白紙の契りに愛を漉く

 蒼井家にやってきて二日目、千咲は朝から漉場の掃除をしていた。菫が倒れてから使われていない漉場は、からからに乾いている。逆にそれがよかったのかもしれない。紙漉きに使う道具にもカビはついておらず、掃除さえすればそのまま使えそうだった。
「千咲母さま、お水、汲んできたよ」
 千咲が漉場を掃除したいと言えば、朔也も琴葉も手伝うと手をあげてくれたため、二人には井戸から水を汲んで運んでもらうことにした。しかし子どもたち二人だけでは不安であったのだろう。使用人の幾人かも「手伝います」と声をあげたので、漉場内はそれなり人がいる。
「ぞうきんをしぼって、台や壁を拭いてもらえる?」
 当主の子、すなわち次期当主でもある朔也に漉場の掃除なんてやらせていいものかと、千咲は内心ヒヤヒヤしていた。
 しかし、紙守は漉場を守るのが大前提。そこの掃除の一つや二つ、できなければ紙守一族でもないと、昨日の夕食時に蓮司がぼそりと言ってくれたため、千咲も遠慮なく朔也たちに協力を頼んでいる。
 蓮司もそう言った手前、手伝ってくれるのかと少しだけ期待したが、彼は彼でやることが山積みのようだ。今日は、結婚の手続きや報告のために、役所やら紙守本家やらに向かうらしく、従者の大和を連れて外に出ていってしまった。
 とはいえ、そちらに千咲は一緒にいなくてもいいのだろうか。
 ただ千咲に求められるのは蓮司の妻ではなく、朔也と琴葉の母親役。となれば、千咲を相手に会わせたくないのかもしれない。
 そもそも千咲の身分では、当主の妻なんて恐れ多いもの。
「奥様、こちらも終わりました」
 使用人たちも男女ともに手伝ってくれたため、漉場の清掃は思っていたよりも早く終わった。
「ありがとうございます。みなさんは、自分の仕事に戻ってください」
「あの……奥様は?」
 忙しく掃除をしていたときは気にならなかったのに、奥様と呼ばれる事実に気がついてしまうと、胸の奥がむずがゆい。求められるのは子どもたちの母親だとしても、世間からは当主の妻だと見られているのだ。
「このまま、紙漉きの準備に入ろうと思っています」
 まずは漉場を使えるように片づけた。次は、紙漉きができるように楮を加工する必要がある。
 蒼井家もまた、楮を白皮の状態で保存していた。ただ、菫があんな状態になっているのに、楮を白皮にすることだけはできたのだろうかと疑問に感じたが、それを口にはしなかった。
「奥様、私たちに手伝えることがあったら、なんなりとお申し付けください」
 使用人の言葉に、首をひねった千咲の着物の裾を、朔也がつんつんと引っ張った。
「あのね。この人たちも一緒に紙漉きの準備をしたいんだよ。この人たちも漉姫と漉守なの。でも、おばあさまが倒れちゃったから、何もできなくなっちゃったの」
「漉守の方も、紙漉きの準備をするの?」
 朔也に確認すれば、彼は小さく頷く。漉姫が紙漉きの準備をするのはわかるけれど、漉守までというのが千咲には理解できない。
「あ、えっと……では、お義母様に確認してきます。それまでは、休んでいてください」
 紅梅家では、屋敷に集められた女性が一斉に紙漉きをしていた。その合間に他の仕事を命じられることはあったが、屋敷の掃除や食事の準備をしていたのは、漉姫や漉守ではない者たちだ。
 だが蒼井家では漉姫や漉守たちが、屋敷の仕事を手伝っているらしい。
 菫に確認するため彼女の部屋へ向かおうとすれば、朔也と琴葉もとてとてとついてくる。
 部屋にいた菫は、昨日と同じように布団の上で身体を起こして、本を読んでいた。少し動くとすぐに息が切れてしまうため、じょじょに身体を動かす時間を増やしている。
「あら? 千咲さん。今日は漉場のほうに行っていたのではなくて?」
「はい。朝から片付けをして、ようやく使えるようになったのですが……その……漉守のみなさんが、紙漉きの準備の手伝いをしたいと言っていて、どうしたらいいのでしょう?」
 菫はゆっくり瞬きをしてから、千咲を驚きの目で見つめてくる。
「お義母さま?」
「あぁ、ごめんなさい。千咲さんがあまりにも当たり前のことを言うものだから」
「当たり前ですか? 漉守の方が紙漉きの準備を手伝うのが?」
 千咲にはピンとこない話だ。漉守は漉姫が漉いた紙を使って、結界を張るのが仕事である。だから紙漉きの一切は漉姫の仕事だと、紅梅家ではそう教えられたのだ。それを菫に伝えれば「そうなのね」と穏やかに微笑んだ。
「そういった点では、紅梅一族と蒼井一族は違うのかもしれないわね。紙漉きの原料を作るのは、力仕事でもあるでしょう? 楮を刈る、皮をはいだり叩いたり。そういった仕事は、漉守も行うのよ」
 今度は、千咲が信じられないと、驚愕の表情を浮かべた。
「千咲さん。彼らが手伝うと言っているのだから、手伝わせなさい。むしろ、それが漉守の本来の仕事ですから、遠慮する必要はありませんよ」
 菫に礼を言った千咲は、すぐに漉場へと戻る。
「お待たせしました。えぇと……楮を水に浸して柔らかくしたいので、手伝っていただけますか?」
 紅梅家では、川の水に浸して楮の皮をやわらかくしていたが、蒼井家の周辺には川が見当たらない。
「ここでは、井戸水を使います」
 漉守の一人がそう言っている間に、他の漉守たちは水の入った桶を抱え、大きな水槽に水を入れ始める。
「もしかして、これが?」
「そうです。この水槽に水をいれ、二晩ほどおいてから煮熟します。大奥様が体調を崩されてから、使う機会がなかったのですが……」
 また紙漉きができるからか、漉守たちの顔もどこか嬉しそうだった。
「今までは白皮を水に浸している間は、他の作業をしていたのです」
 今はまだ紙漉きを再開したばかりで、それ以外の作業は何もできない。楮を刈るのもまだ早い。
「では、二日後に作業を再開します。そこから煮熟、塵より、叩解と続けていきましょう」
「トロロアオイも用意しておきます」
 トロロアオイは紙漉きにおいては欠かせないもの。「ネリ」として働き、繊維を均一に分散させてくれるのだ。
 ここに来たばかりの千咲では、まだどこに何があるかわからないし、勝手も身についていない。
「ありがとうございます」
 それに紅梅一族からやってきたというのに、こうやって受け入れてくれる彼らにも感謝したい。
 胸の奥が熱くなって、礼を絞り出すのがせいいっぱいだった。しかし漉姫や漉守たちは「また紙漉きをできるようにしていただきありがたいかぎりです」と笑顔で返してくれたため、さらに千咲の胸の奥が熱をもった。