旭は、微笑みを浮かべながら夫に問う。
「旦那様。お食事とお風呂のご用意が出来ております」
伊吹は能面のような顔をして、玄関の引き戸を閉めた。まだ白い朝の光が遮られる。
「お食事は、鯵の干物ですよ。軽めがよろしければお出汁をかけてお茶漬けにしましょう。あ、羽織りものをお預かりしますね!」
「いや、いい……」
さて、と旭は首を傾げた。
(ずいぶんお疲れの様子だわ)
よほど勤務が大変だったのだろうか。旭は労いを込めて促す。
「お疲れなら先に、お休みになられますか? 布団は準備してあります」
「旭……」
伊吹はそれに応えず、呼びかける。
「はい」
「まだ早い。気にせず寝ていて良いと言ったはずだ」
「でも、私は妻ですから」
旭は力を込めて言う。
「妻の役目は夫に誠心誠意お仕えすることです!」
「所詮、契約の妻だ」
「契約だからこそ、甘えている時間はありません。まだまだ勉強途中、頑張ります!」
この家は使用人が少ない。
榊家から分家したと言っていたが、一人で暮らすには広すぎる家を、最低限の通いの使用人で管理していたらしい。
早朝に帰宅する主のために、台所番も軽食の握り飯だけを作っておくものの、やってくるのは昼餉の前だ。
これ幸いと、旭は誰もいない台所でせっせと朝食の準備をしたのだった。
「……食事を頼む」
伊吹がとうとう旭に任せてくれたものだから、旭は自分の熱意に納得してくれたのだと一人納得した。
「はい」
「その後、湯を使わせてもらおう」
「はい!」
旭は、伊吹を食卓の前に案内をする。漬物や煮物の小鉢、鯵の干物、みそ汁。御櫃から白米をよそい、並べた。
伊吹が箸をつける傍ら、茶を注ぐ。
「お前は済ませたのか?」
「まだですが……。旦那様の給仕がありますので」
「今、食べればいい」
「よろしいのですか?」
旭は驚き、問い返した。
「自分の茶ぐらい自分で用意できる。米もだ。元々は一人でこなしていたことだ。準備が二度手間になるだろう」
「ではお言葉に甘えて」
一緒に食べようと誘われたわけではない。
手間を考えての事だが、そこには伊吹なりの気遣いを感じられた。
旭が自分の分の食事を用意し、向かいに座っても伊吹は図々しいとも目障りとも言わない。
(人を人と思わないだとか、鬼のようだとか噂は色々ありましたけれど……話に聞くほど冷たい方ではないのね)
旭は試しに雑談を差し向ける。
「この後はどうされますか? お手伝いすることはございますか」
「片付ける書類があるから、部屋にいる。気にしなくていい」
左様ですかと返事をして、旭はまだ考える。
(雑談にも応じてくださる……煩わしいと突き放すほど酷な方ではないみたい)
榊家が立花家程度に結婚を申し込んでくるなど、本来あり得ない。
その腹に一物があるのがわかると言うものだ。
わかっていても拒否が出来ない。家格にはそれほどの格差があった。
『いや! いやよ! 私は辰巳さんと結婚するの!』
思い人と念願叶って婚約をした腹違いの妹、夕子
本来嫁入りをするはずの立花家の娘がそう拒否したものだから、旭が嫁入りすることになった。
先代当主と使用人の娘である旭が。
これまで、娘ではなく使用人として扱われていたのに。
(間違っていないけれど……本当のことを知ったらがっかりなさるでしょうね)
立花家の血を引いているから、使用人の娘である旭にも、加護の力はあれど夕子程の力はない。
おまけに、下町で育ったため、花嫁修業も碌にしていない。
元々当主と使用人の不義の恋によって生まれたのだ。祖母にあたる大奥様の怒りに触れ、母諸共立花家を追い出した。
下町で暮らしていたが、母が病で亡くなってから旭は立花家に引き取られた。
その頃には、立花家には蝶のように美しい娘がおり、祖母も父もいなくなっており、当主は夕子の兄に引き継がれていた。
『良いですか。身の程を弁えなさい』
継母は、位牌を抱く旭に言う。
『あなたは立花家の娘であって、娘ではない。どうふるまうべきか、よくよく考えなさい』
旭はそうして、立花家の使用人として働くことになったのだった。
だから、旭が出来ることと言えば、家事ぐらいなのだ。せめてそのぐらいは役に立とうと心に決めていた。
「お味はいかがですか?」
「悪くない」
間を持たせようとした問いかけには短い返事がある。旭は、その返答に目を瞬かせた。
直後、ふんわりと笑みが浮かぶのを止められなかった。
口下手な男からの、悪くないは美味しいの同義である。
立花家では誰も褒めてくれなかったから、料理を美味しいと言ってくれるような旦那様であればいいと夢を見ていた。
(契約結婚だと言うのに、その夢は叶うなんて、おかしなものね)
旭の母は、愛し愛され子宝を得たが、幸せなばかりではなかった。
一方で、責任によって結婚をした正妻は、今や立花家の女主人だ。
立花家は兄の采配で取り仕切られ、正妻は兄をよく支えていた。使用人は彼女を慕い、娘は母を敬う。
その姿をみると、責任による結婚が不幸なだけのものだともまた、思えなかったのだ。
始まりはどうであっても、不幸になるか幸せになるかは終わりが来るその時までわからない。
どちみち後には引けない。使用人の旭には、出戻っても迎えてくれる人もいない。
だから、旭は、精一杯この契約結婚を自分にとっての正解に変えていくしかないのだ。
「お気に召していただけたのなら、夜食のお弁当を作らさせていただきます!」
旭の次なる一手に、伊吹の箸から鯵が転がり落ちた。
「旦那様。お食事とお風呂のご用意が出来ております」
伊吹は能面のような顔をして、玄関の引き戸を閉めた。まだ白い朝の光が遮られる。
「お食事は、鯵の干物ですよ。軽めがよろしければお出汁をかけてお茶漬けにしましょう。あ、羽織りものをお預かりしますね!」
「いや、いい……」
さて、と旭は首を傾げた。
(ずいぶんお疲れの様子だわ)
よほど勤務が大変だったのだろうか。旭は労いを込めて促す。
「お疲れなら先に、お休みになられますか? 布団は準備してあります」
「旭……」
伊吹はそれに応えず、呼びかける。
「はい」
「まだ早い。気にせず寝ていて良いと言ったはずだ」
「でも、私は妻ですから」
旭は力を込めて言う。
「妻の役目は夫に誠心誠意お仕えすることです!」
「所詮、契約の妻だ」
「契約だからこそ、甘えている時間はありません。まだまだ勉強途中、頑張ります!」
この家は使用人が少ない。
榊家から分家したと言っていたが、一人で暮らすには広すぎる家を、最低限の通いの使用人で管理していたらしい。
早朝に帰宅する主のために、台所番も軽食の握り飯だけを作っておくものの、やってくるのは昼餉の前だ。
これ幸いと、旭は誰もいない台所でせっせと朝食の準備をしたのだった。
「……食事を頼む」
伊吹がとうとう旭に任せてくれたものだから、旭は自分の熱意に納得してくれたのだと一人納得した。
「はい」
「その後、湯を使わせてもらおう」
「はい!」
旭は、伊吹を食卓の前に案内をする。漬物や煮物の小鉢、鯵の干物、みそ汁。御櫃から白米をよそい、並べた。
伊吹が箸をつける傍ら、茶を注ぐ。
「お前は済ませたのか?」
「まだですが……。旦那様の給仕がありますので」
「今、食べればいい」
「よろしいのですか?」
旭は驚き、問い返した。
「自分の茶ぐらい自分で用意できる。米もだ。元々は一人でこなしていたことだ。準備が二度手間になるだろう」
「ではお言葉に甘えて」
一緒に食べようと誘われたわけではない。
手間を考えての事だが、そこには伊吹なりの気遣いを感じられた。
旭が自分の分の食事を用意し、向かいに座っても伊吹は図々しいとも目障りとも言わない。
(人を人と思わないだとか、鬼のようだとか噂は色々ありましたけれど……話に聞くほど冷たい方ではないのね)
旭は試しに雑談を差し向ける。
「この後はどうされますか? お手伝いすることはございますか」
「片付ける書類があるから、部屋にいる。気にしなくていい」
左様ですかと返事をして、旭はまだ考える。
(雑談にも応じてくださる……煩わしいと突き放すほど酷な方ではないみたい)
榊家が立花家程度に結婚を申し込んでくるなど、本来あり得ない。
その腹に一物があるのがわかると言うものだ。
わかっていても拒否が出来ない。家格にはそれほどの格差があった。
『いや! いやよ! 私は辰巳さんと結婚するの!』
思い人と念願叶って婚約をした腹違いの妹、夕子
本来嫁入りをするはずの立花家の娘がそう拒否したものだから、旭が嫁入りすることになった。
先代当主と使用人の娘である旭が。
これまで、娘ではなく使用人として扱われていたのに。
(間違っていないけれど……本当のことを知ったらがっかりなさるでしょうね)
立花家の血を引いているから、使用人の娘である旭にも、加護の力はあれど夕子程の力はない。
おまけに、下町で育ったため、花嫁修業も碌にしていない。
元々当主と使用人の不義の恋によって生まれたのだ。祖母にあたる大奥様の怒りに触れ、母諸共立花家を追い出した。
下町で暮らしていたが、母が病で亡くなってから旭は立花家に引き取られた。
その頃には、立花家には蝶のように美しい娘がおり、祖母も父もいなくなっており、当主は夕子の兄に引き継がれていた。
『良いですか。身の程を弁えなさい』
継母は、位牌を抱く旭に言う。
『あなたは立花家の娘であって、娘ではない。どうふるまうべきか、よくよく考えなさい』
旭はそうして、立花家の使用人として働くことになったのだった。
だから、旭が出来ることと言えば、家事ぐらいなのだ。せめてそのぐらいは役に立とうと心に決めていた。
「お味はいかがですか?」
「悪くない」
間を持たせようとした問いかけには短い返事がある。旭は、その返答に目を瞬かせた。
直後、ふんわりと笑みが浮かぶのを止められなかった。
口下手な男からの、悪くないは美味しいの同義である。
立花家では誰も褒めてくれなかったから、料理を美味しいと言ってくれるような旦那様であればいいと夢を見ていた。
(契約結婚だと言うのに、その夢は叶うなんて、おかしなものね)
旭の母は、愛し愛され子宝を得たが、幸せなばかりではなかった。
一方で、責任によって結婚をした正妻は、今や立花家の女主人だ。
立花家は兄の采配で取り仕切られ、正妻は兄をよく支えていた。使用人は彼女を慕い、娘は母を敬う。
その姿をみると、責任による結婚が不幸なだけのものだともまた、思えなかったのだ。
始まりはどうであっても、不幸になるか幸せになるかは終わりが来るその時までわからない。
どちみち後には引けない。使用人の旭には、出戻っても迎えてくれる人もいない。
だから、旭は、精一杯この契約結婚を自分にとっての正解に変えていくしかないのだ。
「お気に召していただけたのなら、夜食のお弁当を作らさせていただきます!」
旭の次なる一手に、伊吹の箸から鯵が転がり落ちた。

