幽鬼は夜に活発になるとはいえ、夜の巡回だけが鎮守衆の役割ではない。
日の高いうちに全く幽鬼が出ないわけではないし、組織として体系されている以上、書類仕事もある。
鎮守衆第二分隊もまた、この日は日勤にあたっていた。
「あれが?」
「あぁ、榊家の……」
勤務は隊毎に交代で夜と昼を務める。
隊長机は窓の近くにあった。明るい陽射しの元で昼の休憩をとる伊吹の耳に囁きが届く。
「『同族狩り』と噂の?」
「そう。幽鬼も人の形をしているというのに、一切の躊躇いが無い」
家柄と二つ名が揃えば、噂には事欠かない。
我こそは『同族狩り』を破ると意気込む者は少数。多くは恐れをなして、伊吹を遠巻きにするだけだ。
これもまた、いつものこと──。
「でも、思ったよりも親しみやすそうな方で安心しました」
そのはずが、これまでと全く違う感想が聞こえてきた。
ぷっと吹き出す声が聞こえる。性懲りもなく新婚の旧友を揶揄いに来た恭平だった。
「奥様からの手作り弁当なんて羨ましい。きっと愛妻家なんですね!」
今度こそ、耐えかねたように恭平が笑い始めた。
伊吹は、最後の煮物を口に運び、旧友を睨みつけた。
「恭平」
「いや、『同族狩り』の異名が形無しだな」
初めての弁当を食べた翌朝、伊吹は正直に、そして心から美味かったと伝えた。
すると、妻が初めて見る表情で笑ったのだ。
その反応が新鮮で、思わず伊吹は続けていた。
煮物も魚の味付けも良かった。握り飯のごましおが、気が利いていた。
言えば言う程、妻の頬が上気する。心から嬉しそうに。
つぼみがほころび、大輪の花の花が咲く。
その表情を見ると、どうしてだろう──言葉が止まらなくなったのだ。
それからというもの、旭は毎日張り切って弁当を準備するものだから、伊吹も弁当持参で詰め所に来るのが習慣になってしまったのだった。
「遊びに来ただけなら帰れ。昼休みが終わる」
「いや、仕事もある。これ、人相書き」
恭平が手渡してきたのは、女の似顔絵だった。
豊かな髪が流れる横顔。つんと澄ました鼻。斜めを向いた女の姿からは、容貌を特定するために必要な目や表情がはっきりと見えない。
「何度か取り逃している。女の幽鬼だ」
幽鬼を討伐するに至らなかった場合、人相書きを作り、尋ね人として街中に貼る。
すると、生前の情報が寄せられてくることがある。その情報をもとに、生前の執着を知り、行動の検討をつけるのだ。
「誰かを求めて彷徨っているという。あちこち出現するのに、すぐに消えるものだから討伐に至っていない。こちらの気配に敏く、近づく前に逃げられる」
「厄介だな」
「あぁ。よほど心残りが強いんだろうな。その分、強い鬼を引き付けて、手ごわい幽鬼になる」
魂を食った鬼が強ければ強い程、幽鬼も手強くなる。行動範囲が広がり、喋ることもできるようになる。
気配に敏くなり、逃げられることもあれば、強い抵抗にあい鎮守衆が怪我を負うこともあるのだ。
この幽鬼は厄介なことに間違いはない。
伊吹は、その人相書きをよくよく眺めた。
(ん……?)
眺めている内に、引っかかりを感じたような気がした。
線の細い顎筋。なだらかな肩。薄い体。病を得ていたのだろうか。あまりにも儚く見えた。
改めてじっくり観察するものの、伊吹の中に心当たりはない。気のせいかと思い、一旦人相書きを伏せた。
「そういえば、お前の奥方。妾の子らしいな」
恭平にとってはこちらが本題だったのかもしれない。
伊吹はぴたりと手を止めた。視線だけで先を促す。
「前の当主が使用人と関係を持って生まれたらしい。立花家では立場がなかったようだ」
「調べたのか」
「これでも、お前を心配しているんだ」
言い訳がましく、恭平が言う。
「加護があったから、立花家に引き取られたらしい」
退幽鬼の家は、加護を管理する義務がある。暴走しないための教育も、届け出もその義務の一つだ。
それらの情報は情報部が管轄している。情報部に所属する恭平であれば簡単に調べられる。
かといって個人の感情で漁ってよいものではない。
心配してくれたというのは本当なのだろう。だから、伊吹もそれ以上責められなかった。
「本家の娘を嫁にやるのが嫌だったのかもな。こんな時だけ立花家の娘扱いとは……可哀そうなものだな」
(──可哀そう、なのだろうか?)
少なくとも、伊吹が見る限り旭は己の不遇を嘆いているように見えなかった。
契約だと伝えた婚姻を、前向きにとらえてよく尽くしてくれている。
伊吹が勝手に哀れみを寄せることは違うような気がする。
「どちらにせよ、お前の理想通りじゃないか」
「そう、だな」
伊吹が結婚をした理由は、次男に関わらず榊家の跡取りに担ぎ上げようとする母の目論見を破ることなのだ。
花嫁の立場や生い立ちに問題があればその方がいい。
その上、伊吹が持ちかけた契約上の役目をひたむきに果たそうとしている。
「これも縁というものだろう」
「そうかもな……」
なら、旭は伊吹にとっては、文句のつけようのない良妻ということになる。
(俺はいい夫……なのだろうか?)
思えば尽くしてもらうばかりで何もしていない気がする。
自分も夫として妻を労うべきではないかと、伊吹は初めて思うのだった。
「土産だ」
「え?」
いつものように帰宅する伊吹を出迎えた旭は、伏せていた顔をあげるや否や鼻先に突き付けられたものに目をぱちくりさせた。
飾り紐が結ばれた紙袋だった。
旭が伊吹と紙袋を見比べる。伊吹は、まるで睨むように目に力を籠める。旭は慌てて紙袋を受け取った。
旭の手の中にやってきた『土産』からは甘く香ばしい匂いがする。
「これって……」
「ビスケットというらしい。西の国の甘い菓子だとか」
「ビスケット!」
「帰り道にカフェーがある。そこに持ち帰り用の菓子もおいてある」
「カ、カフェー!」
聞きなれない言葉を旭は口の中で転がす。
ビスケットはともかく、カフェーはわかる。
そういう場所が出来て、外の国からもたらされた飲み物や食べ物を味わうことが出来るのだとか。
夕子や立花家の奥様が話しているのを、旭も聞いたことがある。
「よく娘達で混んでいる。若い娘はそいうものが好きなんだろう?」
伊吹は妙に饒舌だった。 旭はその勢いにぽかんとしてしまう。
腕の中から香り立つ魅惑的な匂いに、我に返り、旭は紙袋を掲げて子どdものようにはしゃいだ。
「私、初めてです! ビスケット! うわぁ……!」
続いて、伊吹が初めて旭に土産を贈ってくれたと言う事実に思い当たり、目を輝かせた。
「ありがとうございます! でも、いいんですか? 突然どうされたんですか?」
これまで滑らかに動いていた舌はどうしたというのだろう。伊吹は口ごもりながら答えた。
「嫁いできてから……よく尽くしてくれていると思っている」
遠回しであっても、言いにくそうであっても間違いなく感謝の言葉だった。それも、口下手な伊吹らしい言葉。
旭は紙袋を抱く。胸がいっぱいになって言葉が出てこなかった。
初めてだった。
誰かに何かをして報われたのが。感謝の気持ちを向けてもらったのが。
あまりの幸福に、頬が緩みっぱなしなのが分かる。その一方で、いざこうしてお礼を言われると気恥ずかしくてむずがゆい。
旭は、自分の頬に手を当てた。触れば、あつくて、緩んでいるのが分かる。
「今度──」
その様子を見ていた伊吹が、思わず、と言った様子で口を開いた。
何かに気づいたようにはっとして口を噤んだが、旭の期待一杯の眼差しを受けて、どこか恐る恐るといった様子で続けた。
「その、一緒に──行くか?」
「はい!」
大はしゃいで頷きながら、旭は思う。
(私、今、とても幸せ)
愛の伴わない結婚だとしても、旭は妻として伊吹を支えようと務めて来た。
伊吹はそんな旭に応えてくれたのだ。
愛し愛される関係でなくとも、支え、支えられる関係。お互いを労い、歩み寄る生活。
(こんな生活が、ずっと続けばいいのに──)
これ以上の喜びはなかった。ようやく自分に居場所ができたのだと、旭はそう思えた。
日の高いうちに全く幽鬼が出ないわけではないし、組織として体系されている以上、書類仕事もある。
鎮守衆第二分隊もまた、この日は日勤にあたっていた。
「あれが?」
「あぁ、榊家の……」
勤務は隊毎に交代で夜と昼を務める。
隊長机は窓の近くにあった。明るい陽射しの元で昼の休憩をとる伊吹の耳に囁きが届く。
「『同族狩り』と噂の?」
「そう。幽鬼も人の形をしているというのに、一切の躊躇いが無い」
家柄と二つ名が揃えば、噂には事欠かない。
我こそは『同族狩り』を破ると意気込む者は少数。多くは恐れをなして、伊吹を遠巻きにするだけだ。
これもまた、いつものこと──。
「でも、思ったよりも親しみやすそうな方で安心しました」
そのはずが、これまでと全く違う感想が聞こえてきた。
ぷっと吹き出す声が聞こえる。性懲りもなく新婚の旧友を揶揄いに来た恭平だった。
「奥様からの手作り弁当なんて羨ましい。きっと愛妻家なんですね!」
今度こそ、耐えかねたように恭平が笑い始めた。
伊吹は、最後の煮物を口に運び、旧友を睨みつけた。
「恭平」
「いや、『同族狩り』の異名が形無しだな」
初めての弁当を食べた翌朝、伊吹は正直に、そして心から美味かったと伝えた。
すると、妻が初めて見る表情で笑ったのだ。
その反応が新鮮で、思わず伊吹は続けていた。
煮物も魚の味付けも良かった。握り飯のごましおが、気が利いていた。
言えば言う程、妻の頬が上気する。心から嬉しそうに。
つぼみがほころび、大輪の花の花が咲く。
その表情を見ると、どうしてだろう──言葉が止まらなくなったのだ。
それからというもの、旭は毎日張り切って弁当を準備するものだから、伊吹も弁当持参で詰め所に来るのが習慣になってしまったのだった。
「遊びに来ただけなら帰れ。昼休みが終わる」
「いや、仕事もある。これ、人相書き」
恭平が手渡してきたのは、女の似顔絵だった。
豊かな髪が流れる横顔。つんと澄ました鼻。斜めを向いた女の姿からは、容貌を特定するために必要な目や表情がはっきりと見えない。
「何度か取り逃している。女の幽鬼だ」
幽鬼を討伐するに至らなかった場合、人相書きを作り、尋ね人として街中に貼る。
すると、生前の情報が寄せられてくることがある。その情報をもとに、生前の執着を知り、行動の検討をつけるのだ。
「誰かを求めて彷徨っているという。あちこち出現するのに、すぐに消えるものだから討伐に至っていない。こちらの気配に敏く、近づく前に逃げられる」
「厄介だな」
「あぁ。よほど心残りが強いんだろうな。その分、強い鬼を引き付けて、手ごわい幽鬼になる」
魂を食った鬼が強ければ強い程、幽鬼も手強くなる。行動範囲が広がり、喋ることもできるようになる。
気配に敏くなり、逃げられることもあれば、強い抵抗にあい鎮守衆が怪我を負うこともあるのだ。
この幽鬼は厄介なことに間違いはない。
伊吹は、その人相書きをよくよく眺めた。
(ん……?)
眺めている内に、引っかかりを感じたような気がした。
線の細い顎筋。なだらかな肩。薄い体。病を得ていたのだろうか。あまりにも儚く見えた。
改めてじっくり観察するものの、伊吹の中に心当たりはない。気のせいかと思い、一旦人相書きを伏せた。
「そういえば、お前の奥方。妾の子らしいな」
恭平にとってはこちらが本題だったのかもしれない。
伊吹はぴたりと手を止めた。視線だけで先を促す。
「前の当主が使用人と関係を持って生まれたらしい。立花家では立場がなかったようだ」
「調べたのか」
「これでも、お前を心配しているんだ」
言い訳がましく、恭平が言う。
「加護があったから、立花家に引き取られたらしい」
退幽鬼の家は、加護を管理する義務がある。暴走しないための教育も、届け出もその義務の一つだ。
それらの情報は情報部が管轄している。情報部に所属する恭平であれば簡単に調べられる。
かといって個人の感情で漁ってよいものではない。
心配してくれたというのは本当なのだろう。だから、伊吹もそれ以上責められなかった。
「本家の娘を嫁にやるのが嫌だったのかもな。こんな時だけ立花家の娘扱いとは……可哀そうなものだな」
(──可哀そう、なのだろうか?)
少なくとも、伊吹が見る限り旭は己の不遇を嘆いているように見えなかった。
契約だと伝えた婚姻を、前向きにとらえてよく尽くしてくれている。
伊吹が勝手に哀れみを寄せることは違うような気がする。
「どちらにせよ、お前の理想通りじゃないか」
「そう、だな」
伊吹が結婚をした理由は、次男に関わらず榊家の跡取りに担ぎ上げようとする母の目論見を破ることなのだ。
花嫁の立場や生い立ちに問題があればその方がいい。
その上、伊吹が持ちかけた契約上の役目をひたむきに果たそうとしている。
「これも縁というものだろう」
「そうかもな……」
なら、旭は伊吹にとっては、文句のつけようのない良妻ということになる。
(俺はいい夫……なのだろうか?)
思えば尽くしてもらうばかりで何もしていない気がする。
自分も夫として妻を労うべきではないかと、伊吹は初めて思うのだった。
「土産だ」
「え?」
いつものように帰宅する伊吹を出迎えた旭は、伏せていた顔をあげるや否や鼻先に突き付けられたものに目をぱちくりさせた。
飾り紐が結ばれた紙袋だった。
旭が伊吹と紙袋を見比べる。伊吹は、まるで睨むように目に力を籠める。旭は慌てて紙袋を受け取った。
旭の手の中にやってきた『土産』からは甘く香ばしい匂いがする。
「これって……」
「ビスケットというらしい。西の国の甘い菓子だとか」
「ビスケット!」
「帰り道にカフェーがある。そこに持ち帰り用の菓子もおいてある」
「カ、カフェー!」
聞きなれない言葉を旭は口の中で転がす。
ビスケットはともかく、カフェーはわかる。
そういう場所が出来て、外の国からもたらされた飲み物や食べ物を味わうことが出来るのだとか。
夕子や立花家の奥様が話しているのを、旭も聞いたことがある。
「よく娘達で混んでいる。若い娘はそいうものが好きなんだろう?」
伊吹は妙に饒舌だった。 旭はその勢いにぽかんとしてしまう。
腕の中から香り立つ魅惑的な匂いに、我に返り、旭は紙袋を掲げて子どdものようにはしゃいだ。
「私、初めてです! ビスケット! うわぁ……!」
続いて、伊吹が初めて旭に土産を贈ってくれたと言う事実に思い当たり、目を輝かせた。
「ありがとうございます! でも、いいんですか? 突然どうされたんですか?」
これまで滑らかに動いていた舌はどうしたというのだろう。伊吹は口ごもりながら答えた。
「嫁いできてから……よく尽くしてくれていると思っている」
遠回しであっても、言いにくそうであっても間違いなく感謝の言葉だった。それも、口下手な伊吹らしい言葉。
旭は紙袋を抱く。胸がいっぱいになって言葉が出てこなかった。
初めてだった。
誰かに何かをして報われたのが。感謝の気持ちを向けてもらったのが。
あまりの幸福に、頬が緩みっぱなしなのが分かる。その一方で、いざこうしてお礼を言われると気恥ずかしくてむずがゆい。
旭は、自分の頬に手を当てた。触れば、あつくて、緩んでいるのが分かる。
「今度──」
その様子を見ていた伊吹が、思わず、と言った様子で口を開いた。
何かに気づいたようにはっとして口を噤んだが、旭の期待一杯の眼差しを受けて、どこか恐る恐るといった様子で続けた。
「その、一緒に──行くか?」
「はい!」
大はしゃいで頷きながら、旭は思う。
(私、今、とても幸せ)
愛の伴わない結婚だとしても、旭は妻として伊吹を支えようと務めて来た。
伊吹はそんな旭に応えてくれたのだ。
愛し愛される関係でなくとも、支え、支えられる関係。お互いを労い、歩み寄る生活。
(こんな生活が、ずっと続けばいいのに──)
これ以上の喜びはなかった。ようやく自分に居場所ができたのだと、旭はそう思えた。

