白紙の契りに愛を漉く

 さわりと吹き付けた秋の風が、千咲(ちさき)の頬をなでていく。
「君に結婚を申し込む」
 目の前に立つ男を見上げ、コクリと喉を鳴らした。整った顔立ちに迷いのないまなざしを浮かべる彼の言葉は、千咲の心に重く響く。
「だが、君に求めるのは俺――蒼井(あおい)家当主の妻ではない。子どもたちの母親となることだ」
 艶やかな黒髪を揺らしながら、男は力強く千咲を見下ろしてくる。千咲もまた丸い目を大きく見開き、ゆっくり頷いた。
「はい。この家から出られるのであれば、それはどんな理由でもかまいません」
 その決意に、男はふっと口元をゆるめた。
「なるほど。では、交渉成立だな」
 一瞬、強く風が吹き、背丈以上に成長した楮の葉が、カサササ……と音を立てる。
 千咲は男が差し出した手に、そっと自身の手を重ねた。

* * *

 人から離れた悪意は「(じゃ)」となり人を襲い、さらなる悪意を引きずり出す。悪意は、宿主たる人が死してもなお、「邪」としてこの世に残り続けた。
 それは人と人が争っていた遙か昔の話。とはいえ、何百年経った今も「邪」は残り「邪」は生まれ続けている。
 その「邪」を封じるのが「紙守(かみもり)」と呼ばれる一族。紙守一族には、紙を漉く女性「漉姫(すきひめ)」と、漉姫が漉いた紙を用いて結界や形代を作る「漉守(すきもり)」の男がいる。そんな紙守一族によって、人々の生活は「邪」から守られていた――。

 秋の園遊会は、紅梅(こうばい)家で華やかに行われる。季節ごとに行われる園遊会は、漉守と漉姫の交流の場であり、また慰労と感謝を伝える場でもあった。
「みなさま、本日はお集まりいただきありがとうございます」
 紅梅家当主の(たまき)がグラスをかかげた。着物姿の彼は、肩に届く赤っぽい髪を一つに縛り、朗らかに微笑む。
 その場に集まるのは、色とりどりのドレスや着物に身をつつむ漉姫と呼ばれる女性たちと、漉守の男性たち。年齢も子どもから大人までとさまざまで、紙守の地を引く者が一堂に会していた。
「環様、お話を」
 一人の娘が環の元へ駆け寄ると、他の娘も同じように「環様」と声をかける。するとすぐに「環様」「環様」と我こそはと娘たちが群がり、環の姿は見えなくなった。
 園遊会のたびに見かける光景だと、他の者は笑いながら酒を飲み、話に花を咲かせる。
 紙守の本家は四家あり、妻のいない当主は紅梅家の環と蒼井家の蓮司(れんじ)である。しかし蓮司には過去に結婚歴があるため、どの女性も遠目から眺めているばかりだった。さらに子どもが二人いるとなれば、いくら本家の当主といえども、結婚する相手としては避けたいらしい。

 華やかな宴の声は、庭園から離れている漉場にも聞こえてくる。
 園遊会が開かれる日は、漉姫たちはそちらに参加することになっているのだが、千咲は一人で簀桁を振るっていた。
 ちゃぷんちゃぷんと水が揺れるたびに、簀桁の上には薄い紙ができあがっていく。
 今日は園遊会日よりで天気がいいため、扉を開放している。外から入りこむ秋のやわらかな風は、少し汗ばんだ身体に心地いい。
 紙漉きは好きだ。無心になって簀桁を揺らし、細くて丈夫な紙ができあがったときには、達成感で心が満たされる。
 だけど、この家は好きではない。
 紅梅家の一族では、年頃になった娘は、本家において集団で暮らす決まりがあった。そこで紅梅一族にふさわしい行儀を学び、漉姫としての技量を身につける。千咲も十五歳のときに紅梅家にやってきて四年が経ったが、漉姫たちの中には目に見えぬ序列があった。
 序列は生まれ育った家の格で決まるもので、千咲は紅梅家の親戚筋とはいえ末端の末端であり、実家も決して裕福ではない。
 また本来であれば、一人前の漉姫として認められれば実家に戻れるのだが、千咲は一生、本家のために紙を漉くことになっている。
 つまり、売られたのだ。
 だがこれもまた珍しい話ではない。貧しい家は娘を本家に差し出して、大金を得ていた。そういった娘の場合、金も後ろ盾もないのだから、漉姫たちの序列が最下位になってしまうのも仕方ない。
 他の漉姫たちは「結婚が決まった」「腕が認められた」と実家に戻っていき、また新しい漉姫たちがやってくる。それでも千咲の序列が上がることはないのだ。
 だから年下の漉姫たちであっても、彼女たちのほうが序列は上になるため、今日も「あんたは紙を漉くのが下手くそなんだから、練習でもしていたら? 誰もいないのだから、練習にはもってこいでしょ?」と言われてしまえば、それに従うしかない。
 彼女たちは園遊会で将来の伴侶を探すのに忙しいのだろう。だからその日のために着物をあつらえたり、相応しい立ち居振る舞いを学んだりと、漉姫としての本来の仕事よりも、自分を磨くことに力を入れていた。
 そのため千咲は誰よりも紙を漉いており、あげく千咲の漉いた紙を奪い「私が漉きました」という漉姫すらいるのが現実。
 とはいえ、彼女たちのその主張に反論する気はなかった。紙守にとって、誰が漉いた紙かまでは重要ではないからだ。その紙が強い結界を作り、形代として役目を果たせるのなら、千咲はそれだけで満足だった。
 時折、風にのって賑やかな声が聞こえてくるが、無心で簀桁を振るっていた。
 そのときカサリと物音が聞こえ、はっとして顔を上げた。作業している場所からは、生い茂る楮の葉がよく見える。しかし、そのそばには子どもが二人断っていて、こちらをじっと見つめていた。
 簀から紙床板(しとこいた)に湿紙を移した千咲は、作業をとめて外に出た。
 二人の子どもは、見るからに身なりがよかった。兄妹と思われる男の子は、小さな蝶ネクタイをきちんとしめ、女の子は白いフリルのついたワンピースをまとっている。となれば、園遊会に参加している紙守の子だろう。会場からふらふら抜け出して、迷い込んできてしまったのだろうか。
「もしかして、迷子?」
 千咲は身をかがめ、男の子と目線の高さを合わせて尋ねた。
 男の子はぷるぷると首を横に振り、小さな女の子は兄の服の裾を握りしめながら、千咲をじっと見上げている。
「園遊会のお客様でしょ?」
 それについて、男の子は答えない。
「おうちの方も心配しているわよ? ご両親は?」
「母さまはいない。父さまは他の人とおしゃべりしてる」
 男の子は、どこか気まずそうにぼそぼそ答えてきたが、それでも視線だけは真っすぐ千咲に向けてくる。
「紙漉きの葉っぱが見えて、こっちに来たら、紙を漉いてる人がいたから。父さまの用事が終わるまで、ここにいていい?」
 思いがけない願いに、千咲は戸惑った。
「おうちの方は大丈夫なの?」
「大丈夫。時間になったら戻ればいいから」
 男の子の言葉に合わせて、女の子がコクリと頷く。
 子どもだけで外をうろうろさせておくよりは、目の届く漉場にいたほうが安全だろう。
 千咲は少し考えてから、やわらかく微笑んだ。
「じゃあ、漉場においで。一緒に紙漉きしてみる? あ、私の名前は千咲よ」
 千咲が名乗ったところで、二人の顔から強張りがすっと消えた。
「僕は朔也(さくや)、五歳。こっちは妹の琴葉(ことは)、三歳。でも、妹はまだしゃべれないんだ」
 先ほどからが朔也が話をしていたのはそういう理由もあったらしい。それに五歳というわりには、ずいぶんしっかりしている。
 千咲は朔也と琴葉の手を取って、漉場へと向かった。
 小さな手はほんのりあたたかく、琴葉の指先は少しだけ緊張しているのか、きゅっと千咲の手を握っている。
「千咲お姉ちゃんは漉姫?」
 漉場に入るなり、朔也はきょろきょろと周囲を見回した。水を張った舟、簀桁、積み重ねられた湿紙。どれも紙漉きにはかかせないものである。
「そうね」
「でも、あっちのパーティーには出ないの?」
 子どもでも、この時間に漉姫は園遊会に参加するものだとわかっているのだ。
「うん。紙漉き好きだから。パーティーは人が多くて少し苦手なの」
「じゃ、僕と同じだ」
 朔也の顔がぱっと晴れ、それに釣られるようにして、琴葉もにこにこと笑う。二人の表情が緩んだだけで、漉場の空気まで明るくなったかのよう。
「琴葉ちゃん、一緒にやってみる? この台の上にのれば、届くから」
 千咲にうながされ、琴葉がおそるおそる台の上に立つ。千咲はすぐにその背後へ回り、小さな身体を支えた。
「この枠に手を添えて」
 琴葉の手をそっと簀桁に添えさせ、千咲は一緒にそれを舟の中へ沈めた。水面が揺れ、白い繊維が光を受けてふわふわ漂う。
「こうやってね。手早く水を振るって、紙を漉くのよ」
 簀桁を前後に揺らすたび、水がちゃぷちゃぷ音を立てる。
 琴葉は息を止めるようにして、一緒に手を動かした。
「おばあさまも、やってた」
 朔也はきらきらと輝くような笑みを浮かべ、作業を食い入るように見つめている。
「よし、これでいいわ」
 漉いた湿紙を紙床板の上にぱっと重ねた。
 琴葉と一緒にやったから、厚みにもむらがあって決してできのいいものとは言えない。それでも千咲の胸の奥には、ぽかぽかとしたあたたかさが広がっていた。
「朔也くんもやってみる?」
 千咲の誘いに、朔也は顔を横に振った。
「僕は漉守だから」
 幼いながらも、漉守としての自覚があるのだろう。となれば、かなり格式高い家柄の子ではないだろうか。
「琴葉ちゃんが手伝ってくれたから、とってもいい紙ができたわ。ありがとう」
 千咲が琴葉の手を洗い、布で拭きながら伝えると、琴葉はにこっと笑顔になった。
「千咲お姉ちゃん。琴葉と紙漉きしてくれてありがとう。琴葉、喜んでる」
 しゃべれない妹の代わりに気持ちを伝えてくれる朔也の姿に、千咲の顔も自然とほころんだ。
「作った紙は乾かさないといけないから、すぐには渡せないの」
 せっかくだから、琴葉には彼女自身が漉いた紙を持ち帰ってもらいたかった。けれど湿ったままではどうにもならない。
「だから、代わりにこれ……」
 二人に手渡したのは、千咲が作った落水紙である。漉いたばかりの和紙に水を落として、繊細な模様を描いたもの。
「うわ~きれい。千咲お姉ちゃん、すごいね。琴葉の服のフリルみたいだ。これで服を作れそうだね」
 子どもの発想とは面白い。
 琴葉も落水紙を両手で大事そうに持ち、透かすようにして眺めている。
「……さくや~、ことは~」
 そのとき、遠くから子どもたちの名を呼ぶ男の声が聞こえてきた。
「あ、父さまだ。戻らないと。千咲お姉ちゃん、ありがとう。またね」
 千咲に向かって素早く頭を下げた朔也は、琴葉の手をひしっと握りしめ、慌てた様子で漉場を出ていった。小さな背中は、楮の葉の向こうへと消えていく。
 今までの賑やかな子どもの声の余韻を吹き消すように、漉場の中を穏やかな風が通り抜けていった。