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そんな風に穏やかに過ごしていたある日、話があると言って部屋に来た千牙が咲を卓に座らせた。咲の向かいに座った千牙は、懐から銀細工の丸い鏡を取り出した。
「私がおぬしを朧の発生元に逐一連れて行くことが出来ると良いのだが、それが叶わぬ時があるだろう。これは私が狭間を巡察するときに使っていたもので、人妖界の果てまで見渡せる。おぬしがこれで思うところを覗けるようになるには鍛錬が必要だが、私がやり方を教えるから心配することはない」
ぽん、とやさしく頭に手を載せられて、彼の顔をまっすぐに見る。彼も咲を見つめてきており、こんな大切なものを使わせてくれようとする彼の気持ちに応えたいと思った。
「はい、頑張ります」
「それだけではないぞ。おぬしには巫女訓練も受けてもらわねばならぬ」
「はい」
「巫女訓練の為には人界に行く必要がある。おぬしは私の推薦で巫女修行を受けに人界へ行くわけだから、おぬしに似合う着物を探したかった。沢山贈ったのはそういう理由だ」
咲は部屋の箪笥に山としまい込まれた着物の数々を思い出した。なるほど、理由があるなら仕方がない。
「もちろん、私が咲を飾りたい、という気持ちもあったからだが」
今度は、やっぱり~、という顔を、スズがした。しかし、と千牙はいくつかの衣桁に掛けられた着物を見た。
「やはり私は桜紋を贈ってしまっているのだな。選ぶときには出来るだけ多くの色柄を揃えようと心がけたつもりだったが……」
衣桁には空色にしだれ枝の桜花紋、山吹の地に大きな桜紋様を大胆に配置したもの、藤や牡丹などと一緒に華やかに咲く桜を描いた着物も掛けられていた。眺めているだけで綺麗な景色を見ているようで嬉しかったのだが、その用途については聞くことがなかった。
着物はこれ以外のも沢山あり、もう大きな箪笥には収まりきらないのではないかと思っていた。スズが咲の目を楽しませようと日ごとに衣桁に違う着物を掛けてくれていたので、箪笥の肥やしになることはなかったが。
「咲の居住はこの里になったわけだが、人界でなければ巫女に習うことは出来ない。あやかしは力を持つため神々に祈るという事しないからな。そういうわけであちらとこちらを行ったり来たりする必要がある。そこでだ、ハチ」
「はいっ!」
千牙に呼ばれたハチが襖の向こうから顔を出して正座をしたままピシッと背を伸ばした。
「お前に咲の護衛を頼もうと思う」
彼の言葉を聞いて、ハチは目を見開いて歓喜した。目は輝き、頬が紅潮し、大きな口の端が引き上がる。
「はいっ、長! 承りました! 必ずやこのハチ、咲さまをご無事にお守りいたします!」
「スズには人界へ行くときの咲の着衣の見立てを頼もう」
千牙に視線を向けられて、スズもまた、頬を紅潮させた。
「は、はい、長! おにかみの里の使者である咲さまに相応しいよう、お見立ていたします!」
二人の返事を聞いて、千牙は小夜に目を向けた。彼女はそれだけで千牙の言いたいことを理解したように首肯すると、ハチを連れて部屋を出た。それを目で追っていた咲の耳に、次なる千牙の声が届く。
「ではスズ。早速咲に着物を見立ててやってくれ。まずは人界の帝に咲を紹介しておかねばならん」
「はい、承りました、長。人界帝にお会いになるにあたり、咲さまのお召し物に何かご希望はございますか?」
スズの言葉に千牙がじっと咲を見つめた。観察するような視線を受けてじっとしていると、ふ、と口元をほころばせた千牙は、ゆるく首を横に振った。
「いや、私が選ぶと偏るだろう。それでなくても偏っているというのに。スズが咲と相談して決めてほしい。私も支度を調えよう。咲の支度が調ったら知らせてくれ」
「かしこまりました」
スズの言葉を背中に聞きながら、千牙は部屋から出て行った。見送ったスズがにこにことこちらを振り返りながら咲の顔と箪笥の間に視線を移した。
「素直に桜紋にしてくれっておっしゃれば良いのに、長は咲さまにやさしいわ」
「私も、言ってくださったらよかったのにな、と思うわ。でも、言わない千牙さんも、千牙さんらしいと思うの。だって、千牙さんって、里に来たときに私に朧の名付けを依頼したこと以外、なにひとつ私に自分の気持ちを強要してないわ」
着衣一つすら、咲の自由を尊重してくれる千牙を、やさしい人だとそう思う。スズは咲の言葉に頷きながら微笑んだ。
「そうですね。でしたらやはり、長の意向を私たちで汲んで差し上げるのはどうでしょうか」
つやつやな頬を引き上げて、スズが言う。咲も大きく頷いた。



