「あなた……は……」
震える声が、四月の乾いた空気に響いた。
からりと晴れた春の日だった。
窓の外では若葉が風に揺れ、病院の中庭を白い蝶が飛んでいる。それなのに、この部屋だけが雨季の温室のような、異様な熱と湿り気に包まれていた。
東京衛戍病院——陸軍の傷病兵を収容する病院の一室。
親同士が決めた政略結婚、その婚約者が通院していると聞き、挨拶に訪れた私を待っていたのは、凄絶な熱気だった。
軍人が私の前に膝をついている。
金色の髪が荒い息と共に上下に揺れる。黒い眼帯が右目を覆い隠していた。
「金色の鷹」——その美しい姿は、新聞で何度も見たことがある。
日本人離れした金色の髪に、若草色の瞳。すっと通った鼻筋に、高い背丈。
日露戦争の英雄。二〇三高地で右目を失いながら、奉天会戦まで戦い抜いた陸軍大尉。軍神・鷹島シヅヲ。
その人が今、床に片手をつき、体を震わせている。
「ご、ごめんなさい……私……」
私は立ち上がった。
けれど、扉へ向かおうとした途端、鷹島さんの手が私の袂をつかむ。
「いい」
低く掠れた声だった。
普段なら一個中隊を動かすであろうその声に、今は命令する力が残っていない。
甘く儚い囁き声に頬が赤くなる。それどころではないというのに、蠱惑的な芳香と声に、あってはならぬ思いを抱いてしまいそうだった。
「何もしなくて、いい……」
鷹島さんは、床へ落としていた顔をゆっくりと上げた。
眼帯に覆われていない左目は、夏の日を思わせる若草の色をしていた。
その瞳が私を捉えた瞬間、心臓が大きく跳ねる。
「これは、Ωのヒートだ」
一瞬、言葉の意味が分からなかった。
Ω——それは人を誘惑する第二の性。
この国において、Ωとは「理性を欠いた獣」と同義であった。
周期的に訪れる発情期によって本能に支配され、強いαの香りにあてられれば、自らを制御することすら叶わない。ゆえに世間はΩを、学問にも政にも向かない「劣った性」として蔑んだ。
彼らに唯一与えられた役割は、優秀なαの血を残すための「産む道具」となること。己の意志など介在しないまま、Ωは人間としての尊厳を奪われ、ただ所有されるだけの生涯を送るのだ。
目の前にいる軍神が、国の英雄が、そんな哀れなΩの訳がない。
(けれどこの香りは、私を誘っている——!)
「離れ……なければ……」
鷹島さんはそう言いながらも、袂をつかむ手を離せないでいる。
震える手で必死に手を開こうとするが、できない。ヒート——Ωの発情が体を支配しているのだ。
「鷹島さん……」
何か声をかけようとした時、彼の手が強く私の袂を引いた。
熱に浮かされた重い身体が、私を巻き込むようにして崩れ落ちる。
どさりと音がしてベッドに倒される。
安いスプリングが軋んで、真っ白な天井が目の前に広がった。
押し倒されているとわかったのは数秒経ってからだった。
「この……ヒートは……」
私の体にまたがるようにして、鷹島さんは低くうめいている。
真っ白な肌に汗の球がにじんでいて、ぽたりと私の肌に触れた。
じく……と、玉の汗が触れた部分が熱くなる。
男性に押し倒されているというのに、不思議と危機感はなかった。
「あなたのα性に、あてられている……!」
それは、この発情が——私が誘発したものだから。
言葉と同時に、私の身体の奥底で、何かが爆発したように熱くなった。
ドクン、と心臓が跳ね、血液が沸騰する。
私は、第二の性に目覚めてすらいない、ただの出来損ないのはずだった。それなのに、今の私の体は飢えた獣のように目の前の美しい男性を求めている。
「あ、う……っ」
鷹島さんが、耐えかねたように声を漏らした。
大柄な彼の身体が、崩れ落ちる。最後の理性で耐えていた腕が崩れ、私の上に折り重なる。
それでも無体はするまいと、彼は己の唇を血が出るほどに噛み締めて劣情に耐えている。
私のフェロモンが、彼を狂わせている。
視線が交わる。
組み敷かれているのは私なのに、彼を見下ろしているのは、私の本能だった。
男女の性など、この熱の前では何の役にも立たない。
この場においての捕食者は、今まさにαとして目覚めた私で、目の前で荒い息を吐く軍神は、私の許しを乞うΩだ。
彼の、無防備に晒された白い項が見える。
あそこに牙を立てたい。噛みついて、血を流させ、私の所有物だと印をつけてしまいたい――。
おぞましいほどの独占欲が頭をもたげ、私は自分の本能の凶暴さに恐怖した。
「たか、しま……さん……」
明治の世において、女性は女性らしく、男性は男性らしく振舞うことが強く求められている。
Ωの軍人などあってはならない。彼の存在は許されない。
αと振舞う女性は慎みがない、男性の項に噛みつくなど許されない。
「わたしは……」
決して許されぬ身分の差。
私たちの婚姻は、破綻から始まっていた。
どうしてこうなったのだろう。
熱に浮かされた頭で必死に記憶をたどる。思えば、出会った時から私たちは少しおかしかった。
男のΩと、女のα。
世間では決して認められぬふたりが出会ったのは、今から数年前のことになる——
震える声が、四月の乾いた空気に響いた。
からりと晴れた春の日だった。
窓の外では若葉が風に揺れ、病院の中庭を白い蝶が飛んでいる。それなのに、この部屋だけが雨季の温室のような、異様な熱と湿り気に包まれていた。
東京衛戍病院——陸軍の傷病兵を収容する病院の一室。
親同士が決めた政略結婚、その婚約者が通院していると聞き、挨拶に訪れた私を待っていたのは、凄絶な熱気だった。
軍人が私の前に膝をついている。
金色の髪が荒い息と共に上下に揺れる。黒い眼帯が右目を覆い隠していた。
「金色の鷹」——その美しい姿は、新聞で何度も見たことがある。
日本人離れした金色の髪に、若草色の瞳。すっと通った鼻筋に、高い背丈。
日露戦争の英雄。二〇三高地で右目を失いながら、奉天会戦まで戦い抜いた陸軍大尉。軍神・鷹島シヅヲ。
その人が今、床に片手をつき、体を震わせている。
「ご、ごめんなさい……私……」
私は立ち上がった。
けれど、扉へ向かおうとした途端、鷹島さんの手が私の袂をつかむ。
「いい」
低く掠れた声だった。
普段なら一個中隊を動かすであろうその声に、今は命令する力が残っていない。
甘く儚い囁き声に頬が赤くなる。それどころではないというのに、蠱惑的な芳香と声に、あってはならぬ思いを抱いてしまいそうだった。
「何もしなくて、いい……」
鷹島さんは、床へ落としていた顔をゆっくりと上げた。
眼帯に覆われていない左目は、夏の日を思わせる若草の色をしていた。
その瞳が私を捉えた瞬間、心臓が大きく跳ねる。
「これは、Ωのヒートだ」
一瞬、言葉の意味が分からなかった。
Ω——それは人を誘惑する第二の性。
この国において、Ωとは「理性を欠いた獣」と同義であった。
周期的に訪れる発情期によって本能に支配され、強いαの香りにあてられれば、自らを制御することすら叶わない。ゆえに世間はΩを、学問にも政にも向かない「劣った性」として蔑んだ。
彼らに唯一与えられた役割は、優秀なαの血を残すための「産む道具」となること。己の意志など介在しないまま、Ωは人間としての尊厳を奪われ、ただ所有されるだけの生涯を送るのだ。
目の前にいる軍神が、国の英雄が、そんな哀れなΩの訳がない。
(けれどこの香りは、私を誘っている——!)
「離れ……なければ……」
鷹島さんはそう言いながらも、袂をつかむ手を離せないでいる。
震える手で必死に手を開こうとするが、できない。ヒート——Ωの発情が体を支配しているのだ。
「鷹島さん……」
何か声をかけようとした時、彼の手が強く私の袂を引いた。
熱に浮かされた重い身体が、私を巻き込むようにして崩れ落ちる。
どさりと音がしてベッドに倒される。
安いスプリングが軋んで、真っ白な天井が目の前に広がった。
押し倒されているとわかったのは数秒経ってからだった。
「この……ヒートは……」
私の体にまたがるようにして、鷹島さんは低くうめいている。
真っ白な肌に汗の球がにじんでいて、ぽたりと私の肌に触れた。
じく……と、玉の汗が触れた部分が熱くなる。
男性に押し倒されているというのに、不思議と危機感はなかった。
「あなたのα性に、あてられている……!」
それは、この発情が——私が誘発したものだから。
言葉と同時に、私の身体の奥底で、何かが爆発したように熱くなった。
ドクン、と心臓が跳ね、血液が沸騰する。
私は、第二の性に目覚めてすらいない、ただの出来損ないのはずだった。それなのに、今の私の体は飢えた獣のように目の前の美しい男性を求めている。
「あ、う……っ」
鷹島さんが、耐えかねたように声を漏らした。
大柄な彼の身体が、崩れ落ちる。最後の理性で耐えていた腕が崩れ、私の上に折り重なる。
それでも無体はするまいと、彼は己の唇を血が出るほどに噛み締めて劣情に耐えている。
私のフェロモンが、彼を狂わせている。
視線が交わる。
組み敷かれているのは私なのに、彼を見下ろしているのは、私の本能だった。
男女の性など、この熱の前では何の役にも立たない。
この場においての捕食者は、今まさにαとして目覚めた私で、目の前で荒い息を吐く軍神は、私の許しを乞うΩだ。
彼の、無防備に晒された白い項が見える。
あそこに牙を立てたい。噛みついて、血を流させ、私の所有物だと印をつけてしまいたい――。
おぞましいほどの独占欲が頭をもたげ、私は自分の本能の凶暴さに恐怖した。
「たか、しま……さん……」
明治の世において、女性は女性らしく、男性は男性らしく振舞うことが強く求められている。
Ωの軍人などあってはならない。彼の存在は許されない。
αと振舞う女性は慎みがない、男性の項に噛みつくなど許されない。
「わたしは……」
決して許されぬ身分の差。
私たちの婚姻は、破綻から始まっていた。
どうしてこうなったのだろう。
熱に浮かされた頭で必死に記憶をたどる。思えば、出会った時から私たちは少しおかしかった。
男のΩと、女のα。
世間では決して認められぬふたりが出会ったのは、今から数年前のことになる——
