旭は、一人で夜道を行く。
小さな神社へと繋がる道だった。
普段は参拝する者も少ないこの神社だが、祭りの時にだけ、屋台が立ち並び、目覚めたように賑やかになる。
旭はその華やぎを、母から聞いた分だけしか知らない。
恋人に連れられてこの神社の祭りに来たのだと。
その当時、まだ、立花家に二人の関係は明るみになっていなかった。
奥様や大奥様の目をどう搔い潜るか、人で知恵を絞ったこと。小さな硝子玉のついた簪を買ってもらったこと。
母の思い出が宿る場所を、旭は粗末な着物を着てゆっくりと歩いていた。
藍色の擦り切れた小袖。髪は下ろし、あえて手入れのしていない風に乱した。
母と暮らしていた時の旭は、いつもこんな格好をしていた。
幽鬼となった母が恋人を求めて彷徨っている。恋人を待ち続けた長屋に行きつき、形見である旭に手を伸ばした。
恋人との思い出の地で、娘が──それも共に暮らしていた時と瓜二つの恰好をしていた娘が一人でいたのなら、母は間違いなく引き付けられ、姿を現す。
これまでに、鎮守衆が何度も取り逃がしているのだ。
確実に仕留めるためには、旭が囮になるのが最も良い手のように思えた。
(──来た)
旭は、道の向こうに橙色の灯が燈るのを見た。幽鬼が纏う光。鬼火である。
光がやがて姿を持ち、髪の長い女の姿になる。その顔が、旭の方へと向けられる。
窪んだ目に宿るのは、病に命を蝕まれ続けながらも消えなかった恋の炎だ。
一歩一歩と旭に近づいて来る。
旭が囮になると言った時、伊吹は反対した。
だが、あの幽鬼は母なのだ。娘である旭は何もせずにはいられなかった。
少なくとも、旭にも立花家の加護がある。自分の身を守ることが出来る。そう説き伏せた。
もちろん、伊吹の第二分隊は、何かあればすぐに駆け付けられるように、近くに控えている。
「かあさま」
「旭……あぁ、旭」
「はい。旭です。かあさま」
幽鬼は、今度は旭を一目で娘と認識した。
「ねぇ、あの人はどこ? 私を待っているの。迎えに来てくれるの」
旭はその場から動かない。動いてはいけない。旭の役目は幽鬼を引き寄せることだ。
「あぁ旭……ほんとうにあの人によく似ている」
そして結界の中に幽鬼を閉じ込め、足止めをすることができる。
(結界を張らないといけない、のに)
母の言葉が旭の心に爪を立て続ける。
「あの人との宝物……」
旭にとって、母は唯一の存在だったのに、旭は母にとっての唯一になれなかった。
「どうして……」
死んでなお、旭に目もくれない。
そのことが、悲しい──悔しい。
求められることが、ここにいて欲しいと願われることがどれほど幸せか知った。
母だって知っているはずだ。
なのに、その幸せを、娘に与えようとは思わなかったのか。
知ったからこそ、求めるばかりの母に、怒りが湧き上がってくる。
その怒りに突き動かされ、旭は発作的に叫んでいた。
「来るわけないじゃない! とうさまはとっくの昔に私も、かあさまも見捨てたの! 結局、とうさまにとっては一時の恋の相手だっただけ!」
旭はもう堪えられなかった。
死んだ今でさえ、旭を踏みにじり続ける母を、どうにか傷つけてやりたかった。
「かあさまが死んで、お弔いもしないで、とうさまだって死んだのよ!」
嫌と言う程わかっている。幽鬼に死を自覚させてはいけない。それでも、旭は止まれなかった。
その瞬間、母の姿が崩れた。
今にも倒れそうなやつれた顔が、般若の様に歪む。青白い肌が赤く染まる。節ばった手足は太くなり、爪が伸び、その姿を変える。
(──鬼)
喰らった魂を押しのけ、本性を現した鬼。禍々しい姿が、今まさに旭に襲い掛かろうとしていた。
「旭!」
声が、する。
我に返った旭の目に飛び込んできたのは、飛沫を上げた鮮血だった。
刀を手に旭を庇う伊吹。刀で鬼の片手を止めていたものの、もう一方の手は、伊吹を捉えていたのだ。
「隊長!」
「旦那様──!」
駆け付ける隊員と、旭の悲鳴が重なる。
誰もが動揺するなか、最も冷静だったのは、怪我を負った本人である伊吹だった。
「総員構え!」
「はい!」
強く鋭い指示に、皆が一丸となって動き出す。
伊吹は刀で幽鬼を押し返した。開いた両者をつなぐように、伊吹の腕から流れた血が舞う。
本性をむき出しにした幽鬼は、逃げる気配を見せない。鋭い爪先から血を払った。
その太い脚で砂利を踏みしめ、飛び掛からんとするように、体勢を低くした。
「旭、結界を──!」
「は、はい!」
そのの足が地面を蹴る直前、旭は自らの加護を展開した。
鬼が、透明な結界の中に閉じ込められる。
生まれた僅かな隙を逃さぬように、隊員たちは鬼を取り囲んだ。
合図に従い結界を解いた旭は、そして、自らの母の魂を喰らった鬼が、数多の刃に貫かれる姿を見ることになる。
「かあさま……」
その姿が塵となって消えていく。
今となっては、その鬼に母の面影はなかった。
***
鬼の気配が完全に消え失せると、気が緩んだのか伊吹はその場に膝をついた。
旭は慌てて傍に寄り、支えようと傍らから手を差し伸べた。
「旦那様──怪我が!」
「いや、いい」
押しのける手を握り、旭は涙ぐみながら訴えかける。
「よくないです! 申し訳ございません、私のせいで……」
「囮になることを許可したのは私だ。旭のせいではない」
この期に及んでも、伊吹は旭を責めなかった。
「辛いものを見せた」
そして、それすら自分の無力のように悔やむ。
「旦那様……」
旭はそっと、血で染まった腕に手を添えた。懐から手布を取り出し、抑えようとする。
その手を、伊吹の熱い掌に掴まれた。
「──っ!」
強い力で引き寄せられ、気が付けば旭は伊吹の腕の中にいた。
「君が……旭が襲われる様子を見て、怖くなった。君を、失うのではないかと」
触れ合った胸から、鼓動が伝わる。大きく激しい鼓動。
伊吹だけではない。旭の胸もまた、伊吹に応えるように高鳴っているのが分かる。
痛い程に。燃えるほどに熱く。
(あぁ……これが……)
その感情の名前を、旭は知っている。
その甘さに頭の芯が痺れたように感じた。
求め、求められる。他人でしかなかった二人が同じ気持ちを抱く。軌跡のようなめぐり合わせ。
(かあさまが虜になったもの……)
幸せそうな思い出。死の淵に瀕してなお、甘く疼くもの。
そして、その感情故に身を滅ぼした。
(幽鬼になって彷徨ってまで──)
その瞬間、旭の全身から血の気が引いた。
(怖い……!)
「旭、俺は──」
「駄目です……!」
旭は、伊吹の胸に手をつき、体を離した。
この先の言葉が想像できてしまう。聞くわけにはいかなかった。
愛する気持ちを知り、思い合うことの幸せを知ってもなお、旭はその気持ちを認めることが出来なかった。
「旦那様、それは契約違反です!」
旭は、自分自身の感情を振り切るように、力いっぱい叫んだのだった。
小さな神社へと繋がる道だった。
普段は参拝する者も少ないこの神社だが、祭りの時にだけ、屋台が立ち並び、目覚めたように賑やかになる。
旭はその華やぎを、母から聞いた分だけしか知らない。
恋人に連れられてこの神社の祭りに来たのだと。
その当時、まだ、立花家に二人の関係は明るみになっていなかった。
奥様や大奥様の目をどう搔い潜るか、人で知恵を絞ったこと。小さな硝子玉のついた簪を買ってもらったこと。
母の思い出が宿る場所を、旭は粗末な着物を着てゆっくりと歩いていた。
藍色の擦り切れた小袖。髪は下ろし、あえて手入れのしていない風に乱した。
母と暮らしていた時の旭は、いつもこんな格好をしていた。
幽鬼となった母が恋人を求めて彷徨っている。恋人を待ち続けた長屋に行きつき、形見である旭に手を伸ばした。
恋人との思い出の地で、娘が──それも共に暮らしていた時と瓜二つの恰好をしていた娘が一人でいたのなら、母は間違いなく引き付けられ、姿を現す。
これまでに、鎮守衆が何度も取り逃がしているのだ。
確実に仕留めるためには、旭が囮になるのが最も良い手のように思えた。
(──来た)
旭は、道の向こうに橙色の灯が燈るのを見た。幽鬼が纏う光。鬼火である。
光がやがて姿を持ち、髪の長い女の姿になる。その顔が、旭の方へと向けられる。
窪んだ目に宿るのは、病に命を蝕まれ続けながらも消えなかった恋の炎だ。
一歩一歩と旭に近づいて来る。
旭が囮になると言った時、伊吹は反対した。
だが、あの幽鬼は母なのだ。娘である旭は何もせずにはいられなかった。
少なくとも、旭にも立花家の加護がある。自分の身を守ることが出来る。そう説き伏せた。
もちろん、伊吹の第二分隊は、何かあればすぐに駆け付けられるように、近くに控えている。
「かあさま」
「旭……あぁ、旭」
「はい。旭です。かあさま」
幽鬼は、今度は旭を一目で娘と認識した。
「ねぇ、あの人はどこ? 私を待っているの。迎えに来てくれるの」
旭はその場から動かない。動いてはいけない。旭の役目は幽鬼を引き寄せることだ。
「あぁ旭……ほんとうにあの人によく似ている」
そして結界の中に幽鬼を閉じ込め、足止めをすることができる。
(結界を張らないといけない、のに)
母の言葉が旭の心に爪を立て続ける。
「あの人との宝物……」
旭にとって、母は唯一の存在だったのに、旭は母にとっての唯一になれなかった。
「どうして……」
死んでなお、旭に目もくれない。
そのことが、悲しい──悔しい。
求められることが、ここにいて欲しいと願われることがどれほど幸せか知った。
母だって知っているはずだ。
なのに、その幸せを、娘に与えようとは思わなかったのか。
知ったからこそ、求めるばかりの母に、怒りが湧き上がってくる。
その怒りに突き動かされ、旭は発作的に叫んでいた。
「来るわけないじゃない! とうさまはとっくの昔に私も、かあさまも見捨てたの! 結局、とうさまにとっては一時の恋の相手だっただけ!」
旭はもう堪えられなかった。
死んだ今でさえ、旭を踏みにじり続ける母を、どうにか傷つけてやりたかった。
「かあさまが死んで、お弔いもしないで、とうさまだって死んだのよ!」
嫌と言う程わかっている。幽鬼に死を自覚させてはいけない。それでも、旭は止まれなかった。
その瞬間、母の姿が崩れた。
今にも倒れそうなやつれた顔が、般若の様に歪む。青白い肌が赤く染まる。節ばった手足は太くなり、爪が伸び、その姿を変える。
(──鬼)
喰らった魂を押しのけ、本性を現した鬼。禍々しい姿が、今まさに旭に襲い掛かろうとしていた。
「旭!」
声が、する。
我に返った旭の目に飛び込んできたのは、飛沫を上げた鮮血だった。
刀を手に旭を庇う伊吹。刀で鬼の片手を止めていたものの、もう一方の手は、伊吹を捉えていたのだ。
「隊長!」
「旦那様──!」
駆け付ける隊員と、旭の悲鳴が重なる。
誰もが動揺するなか、最も冷静だったのは、怪我を負った本人である伊吹だった。
「総員構え!」
「はい!」
強く鋭い指示に、皆が一丸となって動き出す。
伊吹は刀で幽鬼を押し返した。開いた両者をつなぐように、伊吹の腕から流れた血が舞う。
本性をむき出しにした幽鬼は、逃げる気配を見せない。鋭い爪先から血を払った。
その太い脚で砂利を踏みしめ、飛び掛からんとするように、体勢を低くした。
「旭、結界を──!」
「は、はい!」
そのの足が地面を蹴る直前、旭は自らの加護を展開した。
鬼が、透明な結界の中に閉じ込められる。
生まれた僅かな隙を逃さぬように、隊員たちは鬼を取り囲んだ。
合図に従い結界を解いた旭は、そして、自らの母の魂を喰らった鬼が、数多の刃に貫かれる姿を見ることになる。
「かあさま……」
その姿が塵となって消えていく。
今となっては、その鬼に母の面影はなかった。
***
鬼の気配が完全に消え失せると、気が緩んだのか伊吹はその場に膝をついた。
旭は慌てて傍に寄り、支えようと傍らから手を差し伸べた。
「旦那様──怪我が!」
「いや、いい」
押しのける手を握り、旭は涙ぐみながら訴えかける。
「よくないです! 申し訳ございません、私のせいで……」
「囮になることを許可したのは私だ。旭のせいではない」
この期に及んでも、伊吹は旭を責めなかった。
「辛いものを見せた」
そして、それすら自分の無力のように悔やむ。
「旦那様……」
旭はそっと、血で染まった腕に手を添えた。懐から手布を取り出し、抑えようとする。
その手を、伊吹の熱い掌に掴まれた。
「──っ!」
強い力で引き寄せられ、気が付けば旭は伊吹の腕の中にいた。
「君が……旭が襲われる様子を見て、怖くなった。君を、失うのではないかと」
触れ合った胸から、鼓動が伝わる。大きく激しい鼓動。
伊吹だけではない。旭の胸もまた、伊吹に応えるように高鳴っているのが分かる。
痛い程に。燃えるほどに熱く。
(あぁ……これが……)
その感情の名前を、旭は知っている。
その甘さに頭の芯が痺れたように感じた。
求め、求められる。他人でしかなかった二人が同じ気持ちを抱く。軌跡のようなめぐり合わせ。
(かあさまが虜になったもの……)
幸せそうな思い出。死の淵に瀕してなお、甘く疼くもの。
そして、その感情故に身を滅ぼした。
(幽鬼になって彷徨ってまで──)
その瞬間、旭の全身から血の気が引いた。
(怖い……!)
「旭、俺は──」
「駄目です……!」
旭は、伊吹の胸に手をつき、体を離した。
この先の言葉が想像できてしまう。聞くわけにはいかなかった。
愛する気持ちを知り、思い合うことの幸せを知ってもなお、旭はその気持ちを認めることが出来なかった。
「旦那様、それは契約違反です!」
旭は、自分自身の感情を振り切るように、力いっぱい叫んだのだった。

