見送って部屋を振り返ると、そのとき丁度扉が開き、風花が顔を出した。
「調停者さまは行かれましたか?」
「はい。陛下とお仕事のお話があるとか」
「そう。なかなかこちらへもいらっしゃれないようだから、この機会に色々と話をされるのでしょうね。大事なことだわ」
そうですね、と頷いて部屋に入ると、授業が始まる。今日は言霊の実践のようだった。水の入った銀の水杯の前に、塩が盛られている。
「言霊を唱えるものは、清らかでなくてはいけないことは、昨日学びましたね。それを、実践してみましょう」
「はい」
咲は塩をひとつまみつまむと、緊張感を持ち指先に取った塩に対して、
「汝を、清めの塩と【役】する」
と発音した。昨日、風花が口伝で教えてくれた通りの作法だ。するとつまんだ塩がきらりと輝いた。まるで塩の結晶が部屋の明かりに反射したかの如くである。
咲を見守る風花が穏やかに微笑みながら頷く。彼女の反応に、塩に対して役割を与えることが出来だのだと知り、咲は儀式を続ける。
清めの塩となったものを水杯の水にぱらぱらと落とす。そしてその器に対し、もう一度言霊の術を試みる。
「汝、清めの塩を得て清水(せいすい)と【役】する」
唱えると今度は水杯の水の表面がきらりと光った。隣を向けば、やはり風花が穏やかに微笑んでいたので、咲はそっと水杯を手に取ると、その水をこくりと飲んだ。
するり、と喉を通っていった水は、単に緊張していた咲の喉を潤しただけではなく、なにか……、そう、体の中を清らかにしたかのように、感覚が研ぎ澄まされていくような感じがした。
「良いですね。初手としては、十分でしょう」
風花からの合格点に、咲は安堵の息を零した。
「ありがとうございます」
「あとは、何度か通ってもらって、技の習熟度を上げていきましょう。何事も経験を積めばうまくなります。焦らず、行いましょうね」
「はい、ありがとうございます」
三日間で朧の名付けに携わるのに必要な基礎修行をやり遂げられて、咲は安心した。そもそもやり方が間違っていたのだから、本来のやり方でやった方が良いと思っていたのだ。
風花が微笑みを深くして、背面の書棚から一冊の書物を持ってくる。……かなり古いものだ。使い込まれた形跡はないが、表紙は経年のせいか、もうぼろぼろである。
「それから、これは調停者さまが是非にと望まれた咲さんだからこそ、覚えてほしいことです」
書物に気を取られていた咲が風花を振り仰ぐと、彼女は眉宇を寄せ、難しい感情を表していた。
「何でしたでしょうか……」
おそるおそる咲が問うと、風花は書物の表紙をじっと見つめ、そして丁寧に表紙を開いた。……書かれた文字は、前の日までに見せて貰った文字とは、少し違うようだった。もっと入り組んでいて、おそらく古い時代の文字である。
「調停者さまは神とあやかしの間におられる方です。あなたはその真名を握っていると伺いました。ですから、あなたにはここに書かれてある『真(まこと)言葉』を覚えてほしいのです。もし万が一のことがあった場合は、あなたがこの『真言葉』で調停者さまを正してください。場合によっては……」
ふっ、と、言葉が途切れる。不安になって書物から顔を上げると、彼女は重々しく口を開いた。
「真名を用いて、彼を葬ることも、厭わないでください」



