鬼狩り様の契約妻~君を愛するつもりはないと言った旦那様、私もそのつもりですのでご心配なく~

「旦那様、どうして」
「知った自動車が通るのが見えた」

 伊吹は、自らの母の手を掴んだまま、鋭く睨み下ろすのだった。

「妻に、何の用ですか。母上」
「私は……あなたが結婚したと聞いて……」

 伊吹が手を離す。絢子は一瞬よろけたものの、体が自由になるとすぐに調子を取り戻した。

「そう……! 見定めに来たのです。榊家の跡取りとなる身なのですから、相応しい妻でなければ……。それなのに、その資格のないような娘ではありませんか!」

 絢子は旭に指を突き付け、罵った。
 伊吹は、旭の前に立つ。絢子の非難から、視線から、庇うように。
 伊吹の背に庇われ、旭は詰めていた息を吐いた。自分が緊張して体が強張っていたことに、今更のように気づいた。

「十分に、相応しい妻ではありませんか」

 伊吹は振り向き、旭の頬にそっと手を添えた。長く骨ばった指。ごわついた皮膚が、絢子に打たれた頬をなぞる。
 痛みに熱が加わり、強く疼きだす。
 熱いのは、与えられた熱なのか内側から立ち上る熱なのか。旭はわからなかった。

「俺の気持ちを慮って、振舞うことが出来る。俺の名誉のために立ち向かうことが出来る」 

 伊吹は旭の手を握った。見上げた横顔は、まっすぐに絢子を見据えている。その視線の強さと美しさに、旭は息を呑んだ。

「彼女は私の妻です。唯一の妻なのです。彼女を傷つけるような真似はやめていただきたい」
「よりにもよってどうしてそんな娘を……」
「愛しているから。それ以上の理由はありません」

 言い切った伊吹に、旭は泣きそうになる。胸が痛い程に打つ。

(私だって、旦那様のことを──)  

 嬉しいのに怖い。感情に名前を与えてしまえば、もはや誤魔化しようがなかった。

「俺は妻を愛している。妻を榊家の嫁と認めないのは承知しました。なら、私は榊家から出るだけです」
「な……! なんて馬鹿なことを!」 
「旦那様──! それは……!」

 次の言葉に絶句したのは絢子だけではなかった。
 旭は伊吹の袖に取りすがる。
 衝動的に行っていい決断ではない。
 伊吹が冷静さを失い、強情になっているようにも見えたのだ。
 だが、伊吹は旭の手を自身の手で押さえる。躊躇いも後悔も見せなかった。

「……後悔なさって、泣きついてきても私は知りませんよ」

 伊吹の覚悟を感じ取ったのか、絢子は唸るように言う。
 
「それで結構」 
「──その程度の娘で、榊家の嫁が務まると思わないことです」

 言い捨て、絢子は車へと戻っていった。
 降りた時の優雅さはどこへやら、乱暴に裾を跳ね上げ、座席に収まると口調荒く運転手に出立を命じるのだった。
 黒い車体が遠ざかり、やがて油のような匂いも風にかき消された。

「旦那様──駄目です! 榊家を出るなど……そんなことをしては」

 旭はようやく我に返り、伊吹に訴えかけた

「構わない。父上も兄上も俺の気持ちをよくわかってくださっている。本家から出て、この家で暮らしているのも、二人の配慮なのだ。縁が消えるわけでもない。今も分家しているような状態だ。何も変わらない」
「愛のためだと言って、何かを捨てることをしないで!」

 そういうことを言いたいのではない。旭は思わず叫んでいた。

「旭」

 血相を変えた旭に、伊吹は目を丸くした。落ち着かせようと、旭の肩を撫でる。

「一体、どうしたんだ?」
「私……怖いんです」
「怖い?」

 口に出せば止まれなくなる。
 こんなこと、言いたくなかった、知られたくなかった。否、聞いて欲しかった。
 矛盾する気持ちに翻弄されながらも、旭は胸からあふれ出る言葉のままに語り続けた。

「私は、母の様になるんじゃないかと思うと怖い。母は愛で身を滅ぼした。その挙句、幽鬼になってまで父を求めた──。私はそんな母の子なのです」
「旭の母上と、旭は別人だろう」
「でも、同じ血を引いている……。私は、いつか母の様になるのではないと思うと恐ろしい……」

 いいえ、と旭は首を横に振った。

「それ以上に、母のようになる誰かを見るのも怖い──愛を理由に何かを失うぐらいなら、捨てさせてしまうぐらいなら、そんなもの欲しくない!」
「──愛する気持ちを知ったからこそ、得るものもあるのだと、俺は思う」

 感情のままに捲し立てる旭に対して、伊吹はどこまでも静かだった。

「俺も、似たようなものだ。鎮守衆として、隊長として、余計な情等いらぬと思っていた──情に惑わされ弱くなるに違いない、と」

 穏やかな声に旭は自分の激しく波打つ感情が、少しずつ凪いでいくのを感じていた。

「だが、その情が幽鬼を狩ることで凝ったものを溶かすことも出来る。俺を、俺に戻すことが出来るのだと知った。旭が、教えてくれた」
「旦那様……」 
「旭──俺を愛してくれないか」
「でも、そんなことをしたら──」

 思わず後ずさりそうになる旭の手を、伊吹がしかと捕まえた。

「確かに、いずれ幽鬼となるかもしれないな」

 正論を突き付けられて、旭の目の前が暗くなる。

(あぁ、やはり私は──)
 
「幽鬼となっても、お前が一人彷徨うことはない」
「え?」

 思いもよらぬ言葉に、旭は目を瞬いた。

「その日が来たなら、俺がお前を迎えに行く」 
「旦那様、それはどういう……」
「お前が、いつか幽鬼になる日が来たのなら、俺がお前を切ろう。そのために、俺は強くあり続けよう」 

 見開いた旭の目。言葉の意味を理解するにつれて、ゆるゆると涙が浮かび始める。

「他の誰にも任せない──俺がお前を討つ」 

(一体、何年──。どれだけの間──)

 旭は茫然とする。あまりにも途方もない約束だった。
 どれだけ旭よりも長く生きるつもりなのか。どれほど老いてなお、前線に立ち続けるつもりなのか。
 容易いとも思えぬ、それどころか実現するとも思えない。

(分かっているのに──) 

 頭では理解している。なのに、安心してしまったのは事実だ。
 旭は、知らず知らずの内に自分が笑っていることに気づいた。
 伊吹の器の大きさ。その覚悟の強さ。まるで、逞しい両腕を広げ、旭が飛び込んでくるのを待つような。
 旭の中の頑なな部分が、するりとほどけていくのが分かる。

(あぁそうか──)

 これもまた、愛なのだ。安心して身と心をゆだねて、寄り添い歩いていくようなもの。

(燃えるばかりではないのね)

 大丈夫。
 旭は不思議とそう思うことができた。

(私は、旦那様を愛しても大丈夫──。愛することが出来る)

 旭が抱くものも、紛れもない愛だ。
 同じ愛なのに、母が燃やしたものとは違うものなのだ。

(きっと、かあさまのようにも、幽鬼にもならない……)

 そのことを理解した今、旭が自らの行く末がそこにあるのだとは、もはや思えなかった。

「旦那様」

 旭は、目の端ににじむ涙をそっと払う。
 そして、ゆっくりと口を開いた。
 目の前の人に、自分の気持ちを伝えるために。

「契約違反を、お許しください」

 伊吹はくしゃりと表情を崩して笑った。  

「その契約違反なら、大歓迎だ」