晨星、黎明に駆けて

私の中のどこかで、ずっと考えていることがある。
悩みがない人って、いるのかな。
みんな、弱い部分って、あるんじゃないのかな。
それとどうして、私たちは上手に向き合えないのだろう。
見て見ぬふりをしてみたり。笑って誤魔化したり。自分を追い詰めたり。逃げたり。
完璧な人がいるだなんて思っていない。不器用な人がほとんどだ。
不器用を愛せたら、楽になるのだろうか。
そんな不器用な私たちでも、何かを助けたいと感じてしまうときがあるのは、ただのエゴなのだろうか。

「さな、じゃあね」
「また明日ね!」
友達と別れて、ゆったりとした歩調で、駅のホームに向かう。
「三番線、電車が参ります。ご注意ください」
聴き慣れた駅のアナウンスとメロディーは、今日も生ぬるい風を運んできた。
頭を上げているのは電光掲示板を見ている人だけで、他の人々はみな、己の手元を見つめるだけだ。
私も意味があるかはわからないが、駅のホームでの待ち時間も、電車に乗った後も、参考書を読み続けている。
電車に乗り込み、駅五つ分の知識を頭に詰め込んでいく。
たまに、車窓から夕焼けを見てみる。
いつもと何ら変わりのない、こんな生活。
しかし、突然、その平凡はくつがえる。
「ねえ、ママ?なんででんしゃうごかないの?」
子供がお母さんに話しかける。
「なんでだろうね…。でも、きっともうすぐ動くよ、大丈夫」
…言われてみれば、電車が駅に止まったまま、なかなか動かない。私の家まではあと一駅だ。
なんだかもわりと嫌な予感がしたそのとたん、アナウンスが流れた。
「ご乗車中のお客様にお知らせいたします。先程、次の…駅で事故が発生いたしました。只今運転を見合わせております。運転再開は一時間後を予定しております…」
「え!?まじかよー…」
部活帰りの男子だろうか。大きなため息をついて座席の背もたれにだらんと身をゆだねた。
最近は電車の人身事故が多い。どうか人身事故でありませんように、と、心の中で祈った。
スマホを開いて、お母さんにメッセージを送る。
『電車が事故で止まっちゃった!!運転再開まで一時間くらいかかるって』
アプリの遅延情報画面を貼り付けて送信する。すぐに既読がつく。
『多分タクシーも混むから、一駅分だし、歩いて帰るね』
『了解(両手で丸い形を作った女性の絵文字)さなの乗ってる電車じゃなくてよかった。気をつけてね!』
「仕方ない、歩きますか…」
私は参考書をバッグにしまい、電車を降りた。懐かしい空気を吸い込む。
ここの駅は、中学生のときに友達との待ち合わせ場所としてよく利用していた。家までの道のりは楽勝だ。
改札を出て、家までの短い旅が始まった。

イヤホンをつけて音楽を流しながら、非日常を味わってみる。
最後にこの町に来たのは、確か中学三年生のとき。もう私も高校二年生なので、二年も足を運んでいなかったことに驚いた。
町は意外と変わっていない。いくつか閉店してしまったお店はあるけれど、人気(ひとけ)は多く、なんだか安心した。
懐かしい風景に気を取られていると、あたりはすっかり暗くなっていた。
町の奥深くから人々の声がするようになる。危ないことに巻き込まれたらやっかいなので、歩くスピードを上げる。イヤホンに流れる曲が、どことなくアップテンポに聴こえてくる。
一本の狭い路地を抜けた、そのときだった。
「離せよ、離せ!」
女の子の高い声が聞こえた。それと同時に、鼻がキンとするようなお酒のにおいと、どろりとした甘ったるいにおいが全身を覆った。
そうだ、ここって。
「ほしかげ、界隈…?」
ここ数年で増加した、居場所のない若者たちの集団。星霜(せいそう)ビルの裏の広場に集まっているという噂は聞いていたものの、暗くなってからこの町を歩いたことはなかったので、忘れてしまっていた。
「別になんもしねーから、ただちょっと付き合って、って言ってんだよ」
「そういうのに興味ないから!もう関わんないって決めたから…!」
女の子は必死に抵抗するが、相手の男は、全く懲りる気配がない。これでは、いずれ女の子に限界が訪れる。
だんだんと二人は私の方に近づいてくる。今まで何ともなかった手足が、とたんにひんやりとした感覚に襲われる。小さな震えが、私を支配する。
周囲の人々は、一切関心を示していないようだ。こういうのって、日常茶飯事なの…?
どうしよう、私がどうにかしないといけない?助けたいけれど、どうやって?
本当に怖くて、身体が動かない。逃げたい。どうしよう。どうすれば。
「きゃっ…!」
ぐるぐると頭の中で考えていると、ドン、と鈍い感覚を覚えた。
どうやら私は、男とぶつかってしまったらしい。痛みが、後から襲ってくる。
「あ?何、こいつ」
男と目が合う。身体がかちこちで、逃げたくても、何もできない。
「すみませ…」
「こいつ、白妙(しろたえ)の制服着てんじゃん。何しに来たんだよ…。邪魔くせえ」
今まで嗅いだことのないほどの、濃いタバコのにおい。思わず咳き込みそうになる。
私の通っている高校が、バレてしまった。私立白妙学園高等学校。バスケットボール部の強豪として知られいるため、制服を見ただけでなんとなく「白妙だ」とわかる人もいると聞いたことがあった。まさかこんなところで…!
「じゃあいいや、もうこっちのは使い物にならなそうだし。お前さ…」
「嫌、嫌です」
「何、まだ何も言ってねーんだけど」
うけるわ、と、男が真顔で笑った。気味が悪くて、目を瞑った。
最悪だ。混んでいても、タクシーを使うべきだったかもしれない。
私は、どうすれば。
「ねえ、お前うるさい」
私と男の人を隔てるようにして、誰かが立っていることに気がついた。
どこかで聞いたことのあるような、女の子の声だった。
「さっきからやりすぎなんだよ。ここは騒ぐ場所じゃないから」
私はそっと目を開けてみる。女の子は、いたって普通の女子高生に見えた。背丈なんか、私とほぼ変わらないのに…。
「…大丈夫?」
女の子は振り返る。そして、どうしてか、目を見開いた。
それは、私も同じだった。
みゆ(・・)の、顔だった。
女の子は、一度頭を横に振った。そして、もう一度、私と目を合わせて言った。
「なんで来たのかは知らないけど、ここはあなたみたいな人が来る場所じゃないと思うよ。しかもそんな恰好で」
くっきりとした目鼻立ちに、聞き覚えのある、少しハスキーな声色。
みゆにそっくり、いや、きっとこの人はみゆだ。
でも、どうしてこんなところに…?
「ねえ、あなたって、み…」
「もうここには二度と来ないで」
みゆによく似た女の子は、これ以上私の顔を見ることはなかった。
どうしてか、周りの視線が私に一点集中している気がして、一気に金縛りから解かれたような感覚になり、私は真っ先に家の方へ走って逃げた。
足の速さが異様に遅く感じた。
恐怖心とあの独特のにおい、そして、みゆのことが、私を追いかけていた。
あの人は、本当にみゆにしか見えなかった。
みゆと決定的に違ったのは、最後に私に向けた、あの冷たい、刺すような眼差しだけ。
みゆ。昔は、そんな人じゃなかったじゃん。
どうして、あんなところにいたの?
「た、ただいま!」
「さな、遅かったじゃない!心配したんだからね。電話かけようか迷ってたところに…」
ごめん。お母さん。今は、それどころじゃないんだ。
「ねえ、お母さん」
「なに?どうかした?」
「…昔同じ団地に住んでた、みゆのこと、覚えてる?」