人力車がぶら下げた提灯が、揺れながら世闇に消えていく。
その灯が見えなくなると、旭は踵を返した。
詰め所からの帰りに旭が車夫に頼んだの行先は、榊家ではなかった。
(確かめないと……)
約束を──寄り道を、せざるを得なかった。
港にほど近い一角。
そこには、古くからの長屋が寄り集まっている。押し寄せる発展の波から取り残されたような様相を呈していた。
それでも、都会での出世を夢見る出稼ぎや貧しさゆえに追いやられた人々で、長屋の多くは埋まっている状態だった。
旭と母もまた、立花家から追い出されてこの長屋へやって来た。
旭は、大きく息を吸い込み、ゆっくりと歩き始めた。
目指すのは、旭と母が暮らした長屋だ。旭がこの場所を去ってから数年は経っているのに、建物も道も何も変わっていなかった。
記憶を辿りながら歩く旭の目の前に、ゆらゆらと橙色の光が見える。
誰かが歩いて来るのかと思い、目を眇めたものの、次第にそれが長細い形をしていることが分かる。
光が、近づいて来る。
やがて、それが幽鬼特有の橙色の光──鬼火を纏う人であることが分かり、女であることが分かる。
長い髪が揺れる様子が見え、やせ細った細い腕をぶら下げているのが分かった。
(あぁ、やはり……)
瞬きをした旭の目から、一筋の涙が零れ落ちた。
慕わしい姿を見ることができた嬉しさ。それ以上に、魂を食われただ彷徨うだけの幽鬼になり果てた痛ましさ。
「かあさま……」
間違いなく、旭の母親だった。
呟いた声に、旭の母が顔を上げる。底なし沼のような目が、旭を捉えた。
旭を見据え、近づいて来る。
(結界を──)
旭に宿る立花家の加護。使わなければ、あるいは逃げなければと思うのに、旭は動けなかった。
「あさひ?……あさひなの?」
皮膚の逆立った唇から声が零れ落ちる。懐かしい声だった。
「えぇ、かあさま」
幽鬼は討伐すべきもの。同情は不要。声をかけるなど、言語道断。それなのに。
(もしかして……。私のために?)
死ぬ直前まで、恋人を思っていた。でもこの世を去って、ふと我に返ったのかもしれない。
一人残された娘のことを思い出した。だからこうして、幽鬼になってまで彷徨っていたのだろうか。
そして今、ようやく旭を見つけて手を伸ばして──
「ねぇ、あの人はどこ?」
だが、その言葉に、旭は冷や水を掛けられたような心地がした。
「私を助けてくれると言っていたの。あの人は? 旭なら知ってるでしょう?」
分かっているつもりだった。母が求めるのは恋人だけ。
「とう、さまは──」
口約束の結婚をし、愛し愛される関係にあったのに。子供までもうけたと言うのに。
男は母親に雷を落とされるや否や、手のひらを返した。恋人と娘に大した手切れ金すらも持たせず、長屋に追いやった。
そんな男を、母は未だに待っている。
父と口に出した瞬間、母の目が爛々と輝く。その指先が、今にも旭に触れようとする。
だが、幽鬼の指は娘を掠めて宙を搔いただけだった。
突然、旭は首根っこを掴まれ、後ろへと引きずられていた。倒れこむ旭の傍らを、いくつもの足音が過ぎていく。
体を起こした旭は、刀を手にする男達の先で、幽鬼がゆらりと形を失い、消えていくのを見た。
──逃げたのだ。
「旭! 無事か!」
「旦那様……」
「何故こんなところにいる! 寄り道をするなと……」
旭に手を差し伸べたのは、伊吹だった。鎮守衆の巡回が見つけてくれたのだ。
伊吹の手首をつかみ、旭は首を横に振る。
叱られるだろう。呆れられるかもしれない。言い訳も必要だ。
だが、それよりも先に伝えなければならないことがある。
「あれは、私の母です……」
***
「母は、ただ、父を待っていました。愛しているといつも譫言のように呟いて……迎えに来てくれるのだと信じたまま、逝きました」
旭はぽつりぽつりと語り出す。
榊家の一室だった。外はまだ暗い。伊吹は任務を切り上げ、旭と共に帰宅した。
事情聴取という理由があればこその対応だった。
旭は、問われるままに語った。
旭の父親と母親の不義の恋。祖母にあたる人の怒りに触れ、長屋に追い出されたこと。立花家に引き取られ、使用人として暮らしていたこと。
「──がっかりなさったでしょう」
旭は自嘲するように笑う。
「わざわざ立花家から妻を求めたのに、やって来たのが妾の子だったなんて」
「──いいや」
旭の予想に反して、伊吹の返答はからりとしたものだった。
「そのことは知っていた」
「なら、どうして何もおっしゃらなかったのですか」
格下の家を名指ししたのは、家格の差を上回る理由あっての事だろう。
血筋で言えば、旭も立花家の娘にはなるから、契約違反と言うわけではないが、抜け穴をついたようなものだ。
怒ったり落胆する権利が、伊吹にはある。
「その方が俺にも都合がよかったからだ」
「位の低い立花家、しかも妾の子では、どの家も沽券にかかわると歓迎しないでしょう」
「だからこそ、だ」
「え?」
旭は問い返した。
「今の榊家の当主の妻は俺の母親だが、後妻だ。兄がいるが、母は兄を当主にしたくない。だが、そう思っているのは母だけだ。俺も兄こそが当主になるべきだと思っている」
伊吹は続ける。
「だから、立花家から妻を取った。当主どころか榊家に相応しくない妻を。妾の子であれば、なお都合がよかった」
傷ついてもいい言葉かもしれないが、旭は先に腹落ちしてしまった。
もともと、釣り合っていない結婚だったからだ。
「すまない」
伊吹は旭に向かって頭を下げる。
「俺も、君を傷つけることをした」
「やめてください」
旭はあわてて伊吹の頭を上げさせた。
「私は感謝しています。沢山、気遣ってよくしていただきました。家だって任せていただいて」
使用人たちと語り合い、家を整え、夫を支える。
当たり前の日々を、旭は充実して過ごしていた。立花家でも、母の元でも見つけられなかった居場所を見つけられたのだ。
ずっとこの日々が続けばいい。そう思う程に。
「君はよく俺を支えてくれた。俺はそんな君を労いたいと思った。誰かに、そんな気持ちを抱いたのは初めてだった。もし、これからも君が──旭が俺を支えてくれるなら、嬉しい」
その言葉は、旭の胸を打った。
感極まって、言葉がなかなか出てこない。
「私、このまま、ここににいてもいいんですか?」
夢のようだった。夢ではないかと問わずにはいられない。
「お傍に置いていただけるんですか? ──妻として」
旭の瞳をまっすぐに見つめ、伊吹は確かな声で言う。
「俺は、旭に傍にいて欲しい」
旭は、涙ぐみながら何度も何度も頷いた。
「──勿論です」
だが、と伊吹は声を深くした。
浮かれていた旭の気持ちが、すっと凪いでいく。肝心なことを除けたままにしてはいられない。
「──幽鬼は討たねばならない」
分かっていることだ。旭は、大きく息を吸い込み頷いた。
「どうか、楽にして差し上げてください」
そして、手を床に付き、伏すように頭を下げるのだった。
「母を、よろしくお願いいたします」
その灯が見えなくなると、旭は踵を返した。
詰め所からの帰りに旭が車夫に頼んだの行先は、榊家ではなかった。
(確かめないと……)
約束を──寄り道を、せざるを得なかった。
港にほど近い一角。
そこには、古くからの長屋が寄り集まっている。押し寄せる発展の波から取り残されたような様相を呈していた。
それでも、都会での出世を夢見る出稼ぎや貧しさゆえに追いやられた人々で、長屋の多くは埋まっている状態だった。
旭と母もまた、立花家から追い出されてこの長屋へやって来た。
旭は、大きく息を吸い込み、ゆっくりと歩き始めた。
目指すのは、旭と母が暮らした長屋だ。旭がこの場所を去ってから数年は経っているのに、建物も道も何も変わっていなかった。
記憶を辿りながら歩く旭の目の前に、ゆらゆらと橙色の光が見える。
誰かが歩いて来るのかと思い、目を眇めたものの、次第にそれが長細い形をしていることが分かる。
光が、近づいて来る。
やがて、それが幽鬼特有の橙色の光──鬼火を纏う人であることが分かり、女であることが分かる。
長い髪が揺れる様子が見え、やせ細った細い腕をぶら下げているのが分かった。
(あぁ、やはり……)
瞬きをした旭の目から、一筋の涙が零れ落ちた。
慕わしい姿を見ることができた嬉しさ。それ以上に、魂を食われただ彷徨うだけの幽鬼になり果てた痛ましさ。
「かあさま……」
間違いなく、旭の母親だった。
呟いた声に、旭の母が顔を上げる。底なし沼のような目が、旭を捉えた。
旭を見据え、近づいて来る。
(結界を──)
旭に宿る立花家の加護。使わなければ、あるいは逃げなければと思うのに、旭は動けなかった。
「あさひ?……あさひなの?」
皮膚の逆立った唇から声が零れ落ちる。懐かしい声だった。
「えぇ、かあさま」
幽鬼は討伐すべきもの。同情は不要。声をかけるなど、言語道断。それなのに。
(もしかして……。私のために?)
死ぬ直前まで、恋人を思っていた。でもこの世を去って、ふと我に返ったのかもしれない。
一人残された娘のことを思い出した。だからこうして、幽鬼になってまで彷徨っていたのだろうか。
そして今、ようやく旭を見つけて手を伸ばして──
「ねぇ、あの人はどこ?」
だが、その言葉に、旭は冷や水を掛けられたような心地がした。
「私を助けてくれると言っていたの。あの人は? 旭なら知ってるでしょう?」
分かっているつもりだった。母が求めるのは恋人だけ。
「とう、さまは──」
口約束の結婚をし、愛し愛される関係にあったのに。子供までもうけたと言うのに。
男は母親に雷を落とされるや否や、手のひらを返した。恋人と娘に大した手切れ金すらも持たせず、長屋に追いやった。
そんな男を、母は未だに待っている。
父と口に出した瞬間、母の目が爛々と輝く。その指先が、今にも旭に触れようとする。
だが、幽鬼の指は娘を掠めて宙を搔いただけだった。
突然、旭は首根っこを掴まれ、後ろへと引きずられていた。倒れこむ旭の傍らを、いくつもの足音が過ぎていく。
体を起こした旭は、刀を手にする男達の先で、幽鬼がゆらりと形を失い、消えていくのを見た。
──逃げたのだ。
「旭! 無事か!」
「旦那様……」
「何故こんなところにいる! 寄り道をするなと……」
旭に手を差し伸べたのは、伊吹だった。鎮守衆の巡回が見つけてくれたのだ。
伊吹の手首をつかみ、旭は首を横に振る。
叱られるだろう。呆れられるかもしれない。言い訳も必要だ。
だが、それよりも先に伝えなければならないことがある。
「あれは、私の母です……」
***
「母は、ただ、父を待っていました。愛しているといつも譫言のように呟いて……迎えに来てくれるのだと信じたまま、逝きました」
旭はぽつりぽつりと語り出す。
榊家の一室だった。外はまだ暗い。伊吹は任務を切り上げ、旭と共に帰宅した。
事情聴取という理由があればこその対応だった。
旭は、問われるままに語った。
旭の父親と母親の不義の恋。祖母にあたる人の怒りに触れ、長屋に追い出されたこと。立花家に引き取られ、使用人として暮らしていたこと。
「──がっかりなさったでしょう」
旭は自嘲するように笑う。
「わざわざ立花家から妻を求めたのに、やって来たのが妾の子だったなんて」
「──いいや」
旭の予想に反して、伊吹の返答はからりとしたものだった。
「そのことは知っていた」
「なら、どうして何もおっしゃらなかったのですか」
格下の家を名指ししたのは、家格の差を上回る理由あっての事だろう。
血筋で言えば、旭も立花家の娘にはなるから、契約違反と言うわけではないが、抜け穴をついたようなものだ。
怒ったり落胆する権利が、伊吹にはある。
「その方が俺にも都合がよかったからだ」
「位の低い立花家、しかも妾の子では、どの家も沽券にかかわると歓迎しないでしょう」
「だからこそ、だ」
「え?」
旭は問い返した。
「今の榊家の当主の妻は俺の母親だが、後妻だ。兄がいるが、母は兄を当主にしたくない。だが、そう思っているのは母だけだ。俺も兄こそが当主になるべきだと思っている」
伊吹は続ける。
「だから、立花家から妻を取った。当主どころか榊家に相応しくない妻を。妾の子であれば、なお都合がよかった」
傷ついてもいい言葉かもしれないが、旭は先に腹落ちしてしまった。
もともと、釣り合っていない結婚だったからだ。
「すまない」
伊吹は旭に向かって頭を下げる。
「俺も、君を傷つけることをした」
「やめてください」
旭はあわてて伊吹の頭を上げさせた。
「私は感謝しています。沢山、気遣ってよくしていただきました。家だって任せていただいて」
使用人たちと語り合い、家を整え、夫を支える。
当たり前の日々を、旭は充実して過ごしていた。立花家でも、母の元でも見つけられなかった居場所を見つけられたのだ。
ずっとこの日々が続けばいい。そう思う程に。
「君はよく俺を支えてくれた。俺はそんな君を労いたいと思った。誰かに、そんな気持ちを抱いたのは初めてだった。もし、これからも君が──旭が俺を支えてくれるなら、嬉しい」
その言葉は、旭の胸を打った。
感極まって、言葉がなかなか出てこない。
「私、このまま、ここににいてもいいんですか?」
夢のようだった。夢ではないかと問わずにはいられない。
「お傍に置いていただけるんですか? ──妻として」
旭の瞳をまっすぐに見つめ、伊吹は確かな声で言う。
「俺は、旭に傍にいて欲しい」
旭は、涙ぐみながら何度も何度も頷いた。
「──勿論です」
だが、と伊吹は声を深くした。
浮かれていた旭の気持ちが、すっと凪いでいく。肝心なことを除けたままにしてはいられない。
「──幽鬼は討たねばならない」
分かっていることだ。旭は、大きく息を吸い込み頷いた。
「どうか、楽にして差し上げてください」
そして、手を床に付き、伏すように頭を下げるのだった。
「母を、よろしくお願いいたします」

