「ふ。そんなに怯えずともよい。おぬしは我が一族の恩人。食うことはせぬよ。私は千牙。この里の長だ」
低く甘い、やわらかな声音で、彼は言った。それでも咲は、まだ恐ろしい気持ちを少しも拭うことも出来ずに、見上げる長身の千牙の顔を、仰ぎ見る。
「おぬし、名は」
「え」
「名は、なんという」
名を、問われた。
もしかして、彼は咲の名を、呼んでくれるのだろうか。いやしかし、飽いたらまた、無能になるかもしれない。そう恐れたが、ハチとスズに元気よく名を呼んでもらったことに元気づけられ、咲は喉を震わせて、名乗った。
「さ、咲と、申します……」
咲が名乗ると、千牙はすうと目を細くし、それから口の中で咲の名を転がした。
「咲、咲……、良い名だ。まずは、咲。おにかみの里の長として、礼を言わせてくれ。朧たちに力をありがとう。感謝する」
「ち、力……、ですか……?」
青年と対峙し、いつの瞬間に喰われるのかと体を硬くしていた咲は、思いもよらないことを言われてぽかんとした。千牙は、おや、分かっていなかったのか、と楽しそうに言葉を継いだ。
「朧たちはそもそも名を持たぬ。名を持たぬあやかしは環境に左右されやすく、やがてははびこる邪に飲まれ、それが呪となり悪鬼となる。呪に縛られた朧は呪を斬らなければ解放されない。しかし、おぬしが朧に名をつけたことで朧はしっかりとその性質を定め、安定した。これは、咲、おぬしの功績だ」
「私の……」
さきほど千牙は、咲を喰らおうとしていた鬼に『朧よ』と呼び掛けていた。もしかして、あの鬼は、朧の成れの果てだったのだろうか。
「そうだ。我々では、成しえなかった。あやかしは生まれつき名をもつのでな、生まれたあやかしに名をつけるという行為を知らなかったのだ」
そう、……だったのか。人が当たり前に行う命名の行為に、そんな力があるなんて思いもしなかった。
……でも、だったら、なにも咲でなくても、朧たちを想う気持ちのある人間が付けることも、可能なのでは、ないだろうか。朧は人に害をなさないし、それを知った人が名をつけることがあるかもしれない。そんな咲の考えを読んだように、千牙は続けた。
「ただ、名をつけるのが誰でも良いというわけではない。ハチとスズをはじめとした朧たちから聞いたが、咲は家族に名を呼んでもらえないことを悲しく思っていただろう? 名に対するこだわりが、おぬしにはある。その想いが力になった。……おぬしには、皮肉なことだと思うが」
千牙はそう言って、咲の頭をやさしく撫でた。……そんなことをしてもらったのが、もう記憶がかすれたはるか昔に父にしてもらったとき以来だったので、咲の目にじわりと涙が浮かんだ。
「何故泣く。やはり名を呼ばれなかったのは、悲しかったか」
千牙の問いに、首を横に振る。違うのだ。悲しいからではない。千牙のやさしさが、嬉しかったのだ。
「……私、あやかしって、人を食う怖いものだと思っていたのですが、……違うんですね。千牙さんがやさしい方で、私、嬉しいです」
家族には捨てられた。拾われた先でこのようなやさしさに触れれば、咲の孤独で埋め尽くされていた心は簡単に傾く。滲む涙をぬぐって微笑もうとすると、千牙の手が咲の目もとから頬を覆った。爪は鋭いのに、その先が皮膚に当たらないよう気遣ってくれているのが分かった。
「そう判断するのは早計だ。私はおぬしを、利用しようとしている」
やさしい手つきと、突き放すような声音。どちらが本当の千牙に近いのか、初めて会った咲には判断が付かない。それでも。
「今、千牙さんは、私に気遣ってくださいました。邑の誰も、私にそんな風にしてくれたことはなかった……。利用するんでもいいんです。もともと私には、そうされる以外に価値がないので……」
寂寥を滲ませた目を細め、咲は言う。千牙はそうか、と呟き、この里での待遇について語った。
「それであれば、話は早い。里に逗留する代わりに、日々生まれてくる朧に名をつけてもらいたい。それだけしてもらえれば、おぬしが次に生きていくべき人の里が見つかるまでの間、ここに居ることを叶えよう」
千牙の言葉に咲はぽかんとした。
それだけ? たったそれだけのことで、いっときの住処を与えてくれるというのか? あまりに咲に都合が良すぎて、正直狼狽える。
「あ、あの……。もっと、あの、お掃除とか、草むしりとか、そういうお仕事は……」
「要らぬよ。そもそもおぬしは、我が一族の恩人だ。そのおぬしを狡猾にも利用しようというのだから、私の方が責められなければならない」
「そんなこと……」
咲はそんな風に思っていない。鬼に食われそうだったのを助けてもらった恩だってあるのだ。困って千牙を見つめる咲に、彼はやわらかく表情を崩した。
「おぬしは名をつけること以外に、憂うことはない。なに、いっときのことだ。竜宮城へ招かれたと思って、くつろいでくれたらいい」
千牙はそう言うと、小夜に命じて咲を退室させた。咲は退室した千牙の部屋を振り返る。
(たったそれだけのことで、私、ここで生きていられるの……?)
常に身を粉にして働いてきた咲には都合の良すぎる話だ。しかし……。
(千牙さんは嘘を吐くような雰囲気ではなかったわ……。信じてみても、いいのかもしれない……)
信じて、そして常に約束を反故にされてきた。それでもなお、相手を信じようとしてしまうのは、自分が愚かだからなのか。
(でも、信じてみたいの。私を、『咲』と呼んでくれた千牙さんを……)
胸の前でぎゅっと手を握る。期待と、一抹の不安。それでも。
(邑ではないこの場所で、私は、つかの間、生きていく)
新しい時間が拓けるかもしれない。咲の胸は、高鳴った。
低く甘い、やわらかな声音で、彼は言った。それでも咲は、まだ恐ろしい気持ちを少しも拭うことも出来ずに、見上げる長身の千牙の顔を、仰ぎ見る。
「おぬし、名は」
「え」
「名は、なんという」
名を、問われた。
もしかして、彼は咲の名を、呼んでくれるのだろうか。いやしかし、飽いたらまた、無能になるかもしれない。そう恐れたが、ハチとスズに元気よく名を呼んでもらったことに元気づけられ、咲は喉を震わせて、名乗った。
「さ、咲と、申します……」
咲が名乗ると、千牙はすうと目を細くし、それから口の中で咲の名を転がした。
「咲、咲……、良い名だ。まずは、咲。おにかみの里の長として、礼を言わせてくれ。朧たちに力をありがとう。感謝する」
「ち、力……、ですか……?」
青年と対峙し、いつの瞬間に喰われるのかと体を硬くしていた咲は、思いもよらないことを言われてぽかんとした。千牙は、おや、分かっていなかったのか、と楽しそうに言葉を継いだ。
「朧たちはそもそも名を持たぬ。名を持たぬあやかしは環境に左右されやすく、やがてははびこる邪に飲まれ、それが呪となり悪鬼となる。呪に縛られた朧は呪を斬らなければ解放されない。しかし、おぬしが朧に名をつけたことで朧はしっかりとその性質を定め、安定した。これは、咲、おぬしの功績だ」
「私の……」
さきほど千牙は、咲を喰らおうとしていた鬼に『朧よ』と呼び掛けていた。もしかして、あの鬼は、朧の成れの果てだったのだろうか。
「そうだ。我々では、成しえなかった。あやかしは生まれつき名をもつのでな、生まれたあやかしに名をつけるという行為を知らなかったのだ」
そう、……だったのか。人が当たり前に行う命名の行為に、そんな力があるなんて思いもしなかった。
……でも、だったら、なにも咲でなくても、朧たちを想う気持ちのある人間が付けることも、可能なのでは、ないだろうか。朧は人に害をなさないし、それを知った人が名をつけることがあるかもしれない。そんな咲の考えを読んだように、千牙は続けた。
「ただ、名をつけるのが誰でも良いというわけではない。ハチとスズをはじめとした朧たちから聞いたが、咲は家族に名を呼んでもらえないことを悲しく思っていただろう? 名に対するこだわりが、おぬしにはある。その想いが力になった。……おぬしには、皮肉なことだと思うが」
千牙はそう言って、咲の頭をやさしく撫でた。……そんなことをしてもらったのが、もう記憶がかすれたはるか昔に父にしてもらったとき以来だったので、咲の目にじわりと涙が浮かんだ。
「何故泣く。やはり名を呼ばれなかったのは、悲しかったか」
千牙の問いに、首を横に振る。違うのだ。悲しいからではない。千牙のやさしさが、嬉しかったのだ。
「……私、あやかしって、人を食う怖いものだと思っていたのですが、……違うんですね。千牙さんがやさしい方で、私、嬉しいです」
家族には捨てられた。拾われた先でこのようなやさしさに触れれば、咲の孤独で埋め尽くされていた心は簡単に傾く。滲む涙をぬぐって微笑もうとすると、千牙の手が咲の目もとから頬を覆った。爪は鋭いのに、その先が皮膚に当たらないよう気遣ってくれているのが分かった。
「そう判断するのは早計だ。私はおぬしを、利用しようとしている」
やさしい手つきと、突き放すような声音。どちらが本当の千牙に近いのか、初めて会った咲には判断が付かない。それでも。
「今、千牙さんは、私に気遣ってくださいました。邑の誰も、私にそんな風にしてくれたことはなかった……。利用するんでもいいんです。もともと私には、そうされる以外に価値がないので……」
寂寥を滲ませた目を細め、咲は言う。千牙はそうか、と呟き、この里での待遇について語った。
「それであれば、話は早い。里に逗留する代わりに、日々生まれてくる朧に名をつけてもらいたい。それだけしてもらえれば、おぬしが次に生きていくべき人の里が見つかるまでの間、ここに居ることを叶えよう」
千牙の言葉に咲はぽかんとした。
それだけ? たったそれだけのことで、いっときの住処を与えてくれるというのか? あまりに咲に都合が良すぎて、正直狼狽える。
「あ、あの……。もっと、あの、お掃除とか、草むしりとか、そういうお仕事は……」
「要らぬよ。そもそもおぬしは、我が一族の恩人だ。そのおぬしを狡猾にも利用しようというのだから、私の方が責められなければならない」
「そんなこと……」
咲はそんな風に思っていない。鬼に食われそうだったのを助けてもらった恩だってあるのだ。困って千牙を見つめる咲に、彼はやわらかく表情を崩した。
「おぬしは名をつけること以外に、憂うことはない。なに、いっときのことだ。竜宮城へ招かれたと思って、くつろいでくれたらいい」
千牙はそう言うと、小夜に命じて咲を退室させた。咲は退室した千牙の部屋を振り返る。
(たったそれだけのことで、私、ここで生きていられるの……?)
常に身を粉にして働いてきた咲には都合の良すぎる話だ。しかし……。
(千牙さんは嘘を吐くような雰囲気ではなかったわ……。信じてみても、いいのかもしれない……)
信じて、そして常に約束を反故にされてきた。それでもなお、相手を信じようとしてしまうのは、自分が愚かだからなのか。
(でも、信じてみたいの。私を、『咲』と呼んでくれた千牙さんを……)
胸の前でぎゅっと手を握る。期待と、一抹の不安。それでも。
(邑ではないこの場所で、私は、つかの間、生きていく)
新しい時間が拓けるかもしれない。咲の胸は、高鳴った。



