鬼狩り様の契約妻~君を愛するつもりはないと言った旦那様、私もそのつもりですのでご心配なく~

「いってらっしゃいませ。旦那様」
「いってくる……」

 夕方、旭は夜の勤務へと赴く夫を見送るために玄関に立った。
 書類鞄の傍らに、風呂敷に包んだ弁当箱が下げられている。夜食の弁当だ。
 伊吹の表情はどこか晴れない。そのままの顔をぶら下げて、路面電車の駅へ向かうために通りを歩き始めたのだった。
 後ろ姿が見えなくなるまで見送り、旭は、頬に手をあて考え込む。
 弁当もそうだが、食事を用意する度、茶を入れる度、伊吹が奇妙な顔をするような気がするのだ。
 釈然としないような。戸惑っているような。

(契約上の妻をお求めとのことでしたのに……違うのかしら?)

 気を働かせ、健康に気を使い、家の中で心地よく過ごしてもらう。
 旭は、妻の役割とはそういうものだと思っていたのだが、伊吹の理想と違っているのだろうか。
 だから、あんな顔をするのだろうか。

(一度、改めて希望を伺うべき?)

 そんな風に思いながら、榊家へと戻ろうとした。

「ちょっと」

 その背中を呼び止める者がいた。
 名前すら呼ばない呼びかけ。旭は振り返るなり、深々と頭を下げた。

「……ご無沙汰しております。夕子様」

 立花家の娘である夕子だった。
 流行り柄の着物を着て、朱子織の飾り紐で髪を結っていた。どちらも、先代の浪費で困窮する立花家では買えない贅沢品だったはず。榊家からの援助で持ち直したのだろう。

「届けに来たわよ」

 夕子は後ろに控えた使用人へ合図を送る。
 使用人は、風呂敷を旭に差し出した。旭は受け取り、そっと布をめくる。包まれていたのは旭の母親の位牌だった。
 お互いに思惑はあれど本来、結婚とはおめでたいものだ。
 婚礼の荷物と一緒に位牌を連れて行くのは縁起が悪いと言われ、しばらく立花家で預かってもらっていたのだった。

「ありがとうございます」
「ついでよ。呉服屋の帰りなの。お兄様の奥様がようやく決まったのよ。式の支度をするの」
「それは、おめでとうございます」

 好きも嫌いも無い。感情の立ち入る隙の無い余所余所しさ。旭と夕子の距離感は、こういうものだった。
 立花家で、旭は主一家になれず、使用人にもなれなかった。
 主一家は、旭にもはや嫌がらせすらしない。それは同じ土俵に立つどころか、足をかける相手とすら見ていないということだ。
 激怒した祖母と違い、正妻──立花の奥様は、冷静であったが冷酷でもあった。
 旭も立花家の加護を宿していたから、暴発しないために最低限の教育は受けたが、それ以外は一切黙殺された。

『この日のために目をつぶってやったと思えば、悪くない結果でした』

 夕子の代わりに旭を嫁がせるの時に、奥様から何年かぶりにかけられた言葉が、これだった。
 勿論、使用人たちも、旭は主一家とみなさず、敬愛する女主人の邪魔をした女の娘として、決して自分達の輪の中に入れようとしなかった。
 旭は誰と親しくすることもなく、黙々と日々を熟すことしかできなかった。

「お母さまからの伝言」

 夕子は、ようやく声に感情を滲ませた。

「あなたの母親みたいにならないことね、ですって」

 強く窘めるような声には、僅かに嘲るような、それでいて恐れ混じりの響きがある。

「重々、承知しております」

 愛し愛され旭を生んだと言えど、母のしたことは道に外れる。
 政略結婚だったとはいえ、妻ある身の男と結ばれた。
 燃えるような恋、とは物語でよく言われる言葉だが、まさしく母の恋はそれだったのだ。

(ねぇ、旭。お父様はとっても素敵なの)

 病に倒れ、今際の際になっても、母が気にかけていたのは恋人の事だった。

(いつか迎えに来てくださる……助けてくださる)

 旭のことは可愛がってくれていた。ただ、それは父親に似ている旭を慰めにしていただけなのだ。 

(あぁ……あなた……愛しいひと……)

 そう、病床の中で、旭の手を握りながらつぶやく。
 母が不幸だったとは言い切れない。愛の中に生きて愛の中で死んだ。旭という愛が形になったものを得て。
 だが、旭はそれを羨ましいとは思わなかった。
 母を恨む気持ちはない。だが、自分が母の様になるかと思うと恐ろしい。
 愛によって結ばれるか。責任──契約によって結ばれるか。
 選べるのなら、旭は契約による結婚の方を選びたかった。

(愛されたいとも、愛したいとも思わない)

 だから、夫からこの結婚は契約だと言われた時には、心底ほっとしたのだ。
 これで、夫を愛さないでいられる。責任さえ果たせば、自分の居場所が出来るのだと。
 




 その日、幽鬼の情報を得て伊吹が向かったのはある民家だった。

「やめて……やめて! 妻を連れて行かないでくれ!」

 伊吹が部下を伴い踏み込むと、縁側に座る老女がいた。
 背中を丸めて庭を眺めている様子は、穏やかな昼下がりを思わせるものだった。
 だが、今は深夜で庭は世闇に沈むばかり。老女は薄ぼんやりとした橙色の光に包まれている。
 その老女こそ幽鬼なのだ。
 幽鬼は、通常、人が見ることはできない。
 敏い人間が幽鬼の存在を、人魂や鬼火としてうっすら認識することはあるが本来、伊吹のような加護を持つ人間でなければ分からないものなのだ。
 だが、幽鬼となった人の魂と深い関わりを持った人間が、その幽鬼だけをはっきり見ることがある。
 亡き妻の姿を見る、この男の様に。

「席を外せ。見たくないものを見ることになる」

 言い放つ伊吹に、男が食い下がる。

「だ、駄目だ……。妻が帰って来たんだ!」 
「幽鬼は切らねばならん。やがて鬼の本性をむき出しにして、襲ってくる」
「いいじゃないか! ただ、そこに座っているだけじゃないか! それの何が悪い!」  

 埒が明かないと、伊吹は部下に指示して男を引き離す。やめてくれと追いすがる声を無視し、伊吹は刀を振り上げた。
 老女は庭を眺め続けている。そこに、何か忘れられない思い出があるのだろうか。
 思いを馳せたのは一瞬だった。
 伊吹は躊躇うことなく老女の首へと刀を振り落とした。

「鬼……! 鬼! この、人殺し! 妻を返せ!」

 男が責める声が、伊吹の背中を刺す。

(今更だ……。今更、こんなことに、気持ちを動かされたりしない)

 よくある話なのだ。何度も繰り返していれば、日常の一つになるだけのこと。
 それでも、こんな夜は伊吹の胸が冷たく固くなる。
 夜の巡回を終えて詰め所に戻る頃になっても、凍てついた胸はそのままだ。
 任務に支障はない。冷静に幽鬼を切ることはできる。一度こうなってしまえば、なかなか元のように戻れないのだ。
 淡々と報告書を仕上げ、情報部から回って来た書類に目を通す。

(あ、弁当か……)

 持ち帰っていた書類を出そうと鞄に手を伸ばせば、風呂敷が手にあたる。
 夜食の弁当を持たされていたことを思い出し、伊吹は鞄ではなく弁当を取り出した。

(食欲はないが……手つかずで持ち帰るのも酷か)

 せめて少しでも箸をつけよう。伊吹はそう思い、弁当を開いた。
 その瞬間、立ち上る濃い醤油の匂い。甘い米の匂い。焦げた味噌の匂い。
 握り飯にはごましおがふられている。味噌漬けにした魚の切り身はこんがりと焼き色がついており。煮物は伊吹が「悪くない」と言ったものだ。
 一目で、こってりとした味付けなのが分かる。体を使う仕事だから、夜といえどもこういうものが欲しくなるのだ。

(家の匂いだ……)

 伊吹が家に帰ると、旭が料理を用意して待っている。
 毎日毎日。構わないという伊吹の言葉を聞きもせず。
 出迎える旭の顔を、美しく揃った指先を、伊吹はふと思い出した。
 彼女は、今日もまたそうやって伊吹を出迎えるのだろう。
 家の戸を開ければ、気持ちをもほっこりと包み込む、暖かな匂いが漂ってくるはずだ。

(そんなもの、必要とも思えないのに)

 そう思いながらも、強張っていた肩から力が抜けたのが分かった。ほぅ、と吐息がこぼれる。
 空腹を忘れていたはずの腹が、痛い程訴えかける。早くしろ、早く食べろと。 
 伊吹は、胃が急かすまま、弁当に箸をつけるのだった。

 翌朝。
 空の弁当箱を携え、伊吹は帰宅した。

「美味かった」

 玄関で出迎えた旭にそう告げると、妻は一瞬ぽかんとして、花がほころんだように笑った。