鬼狩り様の契約妻~君を愛するつもりはないと言った旦那様、私もそのつもりですのでご心配なく~

 伊吹が連れてきてくれたカフェーは、大通りに面した場所にあった。
 店に入るとすぐさま席には通されたものの、半分以上の席は埋まっている。
 食事やお茶の時間には、おそらく満席になっているはずだ。
 伊吹の夜の勤務の前に立ち寄ったものだから、食事にもお茶にも中途半端な時間だったことが幸いしたのだろう。

「好きなものを頼むといい」

 伊吹に渡されたお品書きに目を通した旭は、眉を寄せた。

「どうした?」
「……何がなんだかわかりません」

 ほとんどが、旭の知らない食べ物ばかりだったからだ。

(コ、コーヒー? コロッケ? オ、オム……?)
 
 使用人だった旭が、流行に触れる機会はほとんどない。
 旭がうんうん唸って想像力を働かせていると、小さく喉の奥で笑う音がした。
 見れば伊吹が笑いを堪えながら、旭に顔を背けてた所だった。

「だ、旦那様?」

 旭は笑われたことを恥ずかしいと思うよりも、そんな風に伊吹が笑うことに驚いたのだった。

「いや、すまない」

 笑うと、顔にくしゃりと皺が寄るのだ。
 いつも無表情か、困ったような顔しかしないものだから、旭にはとても新鮮に見えた。

「甘い物が好きなら、アイスクリームを頼むといい」
「甘いものは好きですが……どうしてご存じなんですか?」
「ビスケットをあれほど喜んでいれば、聞かずともわかる」     

 旭は、そうやって伊吹が自分を見ていてくれていることを、改めて知った。
 途端に恥ずかしく思えて、旭は思わず顔を伏せた。そろりと視線を上げると、伊吹はお品書きに視線を落としていた。
 旭の視線に気づく様子もない。
 その伏しがちのまつ毛の長いこと。お品書きを抑える指の長いこと。

(初めてかもしれない……。こんな風に旦那様をゆっくり見るのは)

 店の客は、半分近くが女の友人同士、残り半分が恋人同士と言ったところだろう。

(私達も、何も知らない人から見れば恋人同士にみえるのかしら……)

 額をくっつけるようにして話す恋人達。
 その姿を、ふと頭の中で自分と伊吹に置き換えてみるが、伊吹が人目もはばからないような距離に来るとも思えない。

(旦那様なら、きっと……隣に寄り添うほうが……) 

 その瞬間、体中を駆け巡る痛みを伴う恐怖。

(──駄目っ!)

 旭は大きく首を横に振り、想像を打ち消した。

(愛されるのを望むような想像をしたりして。私らしくもない……)   

 再び、契約上の夫を見る。彼は手を上げ、給仕を呼び寄せていた。
 結婚に愛を求めない夫は、では、結婚ではないどこかで愛を求めるのだろうか。
 そう思うと、旭はどこか割り切れないような気持ちになる。

(今のままでいいの。このままが幸せ。だからきっと……私はその幸せが、脅かされるのが怖いだけ)

 旭は自分の考えに戸惑いながらも、そう結論をつけた。


***


「今日のお夜食は、お届けに参りますね」
「無理はしなくていい」
「私が作りたいんです」

 カフェーに行ったため、夜食の弁当を用意する時間が無くなった。
 そこで伊吹を見送った後で準備し、詰め所に届けることになったのだ。

「わかった……。外に出る際は、力車を呼ぶように。寄り道もしないように」
「お約束します」
「弁当は、受付に預けてくれ。俺は巡回でいないだろうから」
「はい」

 旭がその人相書きを目にしたのは、カフェーを出て、路面電車の駅へと向かう伊吹を見送ろうとしていた時だった。
 駅までの短い距離。民家の壁に貼り付けられた人相書きに目を取られ、旭は足を止めた。
 尋ね人と書かれたそこには、人相書きだというのに、いまいち人相のはっきりしない女の姿が描かれていた。

「どうした?」

 旭の視線を追いかけた伊吹が人相書きに気づいた。

「あぁ。あれは、幽鬼の人相書きだ」
「幽鬼の?」
「幽鬼は魂の生前の姿を取る。幽鬼を取り逃がした場合、人相書きを使って生前の情報をたどり、行動の予測につなげることがある」 
「そうなのですね……」

 聞きながらも、旭はその人相書きから目が離せなかった。
 長い髪。病みついたような細い体躯。なだらかな肩。
 その肩が、咳で激しく上下するのを、見たことがあるような気がしたのだ。

(いいえ……。そうじゃない)

 旭は、見たことがあるのだ。
 その薄っぺらくて骨の凹凸を感じられる背中をさすったことがある。
 何度も。何度も。 

「尋ね人として張り出されている人相書きの中には、そういう類のものもある。君も心当たりがあれば──どうした?」
「あ、いえ」

 我に返った旭は慌てて返事をした。

「申し訳ございません。聞き流していたわけではないのですが……」
「いや、いい。あの人相書きに心当たりがあるのか?」
「いいえ──」

 旭はほとんど即答した。

「いいえ。知りません」

 知っていると言えば、認めてしまったような気がする。
 だから旭は、肯定できなかったのだ。
 信じられない。信じたくなかった。
 あの人相書きは、亡くなる直前の母に酷く似ているのだ。