ニアちゃんの話題で持ちきりだったほしかげ界隈が、徐々にいつもの形に戻ってきた頃。
私もみんなと同じくニアちゃんに対する考えは薄れてきていて、心の隅に、ほんの小さなもやもやが残っているだけだった。
学校生活とほしかげ界隈の両立も順調で、新たな生活のリズムがしっかりと定着してきているのを感じている。
最近は、学校で友達から勉強を教えてほしいと頼まれることも多くなり、なんだか嬉しくて充実した毎日を過ごしている。
しかし、こういった時にこそ、不穏な影の実体が、目の前に姿を現すのである。
普段と変わりなく、電車を一駅手前で降りて、星霜ビルの広場に向かう。
今日はゆのあくんとるのあちゃんとたくさん話す予定で、楽しみにしていた。
それが、瞬く間に不安と化する。
広場についてすぐのことだった。目に飛び込んできた光景は、みゆが見たことのない誰かに問い詰められているような、そんなものだった。
あの人は誰?ゆのあくんとるのあちゃんがいない。みゆは、大丈夫なの?
みゆよりも少し短く、対照的にバッサリと切られた黒髪。女の人にしては背が高く、とても瘦せている。
私はぎゅっとバッグを握った。私はあそこへ行くべきなのか、ためらってしまう。
怖い。それでも、私の親友はもっとつらいはずだから。
思い切って、私はその場へ駆け込んだ。
みゆが驚いた顔で私を見る。首を振る。ここには来るな、今日は帰れと言われているようだった。
そこで初めて、私には、この女の人がニアちゃんなのではないかという考えがよぎった。
女の人がこちらに顔を向けた。
「あれ、さなちゃん?はじめまして」
どうして、私の名前を。
不気味というか、近寄りがたいというか、そんな雰囲気に飲み込まれる。手から汗が止まらなくなるのを、ぎゅっと握って誤魔化す。
女の人は笑ってこちらを見ている。
「はじめまして、ニアちゃん」
私もそう言ってみる。すると、意外なことに、彼女は少しだけ驚いた表情をして、また微笑んだ。
「あたしのこと知ってたんだ。…じゃあ話が早いや」
コツコツと足音を鳴らして、ニアちゃんがこちらへ向かってくる。
どうして今日ここに来たの?私たちに何をしようとしてるの?
怖さと疑問がごちゃまぜになって、心の中で様々な物事が浮かび上がる。
ちょっとさなちゃんに訊きたいことがあるんだよね、と、ニアちゃんが口を開く。
「みゆのやってること、どう思う?」
私ははっとした。ニアちゃんは、心配なだけだ。みゆを心配しているだけ。
ひるむな、私。今日がニアちゃんと向き合う日なんだ。ニアちゃんを信じきる日なんだ。
「ここにいる人たちにとって、とっても良いことだと思うよ」
今日はやけに広場が静かだ。みんな黙ってこちらを見ている。それが、みんなにとって最大限のニアちゃんへの攻撃なのだとわかる。
そっか、とニアちゃんは呟く。こんな簡単に会話が終わるはずがない。
「さなちゃんはみゆの幼馴染だよね。しばらく会ってなかったけど、ここで再会した。それでみゆはこんなんになってた。無駄に手を差し伸べたがるやつに。さなちゃん、馬鹿みたいだと思わない?」
「ちょっと、ニア」
みゆがニアちゃんを止めようとする。みゆ、大丈夫だよ。
私はもう、揺るがない意思を持っているから。
「で、さなちゃんは学校の人にバレないようにってここへ通ってるんでしょ?そこまでリスク背負って付き合ってやりたいことなの?さなちゃんみたいな普通の人は、こんなところ来る必要ないよね」
「ニアやめて」
みゆの真剣な表情が、胸に刺さってじんわりと痛みを広げる。ニアちゃんはそんなみゆを横目に、ずっと私を見つめる。瞬き一つしない。
言い返したいことなんて山ほどある。それでも、私は口論をしたいわけじゃない。だからぐっとこらえて、とどまる。
「まさか、こいつと一緒に夢見てやってるわけ?」
「ニア!」
「うるさいなぁ今更」
ニアちゃんがみゆを押し倒そうとする。倒れこみはしなかったみゆに私は声をかけるが、大丈夫と言ってすぐにニアちゃんのほうを見つめた。
私は見た。みゆを押したニアちゃんの手に、強い力が入っていなかったこと。ニアちゃんは、みゆを押す瞬間、少し躊躇した。
「何も意味ないんだよ。馬鹿みたいなんだよ。お前らのやってること」
ニアちゃんの声が低くなり、よどんでいく。
私は必死に、怒りをあらわにしてはならないと感情を抑え込んだ。
「普通じゃないあたしたちに、普通のことしたって無駄なのわかんねーかな」
普通。その言葉だけは言ってほしくなかった。もう限界だった。
怒りなのか悔しさなのか、はたまた悲しさなのか、心の中の何かがぱちんと弾けて、しゅわしゅわとあふれ出てくるものがあって。
私は勢い良く息を吸い込んだ。
「普通だなんて…。普通だなんて言葉、言わないでよ」
それは自分でも感じるほど真っ直ぐで、心の底から発された言葉だった。
「普通なんて言葉にとらわれないで、私たちを信じてよ」
普通という名の呪いに、縛りつけられないで。
この「普通」という言葉は、私がずっと上手く付き合えないような言葉だった。
小さい頃から、肉親だと思っている両親とは「血がつながっていない」というだけで物理的な距離を感じさせられて。
幼いながらにその事実を信じられなかった私は、同級生の会話に何度も胸を痛めた。
心から幸せな毎日だ。たくさん愛されて育ってきた。それでもどこかに、「普通」という二文字の重りがついてくる人生だった。
親に力いっぱい抱きしめてもらったとき、その温もりを信じられないことがあった。
友達の親に事情を知られると、可哀想にと言われることがあって悔しかった。
さなの家は普通じゃないんだ、と言われたこともあった。
そこからは、普通であるふりをして生活する日々。
私の肉親はどうなったの?どうして私は、お父さんやお母さんと血がつながっていないの?
そうやって何度も思った。その度に、父と母は抱きしめてくれた。
しかし、大きくなるにつれて気がついた。ここへ来てから、その気づきがもっと明確なものになった。
「普通」なんてものは、存在しないんだよ。
世の中の多くの人と同じであることが、普通なの?
それは誰が決めつけるの?
私たちは、一人ひとりが世界を創っている。その世界が重なり合うからこそ、楽しいのではないか。
「そんなこと、言っちゃだめだよ。ニアちゃん」
私はそっと、ニアちゃんを見つめて言う。
「なんで?普通は普通だろ。ここにいるやつら全員、普通になれなかったやつらなんだよ。そういうやつらが無理する必要なんてない。墜ちるとこまで堕ちた方が楽なの、さなちゃんにはわかんないよな」
「ニアちゃんは、墜ちるところまで墜ちて正解だったと思うの?」
ニアちゃんの言葉が、ピタリと止まる。
墜ちて正解だったなんて、そんなわけないよ。
その心を、信じさせてよ。
「ニアちゃん、みゆと仲良しだったんだよね。それなら、少しくらい、私たちのことを信じて」
決して争いたいわけではないと。信じて見守ってほしいのだと。
その想いが伝わるように、ゆっくりと、心を込めて言葉を紡ぐ。
「…あのね、あたしは、意味が分かってないんだよ」
ニアちゃんの声色も落ち着き、静かな夜になっていく。
私もみんなと同じくニアちゃんに対する考えは薄れてきていて、心の隅に、ほんの小さなもやもやが残っているだけだった。
学校生活とほしかげ界隈の両立も順調で、新たな生活のリズムがしっかりと定着してきているのを感じている。
最近は、学校で友達から勉強を教えてほしいと頼まれることも多くなり、なんだか嬉しくて充実した毎日を過ごしている。
しかし、こういった時にこそ、不穏な影の実体が、目の前に姿を現すのである。
普段と変わりなく、電車を一駅手前で降りて、星霜ビルの広場に向かう。
今日はゆのあくんとるのあちゃんとたくさん話す予定で、楽しみにしていた。
それが、瞬く間に不安と化する。
広場についてすぐのことだった。目に飛び込んできた光景は、みゆが見たことのない誰かに問い詰められているような、そんなものだった。
あの人は誰?ゆのあくんとるのあちゃんがいない。みゆは、大丈夫なの?
みゆよりも少し短く、対照的にバッサリと切られた黒髪。女の人にしては背が高く、とても瘦せている。
私はぎゅっとバッグを握った。私はあそこへ行くべきなのか、ためらってしまう。
怖い。それでも、私の親友はもっとつらいはずだから。
思い切って、私はその場へ駆け込んだ。
みゆが驚いた顔で私を見る。首を振る。ここには来るな、今日は帰れと言われているようだった。
そこで初めて、私には、この女の人がニアちゃんなのではないかという考えがよぎった。
女の人がこちらに顔を向けた。
「あれ、さなちゃん?はじめまして」
どうして、私の名前を。
不気味というか、近寄りがたいというか、そんな雰囲気に飲み込まれる。手から汗が止まらなくなるのを、ぎゅっと握って誤魔化す。
女の人は笑ってこちらを見ている。
「はじめまして、ニアちゃん」
私もそう言ってみる。すると、意外なことに、彼女は少しだけ驚いた表情をして、また微笑んだ。
「あたしのこと知ってたんだ。…じゃあ話が早いや」
コツコツと足音を鳴らして、ニアちゃんがこちらへ向かってくる。
どうして今日ここに来たの?私たちに何をしようとしてるの?
怖さと疑問がごちゃまぜになって、心の中で様々な物事が浮かび上がる。
ちょっとさなちゃんに訊きたいことがあるんだよね、と、ニアちゃんが口を開く。
「みゆのやってること、どう思う?」
私ははっとした。ニアちゃんは、心配なだけだ。みゆを心配しているだけ。
ひるむな、私。今日がニアちゃんと向き合う日なんだ。ニアちゃんを信じきる日なんだ。
「ここにいる人たちにとって、とっても良いことだと思うよ」
今日はやけに広場が静かだ。みんな黙ってこちらを見ている。それが、みんなにとって最大限のニアちゃんへの攻撃なのだとわかる。
そっか、とニアちゃんは呟く。こんな簡単に会話が終わるはずがない。
「さなちゃんはみゆの幼馴染だよね。しばらく会ってなかったけど、ここで再会した。それでみゆはこんなんになってた。無駄に手を差し伸べたがるやつに。さなちゃん、馬鹿みたいだと思わない?」
「ちょっと、ニア」
みゆがニアちゃんを止めようとする。みゆ、大丈夫だよ。
私はもう、揺るがない意思を持っているから。
「で、さなちゃんは学校の人にバレないようにってここへ通ってるんでしょ?そこまでリスク背負って付き合ってやりたいことなの?さなちゃんみたいな普通の人は、こんなところ来る必要ないよね」
「ニアやめて」
みゆの真剣な表情が、胸に刺さってじんわりと痛みを広げる。ニアちゃんはそんなみゆを横目に、ずっと私を見つめる。瞬き一つしない。
言い返したいことなんて山ほどある。それでも、私は口論をしたいわけじゃない。だからぐっとこらえて、とどまる。
「まさか、こいつと一緒に夢見てやってるわけ?」
「ニア!」
「うるさいなぁ今更」
ニアちゃんがみゆを押し倒そうとする。倒れこみはしなかったみゆに私は声をかけるが、大丈夫と言ってすぐにニアちゃんのほうを見つめた。
私は見た。みゆを押したニアちゃんの手に、強い力が入っていなかったこと。ニアちゃんは、みゆを押す瞬間、少し躊躇した。
「何も意味ないんだよ。馬鹿みたいなんだよ。お前らのやってること」
ニアちゃんの声が低くなり、よどんでいく。
私は必死に、怒りをあらわにしてはならないと感情を抑え込んだ。
「普通じゃないあたしたちに、普通のことしたって無駄なのわかんねーかな」
普通。その言葉だけは言ってほしくなかった。もう限界だった。
怒りなのか悔しさなのか、はたまた悲しさなのか、心の中の何かがぱちんと弾けて、しゅわしゅわとあふれ出てくるものがあって。
私は勢い良く息を吸い込んだ。
「普通だなんて…。普通だなんて言葉、言わないでよ」
それは自分でも感じるほど真っ直ぐで、心の底から発された言葉だった。
「普通なんて言葉にとらわれないで、私たちを信じてよ」
普通という名の呪いに、縛りつけられないで。
この「普通」という言葉は、私がずっと上手く付き合えないような言葉だった。
小さい頃から、肉親だと思っている両親とは「血がつながっていない」というだけで物理的な距離を感じさせられて。
幼いながらにその事実を信じられなかった私は、同級生の会話に何度も胸を痛めた。
心から幸せな毎日だ。たくさん愛されて育ってきた。それでもどこかに、「普通」という二文字の重りがついてくる人生だった。
親に力いっぱい抱きしめてもらったとき、その温もりを信じられないことがあった。
友達の親に事情を知られると、可哀想にと言われることがあって悔しかった。
さなの家は普通じゃないんだ、と言われたこともあった。
そこからは、普通であるふりをして生活する日々。
私の肉親はどうなったの?どうして私は、お父さんやお母さんと血がつながっていないの?
そうやって何度も思った。その度に、父と母は抱きしめてくれた。
しかし、大きくなるにつれて気がついた。ここへ来てから、その気づきがもっと明確なものになった。
「普通」なんてものは、存在しないんだよ。
世の中の多くの人と同じであることが、普通なの?
それは誰が決めつけるの?
私たちは、一人ひとりが世界を創っている。その世界が重なり合うからこそ、楽しいのではないか。
「そんなこと、言っちゃだめだよ。ニアちゃん」
私はそっと、ニアちゃんを見つめて言う。
「なんで?普通は普通だろ。ここにいるやつら全員、普通になれなかったやつらなんだよ。そういうやつらが無理する必要なんてない。墜ちるとこまで堕ちた方が楽なの、さなちゃんにはわかんないよな」
「ニアちゃんは、墜ちるところまで墜ちて正解だったと思うの?」
ニアちゃんの言葉が、ピタリと止まる。
墜ちて正解だったなんて、そんなわけないよ。
その心を、信じさせてよ。
「ニアちゃん、みゆと仲良しだったんだよね。それなら、少しくらい、私たちのことを信じて」
決して争いたいわけではないと。信じて見守ってほしいのだと。
その想いが伝わるように、ゆっくりと、心を込めて言葉を紡ぐ。
「…あのね、あたしは、意味が分かってないんだよ」
ニアちゃんの声色も落ち着き、静かな夜になっていく。



