優しい君と、不器用な俺

 春の朝は、どこか騒がしい。

 校門をくぐる生徒たちは、誰もが少し浮き足立っている。クラス替えの紙を探す視線、名前を見つけて笑う声、ため息。そんなざわめきの中を、黒瀬黎(くろせれい)は一人で通り抜けた。

 興味はない。
 誰と同じクラスでも、どうでもいい。

 白いシャツに黒のブレザー。ネクタイは緩めたまま、片手でスマートフォンを操作する。耳には黒いイヤホン。音楽が流れ始めた瞬間、外の音はすべて遠ざかった。

 ――unravel。

 細く、不安定な声。どこか壊れそうな旋律。

 それだけが、(れい)の世界だった。

***

 教室の扉を開ける。

 ざわめきは見えるのに、聞こえない。
 誰かが笑っている。誰かが名前を呼んでいる。けれど、それはすべてガラス越しのように遠い。

 (れい)は一番後ろ、窓際の席に座った。頬杖をつき、外を見る。校庭の桜は、もう半分ほど散っている。

 ――どうでもいい。
 そう思った瞬間、教室の空気がわずかに動いた。

***

「おはよー」

 明るい声。
 扉のほうを向くと、一人の男子が立っていた。

 同じ制服。きちんと締められたネクタイ。少し柔らかい茶色の髪。誰にでも向けるような自然な笑顔。

 白石陽翔。

 名前を知るのは、もう少し後のことになる。

 彼は迷いなく教室に入り、近くの席の生徒に話しかけた。まるで前から知っていたかのように、距離を詰める。

 笑い声が広がる。

 (れい)は、ほんの一瞬だけ視線を向けて――すぐに逸らした。

 興味はない。

 イヤホンの音量を、少しだけ上げる。

***

黒瀬黎(くろせれい)

 担任の声で、現実が割り込んだ。

 名前を呼ばれ、黎は小さく手を挙げる。イヤホンは外さない。教師は何も言わず、出席を続けた。

「白石陽翔」

「はい」

 はっきりとした返事。
 その声だけ、なぜか音楽の隙間を縫って耳に残った。

***

 ホームルームが終わり、プリントが配られる。

 前の席から回ってくる紙を受け取り、無言で後ろへ流す。その繰り返し。

 ――のはずだった。

「はい、黒瀬」

 声と同時に、視界の端に手が差し出された。

 (れい)は顔を上げる。

 白石陽翔が、そこにいた。

 近い。思ったよりも。

 イヤホン越しに、口の動きだけが見える。

「プリント」

 短く言われ、(れい)は一瞬だけ固まる。
 それから無言で受け取った。

 指が触れるか触れないかの距離。

 それだけで、なぜか意識が引っかかる。

「……」

 言葉は返さない。
 陽翔も、特に気にした様子はなく笑って、次の人に声をかけた。

 ――なんなんだ、あいつ。

 (れい)はそう思いながら、視線を落とした。

***

 次の時間、席替えが行われた。

 くじ引きで決まる、ただの偶然。

 けれど結果は、あまりにも出来すぎていた。

「よろしくな、黒瀬」

 隣の席。
 白石陽翔。

 (れい)は一瞬だけ眉をひそめる。

「……別に」

 短く返す。

 それで終わるはずだった。

「黒瀬ってさ、静かだよな」

 終わらなかった。

 陽翔は、自然な調子で話しかけてくる。

「……そうか?」

「うん。でも、別に嫌な感じじゃない」

 屈託のない言葉。

 普通なら、そこで会話は途切れる。
 けれど陽翔は、間を置かずに続けた。

「俺、白石。よろしく」

 手を差し出すでもなく、ただ笑う。

 距離が近いわけでも、遠いわけでもない。
 その曖昧さが、逆に妙だった。

「……黒瀬」

「知ってる」

 即答。

 黎はわずかに目を細める。

 ――なんで、こんなやつが平気で話しかけてくるんだ。

***

 授業中。

 教師の声が淡々と続く中、(れい)は頬杖をついたままイヤホンを片耳だけ戻す。音楽が、再び世界を覆う。

 けれど、完全には遮断できなかった。

「ここ、こうじゃね?」

 隣からノートを覗き込まれる。

 距離が、近い。

 肩が触れそうで触れない。

 (れい)の手が、ほんのわずかに止まる。

「……見えにくい」

「ごめん」

 そう言いながらも、陽翔は離れない。
 同じノートを見続ける。

 体温が、近い。

 嫌ではない。
 でも、落ち着かない。

 音楽が、少しだけ遠くなる。

***

 昼休み。

 陽翔はすぐに人に囲まれていた。

「白石ってどこ中?」

「サッカーやってたの?」

 笑い声が途切れない。

 誰とでも同じ距離で、同じ温度で話している。

 特別ではない。

 ――誰にでも、ああなのかよ。

 (れい)は窓際で、一人イヤホンをつける。

 音楽に逃げるように。

 けれど、さっきよりも音が遠い気がした。

***

 放課後。

 チャイムが鳴ると同時に、教室はまた騒がしくなる。

「またなー」

「明日部活どうする?」

 そんな声を背に、黎は立ち上がる。

 イヤホンをつける。
 音楽を流す。

 それだけで、世界は静かになるはずだった。

「黒瀬」

 呼び止められる。

 振り返ると、陽翔がいた。

「また明日な」

 ただ、それだけ。

 特別でもなんでもない一言。

「……ああ」

 短く返す。

 それだけで十分なはずなのに。

***

 帰り道。

 夕方の風が、少しだけ冷たい。

 イヤホンから流れる音は、変わらない。
 同じ曲。同じ声。

 なのに――

 さっきまでと、少しだけ違って聞こえる。

 (れい)は歩きながら、ふと空を見上げた。

 薄く伸びる雲。

 その先に、何かがあるような気がして。

「……なんなんだ、あいつ」

 小さく呟く。

 答えは、まだない。

 ただひとつ確かなのは。

 ――もう、無関係ではいられない。