晨星、黎明に駆けて

着いたのは、細い路地裏だった。騒がしい場所とは遮断されているような感じがして、空気が少しだけひんやりとしている。
「こんなところしか、人目につかない場所がなくて。何もしないからどうか信じてほしい」
「ううん、そんなこといいから…」
動揺しているのは私だけのようで、みゆは冷静に話す。先程のような笑顔はない。
そしてみゆは突然、深く頭を下げた。
「本当に、今までごめんなさい」
私は、しばらく何も声をかけることができなかった。
ただ冷たい沈黙だけが、私たちの隙間を縫うように通り過ぎていった。
「私、謝ってほしいだなんて思ってないよ…!」
それでも謝らせてほしいと言うから、私はみゆの肩を掴んで、わさわさとみゆを揺さぶった。
ここで初めて、みゆがあの頃のような、ぽかんとした表情を浮かべた。
「全部わかってたよ。きっと、みゆも私のこと気がついてたんだよね」
「…うん。一番最初に、すぐわかった」
やっぱり。あのとき目を見開いたのは、みゆも私のことを思い出したからだったのだ。
「私がほしかげ界隈に入りたいんじゃないかって思って、止めようとしてくれたの?」
みゆが微笑んだ。肩にかかるほどの長さの髪の毛。少し茶色っぽくなったそれを、耳にくっとかける動作は変わっていなかった。
「そうだよ。…結局、幼馴染って何やろうとしてもばれるんだね」
みゆから発される「幼馴染」という言葉に、私は嬉しさが募った。
みゆの中の私は、まだ消えていなかったんだ。
「さなこそ、どうせあたしをほしかげ界隈から連れ出したいとか思って、ここに毎日来てたんでしょ?」
う、と間抜けな声をこぼす。あれほど粘り強い人ってさなくらいしかいないよ、とみゆが呟く。
やはり、みゆにもばれてしまっていた。
「でもね、あたしはそうはできない」
涼しい夜風が吹いて、私たちの髪の毛を揺らした。
小さなポニーテールの重さを感じたのは、初めてだった。思わず手を握る。
「ここはあたしの居場所だから。さなが来るような場所じゃない」
「…なんで、どうして?何かあったなら、話聞くよ」
「違う、違くて…」
みゆは考え込むようにして、俯いた。どうしても言えないことだったのだろうか。
幼馴染という言葉に縋りすぎてはいけない。私たちには、もう六、七年くらいのブランクがある。
今日空白を埋めることなんて、到底できない。
「あたしのことは気にしないで。本当に、今はもうそこまで悩んでるわけじゃないから。あたし、そもそもちょっと不思議な立場だし。…みんなの方が、苦しんでる」
苦しんでる、と言ったときのみゆの顔も、苦しんでいるように見えたのは、気のせいなのだろうか。
そして、不思議な立場とは一体どういうことなのだろう。
「ふ、不思議な立場って…?」
「なんか、ちょっとみんなとは違う目的でここに来てるっていうか…。いや、でも根っこは同じなんだけどね。あんま考えなくていいよ」
説明してもしきれない、とみゆが言う。違う目的、根っこは同じ。
何はともあれ、今のみゆは、あの頃にはなかった「何か」を抱えている。
「あたしにも、ここでやらなきゃいけないことがあるの。さなだって、白妙で頑張ってるんでしょ?」
「頑張ってるって言ったってまずまずのコースだけど…」
みゆが、ふ、と笑いをこぼした。それでもいいんだよ、と言ってくれた。
こんなたわいのない会話だって、どこか歪で、触れてしまったら弾けてしまいそうな感じがして、少しだけぎこちなく思える。
「あたしは、さなみたいな人がここに来て、時間を無駄にしてほしくはないんだよ」
みゆの本音が、私の心にぽとりと落ちて、染みていく。
私たちの頭上には月が浮かんでいて、頼りになる光は、そこから発される月光しかなかった。
うっすらと私たちに影がつく。今まで浴びた中で、一番優しい光だった。
「あたしは本当に大丈夫だから。あたしは…さながここに来ることで、さなの身に何か危険が及ぶほうが怖い」
みゆと目が合う。この目は、噓じゃない。
広場からいくらも離れていないはずなのに、人々の声が遠く感じる。
私にはまだまだ知らないことがたくさんある。それが少しだけ悔しい。
「もう、ここには来ちゃだめだよ。ああいう態度取ってごめん。噓だとしてもやりすぎだった」
「…そうじゃないよ、みゆ」
謝ってほしいわけじゃない。頑張ってね、なんていう言葉で終わりにしたくない。私の身に危険が及ぶなんて、もう知らない。
私は、みゆを救いたい。
私にできることって、何もないの?
「私、何もできないの?…どうして、みゆはこんなところに来たの?見つけちゃったんだもん、私が見捨てられるわけないじゃん」
「だから、別にあたしは…」
「そうじゃないよ!何もなかったら、毎日ここに来るわけない!みゆが背負ってるものを、私が全部支えることは難しいかもしれないけど、それを少し軽くするくらいは、私にさせてよ…!」
みゆがぐっと唇を嚙む。
それでもみゆは、私に向かって感情的になることはなかった。
「…本当にさなは、変わってないね」
みゆだって、中身は変わっていない。それなのに、またその顔をする。
辛そうな、苦しそうな顔。
「さながどうにかしなくても、あたしはもう自分で何だってできる」
ザク、と、みゆの靴が地面にこすれる音がした。アスファルトにも、小さな何かが散らばって落ちている。
「せめてさなには、幸せでいてほしい」
その一言は、まるで自分の幸せを犠牲にするかのようで。
そんな、と口を開くことができなかった。
もしも私が、同じ学校の人にここへ来ているところを見られたら。
お父さんやお母さんが、ほしかげ界隈の人々と私に関わりがあると知ったら。
暗くてどろどろしたようなものに、飲み込まれそうになったら。
私は、それでもみゆのことを一心に想えるのだろうか。
そんな私は、幸せだと言えるのだろうか。
「あたしのために、本当にありがとね。…もう二度とここには来ないで」
みゆが私の手を握った。その手は私よりも小さくて、細くて、冷たかった。
ぎゅっと、みゆの手に力が入る。真ん中から、ほのかにあたたかくなる。
「さなは、優しい人だから」
私は頭を横に振る。
もう行きな、とみゆに言われ、私は路地をぬけた。早歩きで前に進む。
ごめん、と最後に小さく言った言葉が、届いているかはわからない。
スマホから着信音が鳴る。お母さんからの電話だった。
『いい加減、早く帰ってきなさい。もうこんな時間だよ』
「…うん。今帰ってる」
『わかった。…ねぇ、さな?』
泣いてるの?
そう言われてしまう前に、何でもないとだけ言って、電話を切った。
あぁ、なんでこんなに悔しいんだろう。
友達が苦しんでいるのに、何もできない。
悔しい。悔しくて涙があふれてくる。なんでなんだろうな。
私、何か間違えてるのかな。
明日が休日でよかった、と思う。こんなんじゃ、学校なんか行けない。