発情も番も持たず、香りも薄い。
男女の婚姻と家制度の中で、もっとも安定した人生を送るとされた。
世間一般では、βこそが「普通」と見なされている。
Ωとは――αを狂わし、血をつなぎ、家を揺るがす性である。
Ωは数が少なく、その身体は香りに敏い。
周期的に「熱」と呼ばれる発情期を迎え、強いαの香りにあてられると、理性を保つことが難しくなる。
特に男のΩは、世間から奇異の目で見られる。
男でありながらΩであることは、武家や軍人の家では恥とされるうえ、その道を絶たれる。
「——そう、Ωの軍人など、あってはならない」
——衛戍病院での邂逅より一年八か月前。
明治三十七年、北海道。
くどくどと説かれた見合い相手のご高説に「はあ」と小さな声で返してみたけれど、果たして彼の耳には届いているのだろうか。
溜息の混じる私の息は風に吹かれて消えていく。まだ少し暑い夏の日だった。
「その点私は一族皆生粋のαだ。心配することは何もない。ご安心いただけましたか? 月守 小夜子さん」
そう言って足を組みなおす目の前の男性は、獅子王 司大尉。
ご実家は薩摩の武士の出で、男爵位を授かった名家。ご本人も優秀な方で、αとして生まれた高い能力をいかんなく発揮して、若くして大尉に任命されている。
その自信に満ち溢れた態度は覇気として出ていて、近くにいるだけでピリピリとした威圧感に包まれる。
これはα特有のものだ。この威圧感をもってして人を導き、従わせ、彼らはあらゆる環境で上へと駆け上がっていく。
「わ、私は……まだ第二の性がわかっていなくて……」
「きみは女学校に通う歳でしょう。まだなのか。発育の遅い」
そしてその態度は時に傲慢に見える。いや、傲慢すぎる。
第二の性の話は非常に繊細なもので、男女の間、それも見合いの場で軽々と話題に出していいものではない。
私が第二の性にまだ目覚めていない未熟者であることはわかってる。けれど、馬鹿にするように言われるとむっとなった。お腹の底が熱くなる。珍しく怒りの感情が沸いてきて、勇気を出して声を出した。
「あ、あの……」
「何か?」
怖い。
ちら、と目を合わせただけでぎゅっと喉が詰まった。
よく日に焼けた肌に赤褐色の髪。獅子王大尉は精悍な顔立ちをした美丈夫だ。世間が日露戦争の報に一喜一憂する中、忙しい時間を縫ってきたせいで、見合いの場にも濃紺の軍服を纏ってきている。胸元を横断する太い黒の飾り紐が、彼らα特有の分厚く逞しい胸板をこれでもかと強調していた。
αの軍人。その威圧感たるや、やくざ者すら目を伏せて道を開ける。こんなちんちくりんの私が逆らえるはずもなく、しおしおと目を閉じて黙ることしかできない。
(いちおう公爵令嬢なのにな。愛人の子だけど……)
御簾の向こうにも覚えめでたい月守公爵、その末娘である私は、男爵のご子息である獅子王大尉よりも立場は上のはず。けれど気弱な気質のせいか、母の立場のせいか、これまであらゆる人間になめられてきた。
獅子王大尉も例にもれず。席だけは上座を譲ってくれるものの、喋り方も、目の前で足を組む態度も私を格下扱いしているようだった。
「聞けば母君のちゑ殿はΩだとか。公爵様はαだが……血の流れや、きみの喋り方を見るに、きっとΩでしょう」
Ωの母。その言葉を聞くと心臓が縮み上がる。
母の話をするものは皆、侮蔑するようにその名を口にした。公爵を誑かした淫らな女だと、公爵家を壊した悪女だと。
「αとΩにただ一人現れる【運命の番】でしたか? 馬鹿馬鹿しい話だが、公爵様ほどの方が農家の娘を見初められたとあって、巷では夢物語のように広まっている。なにせ玉の輿どころの話ではない、きみの母君は泥の中から雲の上へ羽ばたいたも同然だ」
「あの……母の、話は……」
「母君のことは恥ずかしいだろうが、私は気にしない。きみがΩでも構わない」
恥ずかしくなんか、ない。
母は確かに既婚者だった父に【運命の番】として見初められ、愛妾として召し上げられた。
けれど立場をわきまえて、決して公爵家に深入りはしなかった。ヒートが来ても強い薬を打って抑えていた。その副作用で寝たきりになっても、不満ひとつ言わなかった。
悲しかっただろうに、惨めだっただろうに、彼女はずっと一人だった。
【運命】なんてものに狂わされた母の人生を、そんな簡単に吐き捨ててほしくない。
「あ、ああ、あの!」
「声が大きい。ここは陸軍のサロンです。日露戦争に奔走している兵がいる前でわめくなど、恥ずかしくはないのですか?」
私の精いっぱいの抵抗は虚しく空回りした。声を上げても、冷たい目と共に一蹴されるだけ。
獅子王大尉の言う通り、周りには将校さんがたくさんいて、皆がじろりと私を見ている。恥ずかしくなって、悲しくなって、私は下を向いて唇をかんだ。
「私達ももうすぐ出兵です。国のため極寒の地へ赴き、銃弾に身を晒して、敵を殺す」
「す、すみません……将校様に、失礼なことを……」
「私を待つきみに【運命の番】なんてものが現れないよう——印をつけておきましょうか」
「えっ……」
私が何か言う前に、襟元に手が伸びる。
触れられている、その恐ろしさに身がすくむと同時に、何をされるのかはっきりと分かった。
項を噛むことで施行される印と呼ばれる、αとΩの契り。
印をつけられたΩはα以外の体を受け付けられなくなる。貞淑の誓いでもあり、Ωを縛る呪いでもある。
「やめて……」
私はΩじゃないのに。
それだけじゃない、初めて会ったばかりの男性に項を差し出したくない。
恐ろしくて身をよじって逃げようとするけれど、力強い腕に抑え込まれて動けない。
かすれた声で助けを呼ぶも、誰の耳にも届いていないようだった。
獅子王大尉の牙が項に触れる。噛みつかれる——
「そこまでだ、獅子王」
その時、冷たい手が項に触れた。
獅子王大尉の物とは違う、冷たくて大きな手。その手は私の項を大切そうに守ってくれたあと、スッと離れる。
「女性が嫌がっている」
「貴様には関係ないだろう!」
何が起きたのだろう。固まる体を必死に動かして彼らと距離を取る。
目の前では二人の男性がもみ合っていた。
「出しゃばるな、鷹島!」
