里に戻ってドレスの直しを待っているあいだに、西洋風の礼儀を千牙に教えてもらっていた。邑にいた頃、そして里に来てからとも違う洋式の礼儀に、咲の頭は沸騰しそうだった。西洋式のなにもかもが相手との距離が近くて、教えてくれる千牙と近距離でいることに心臓が爆発しそうだった。
そんなわけで、今は息抜きと称して畑の様子を見に来ている。手を掛けただけ育ってくれる命の草は、それだけで心落ち着くものだった。
……はずだったのだが。
「……さま、……きさま」
気を抜くとデパートメントでの出来事を思い出してしまう。どくどくと心臓がうるさく鳴ってしまう。
(なんだろう……。あのときの千牙さん、ちょっといつもと違ってた……)
あんなことをする人ではなかった。いつもやさしくて頭や頬を撫でてくれるけど、あのときの瞳はちょっと違った。
(でも……)
ドレスを着る前に感じていた、隙間風にさらされたような気持ちはあの抱擁でなくなった。それどころか、あのたくましい腕に一瞬でも囲われたのかと思うと、胸の奥に感じたはずの小石の重みはどこかへ消えてしまっていた。
(それに)
彼が触れた鎖骨の辺りは、屋敷に戻った今でも熱く熱を持ったようだった。そこだけ、どくどくと脈を打っているように思う。
(変だわ、私……。まるでここに千牙さんがいるみたいに感じてる……)
着物の上からそっとそこに触れてみる。勿論そこは触れられたときの湿り気も有してないし、うっ血だって日が経ってしまったから薄れていることだって分かっている。でもなんだか、咲の体の中で、ここだけ違うのだ。
(虫除けって言ってたわ……。パーティーで羽虫でもでるのかしら……)
巫女修行の時に通ったから分かるが、帝の住まう宮城はとても清潔で汚れなどないし、勿論虫が乱舞するようなこともなかった。おかしなことを言うんだなと思う。
そしておかしいと言えば、彼の言葉もおかしかった。常に広く世界を見、穏やかだが不明瞭なことは言わない千牙らしくない呟きを零していた。なにかが凝るような声音は、常の彼とは違う音だった。
(底なしの沼って、なんだろう……)
彼が、彼でないような気がして、不安が募る。そう思案していたときに、耳に大きな声が届いた。
「咲さまっ!」
はっと、呼び声で思考が途切れる。断ち切ってもらえて、良かったと安堵した。
顔を見上げるとそこにはスズがいて、収穫しようとする草を前に、咲の指示を待っている。
「どうされたんですか? 最近咲さま、様子が変です。赤くなったり、ぼんやりされたり、お忙しいですよ」
暗に平常ではないと言われて、ごめんなさい、と謝罪する。この里にいられるのは、千牙の役に立っているからなので、命の草の収穫を滞らせてはいけない。
「いろいろ覚えることがいっぱいで、頭が破裂しそうなだけよ。元気だから、心配はしないで」
「そうですか……? でしたら、ここはもう収穫しても良いところです?」
「そうね、種を取ってから抜きましょう。草としての命はもらわなければならないけど、命を次に繋げることも、必要だから」
咲の言葉に、はい! とスズが明るく返事をして、作業に戻る。彼女の作業を見つめる咲の頭には、やっぱり千牙のあの言葉が蘇ってきた。それについて考えようとすると、風花の言葉を思い出してしまって、そこで思考が止まってしまう。
(ううん、千牙さんは強くてやさしい人だもの……。そんなことには、ならないはず……)
人に対しても、あやかしに対しても、力弱き朧に対しても、やさしく真摯に寄り添う人だから。
「咲さま、これでいいですか?」
「そうね。種には私がまた言霊を掛けておくわ。スズは収穫した草を、小夜さんのところへ持っていってくれる?」
分かりました! と、今度も明朗な声で、スズは屋敷の方へと駆けていった。
胸の奥に、なにといえない不安が滴り、溜まる。見ない振りをして、咲も種子を手に屋敷に戻っていった。



