あなたが最後に見た景色

 路地裏を離れるまで、雨は止まなかった。

 細い雨粒が傘の表面を叩き、足元のアスファルトに小さな波紋を作っている。規制線の向こうでは、鑑識たちが黙々と作業を続けていた。誰も大きな声を出さない。誰も騒がない。

 人が一人、そこで見つかったというのに。

 まるで、この光景が初めてではないかのようだった。

「もう戻った方がいい」

 神代が言った。

 あなたは答えず、もう一度だけ路地の奥を見た。

 青いシートの下に隠された人。
 手に書かれた数字。
 4。

 その数字を見た瞬間に聞こえた声が、まだ頭の奥に残っている。

 第四実験、開始。

 実験。

 どうして、そんな言葉が浮かんだのか分からない。

 雨宮が近づいてきた。

「少し待って」

 神代の眉がわずかに動く。

「この人はもう限界です」

「判断するのはあなたじゃない」

「あなたでもありません」

 二人の声は低かった。

 けれど、互いに一歩も引かない硬さがあった。

 雨宮はあなたを見た。

「さっき、第四と言ったね」

「……声が聞こえた気がしたんです」

「誰の声?」

「分かりません」

「男? 女?」

 答えようとした瞬間、頭痛が走る。

 白い光。
 冷たい椅子。
 数字を読み上げる声。

 喉の奥が詰まる。

「分からない……でも、知ってる気がします」

 雨宮の目が鋭くなる。

「何を?」

「4は、四人目じゃない」

 言った瞬間、自分でも息を呑んだ。

 なぜ分かるのか。

 分からない。

 けれど、それだけは確かだった。

 4は人数ではない。

 もっと別の意味。

 番号。

 分類。

 実験。

 神代の手が、あなたの肩に触れた。

「もう十分です」

 雨宮は神代を睨んだ。

「あなた、何を知っているんですか」

「何も」

「嘘」

 短い一言だった。

 雨音の中でも、はっきり聞こえた。

 神代は笑わなかった。

 雨宮も、それ以上は言わなかった。

 けれど、その一言が二人の間に深く刺さったのは分かった。

 帰りの車内は、重い沈黙に包まれていた。

 窓ガラスを流れる雨粒が、街灯の光を歪ませている。ワイパーが何度も視界を拭うたび、路地裏の光景が頭の中で繰り返された。

 手に書かれた4。

 白い部屋の写真。

 黒いコートの男。

 そして、神代の声。

 見ない方がいい。

 触らないでください。

 戻りましょう。

「神代さん」

「はい」

「あの人、私と関係ありますか」

 神代はハンドルを握ったまま、前を見ていた。

「ありません」

 早すぎる答えだった。

 考える間もなかった。

 その早さが、嘘に聞こえた。

「本当に?」

「ええ」

「じゃあ、どうして私はあの数字を見て、声を聞いたんですか」

「記憶が混乱しているからです」

「全部それで片づけるんですね」

 神代は何も言わない。

 あなたは窓の外を見た。

 雨で滲む街並みの向こうに、さっきの黒いコートの男が立っているような気がした。

 でも、瞬きをすると消えていた。

 施設へ戻る頃には、雨は小降りになっていた。

 高いフェンス。
 監視カメラ。
 無言で開く門。

 外へ出たことで自由に近づいたはずなのに、戻ってきた瞬間、ここが檻なのだと強く感じた。

 玄関で職員たちがこちらを見た。

 誰も何も言わない。

 けれど、その目は知っていた。

 路地裏のことを。
 数字のことを。
 あなたが見たものを。

 部屋に戻ると、神代は薬を置いた。

「今日は飲んでください」

「飲まないとどうなりますか」

「眠れません」

「眠ったら、何か忘れますか」

 神代の手が止まった。

 ほんの一瞬。

 それだけで十分だった。

「忘れるための薬ではありません」

「じゃあ、思い出さないための薬?」

 神代はあなたを見た。

 その表情には、いつもの微笑みがなかった。

「あなたは、思い出すことを望んでいるんですか」

「当たり前です」

「たとえ、今のあなたが壊れても?」

 部屋の空気が凍る。

 神代の声は静かだった。
 でも、その静けさの奥に、初めて怒りに似たものが見えた。

「壊れるって、どういう意味ですか」

 神代は答えなかった。

 薬だけを机に置き、扉へ向かう。

「休んでください」

 扉が閉まる。

 今度も鍵の音はしなかった。

 けれど、あなたは確信していた。

 この部屋は開いていても、自由ではない。

 机の上に置かれた薬を見つめる。

 白い錠剤。

 飲まなかった。

 ベッドに横になっても、目を閉じることが怖かった。

 けれど、疲労は体の奥からじわじわ広がり、いつの間にか意識を沈めていく。

 夢を見た。

 白い部屋だった。

 けれど、最初に目覚めた部屋とは少し違う。

 椅子が四つ並んでいる。

 白い椅子。

 その背もたれに、黒い数字が書かれていた。

 1。

 2。

 3。

 4。

 どの椅子にも、人はいない。

 けれど、座っていた跡だけが残っている。

 机の上には、紙が四枚。

 すべて裏返されていた。

 奥の壁に、曇った鏡がある。

 鏡の向こうから、誰かが見ている。

 声がした。

「第四実験、終了」

 別の声が続く。

「第五を連れてこい」

 その瞬間、四つの椅子が一斉にこちらを向いた。

 違う。

 椅子が動いたのではない。

 部屋が回った。

 世界の中心が、あなたへ向いた。

 鏡に文字が浮かぶ。

 君は――

 そこで目が覚めた。

 息が荒い。

 部屋は暗い。

 時計は午前三時を少し過ぎている。

 汗で服が背中に張りついていた。

 夢の中の声が、まだ耳元に残っている。

 第五を連れてこい。

 手が震える。

 机を見る。

 そこに、なかったはずの紙が置かれていた。

 白い紙。

 二つ折り。

 あなたはゆっくりと手を伸ばす。

 開く。

 そこには、黒い文字で書かれていた。

 君は5番だ。

 その文字を見た瞬間、呼吸の仕方を忘れた。

 紙は、さっきまで机の上になかったはずだった。眠る前、確かに何もなかった。薬とコップだけが置かれていた。その薬だって、飲まずにそのまま残していた。

 なのに、今は紙がある。

 誰かが部屋に入った。

 自分が眠っている間に。

 胸の奥が冷たく沈んでいく。

 この部屋は安全ではない。

 神代は安全だと言った。
 ここにいる方が外より安全だと言った。

 でも、誰かは自由に入ってこられる。

 紙を握りしめ、あなたはベッドから降りた。

 扉へ向かう。

 鍵はかかっていなかった。

 廊下は暗い。非常灯の赤い光だけが、床を細長く染めている。

 右を見ても、左を見ても、誰もいない。

 けれど、どこかで誰かが見ている気がした。

「誰かいるんですか」

 声は小さく廊下へ落ちた。

 返事はない。

 代わりに、遠くで何かが鳴った。

 かちり。

 鍵の音に似ていた。

 あなたは紙を握ったまま、神代の部屋を探そうと歩き出した。

 この建物の構造はまだ分からない。けれど、神代はいつも近くにいると言っていた。なら、本当に近くにいるはずだった。

 角を曲がる。

 昼間見た赤い染みの場所を通り過ぎる。

 そこにはもう、文字はなかった。

 まだある。

 あの言葉は消えている。

 けれど、今なら分かる。

 まだあるのは、染みではない。

 事件でもない。

 実験だ。

 第四実験。
 第五。

 その二つの言葉が、頭の中で繋がりかける。

 その瞬間、背後から声がした。

「どこへ行くつもりですか」

 神代だった。

 振り返る。

 彼は廊下の奥に立っていた。眠っていた様子はない。服も、髪も、表情も、いつもと同じように整っている。

 まるで、あなたが部屋を出るのを待っていたみたいに。

「これ」

 あなたは紙を差し出した。

 神代は近づいてくる。

 紙を見た瞬間、彼の表情がほんの少しだけ変わった。

 驚きではない。

 焦りでもない。

 もっと静かな、苦い感情。

「誰が置いたんですか」

「分かりません」

「嘘です」

 言葉が、思ったより強く出た。

 神代は紙からあなたへ視線を移す。

「なぜそう思うんですか」

「神代さんは、いつも分からないふりをするから」

 廊下の赤い光が、彼の横顔を暗く照らしていた。

「白い部屋も、赤い染みも、四階も、路地裏の人も、全部知ってるのに、知らないふりをしてる」

「あなたのためです」

「それ、もう聞き飽きました」

 神代は黙った。

 その沈黙の中で、廊下の奥の機械音だけが低く響いている。

「私は5番なんですか」

 声が震えた。

「4番の次だから?」

「違います」

 神代は即答した。

「じゃあ、何が違うんですか」

「その数字に、意味を与えてはいけない」

「意味はもうあります」

 あなたは紙を握りしめる。

「私は聞きました。第四実験って。夢でも見ました。椅子が四つあって、誰かが第五を連れてこいって言った」

 神代の目が揺れる。

 今度は、はっきりと。

「それ以上、思い出してはいけない」

「どうして?」

「あなたが壊れるからです」

「壊れるって何ですか!」

 廊下に声が反響した。

 自分の声なのに、どこか知らない人の叫びのように聞こえた。

「私はもう壊れてます。名前も分からない。顔も見えない。誰も本当のことを言わない。警察には被害者じゃないって言われる。紙には5番だって書かれる」

 息が苦しい。

「これ以上、何が壊れるんですか」

 神代は答えなかった。

 答えられないのか、答えたくないのか分からない。

 やがて彼は、静かに言った。

「部屋へ戻りましょう」

「嫌です」

「お願いです」

「嫌です」

 あなたは一歩、後ずさった。

「雨宮刑事に連絡します」

 神代の表情が変わった。

 それは本当に一瞬だった。
 けれど、その一瞬で分かった。

 神代は、それを一番避けたい。

「やめた方がいい」

「どうして」

「彼女はあなたを利用します」

「神代さんは?」

 神代は黙る。

「神代さんは、私を利用してないんですか」

 廊下が静まり返る。

 その沈黙の中で、遠くのどこかから水滴の落ちる音がした。

 ぽたり。

 ぽたり。

 神代は、ひどく疲れたように目を伏せた。

「私は、あなたを救いたい」

「何から?」

「あなた自身から」

 その言葉に、胸の奥がざらりと音を立てた。

 自分自身から救う。

 それはつまり、自分が危険だということなのか。

 雨宮の言葉が蘇る。

 君は被害者ではない。

 あなたは紙を抱え、神代の横をすり抜けようとした。

 その瞬間、彼が腕を掴んだ。

 強くはない。

 けれど、逃がさない力だった。

「離してください」

「今、外へ出るのは危険です」

「神代さんが一番危険に見えます」

 神代の手から、少しだけ力が抜けた。

 あなたはその隙に腕を引き抜き、廊下を走った。

 部屋へは戻らない。

 行くべき場所は一つしかなかった。

 公衆電話でも、職員室でもいい。

 とにかく外部へ連絡できる場所。

 雨宮に電話する。

 真実を知っているかもしれない、あの刑事に。

 廊下の角を曲がると、昨日の待合室が見えた。

 低いテーブル。
 古い新聞。
 壁際の椅子。

 そこに、電話があった。

 古い固定電話。

 あなたは受話器を取る。

 ツー、という音が聞こえた。

 つながる。

 雨宮から渡された紙を取り出し、震える指で番号を押す。

 一つ。
 二つ。
 三つ。

 最後の数字を押そうとした瞬間、受話器から声がした。

 まだ、かけるな。

 指が止まる。

 雨宮の声ではない。

 神代でもない。

 もっと近い。

 自分の内側から聞こえたような声。

 受話器を耳から離す。

 電話は、つながっていない。

 ただの発信音。

 それなのに、確かに声がした。

 まだ、かけるな。

 なぜ。

 そう思った瞬間、待合室のテーブルに置かれた新聞が目に入った。

 昨日も見た、古い新聞。

 切り抜かれた記事。

 あなたは受話器を置き、新聞へ手を伸ばした。

 手が勝手に動いた。

 何かを探している。

 新聞をめくる。

 日付は一年前。

 地域欄。

 小さな記事。

 その一部が、今度は切り取られていなかった。

 雨に濡れた路地裏。
 身元不明の人物。
 手に数字。

 そこまでは読めた。

 でも、次の行を見た瞬間、全身が凍った。

 第一実験体、発見。

 文字が、そう読めた気がした。

 瞬きをする。

 記事は普通の文章に戻っている。

 「第一発見者」という文字だった。

 第一発見者。

 でも、今の一瞬。

 確かに、第一実験体と読めた。

 頭が痛む。

 新聞の紙面が揺れる。

 その下に、別の新聞があった。

 日付が違う。

 また、数字。

 2。

 さらに別の日付。

 3。

 そして今日。

 4。

 すべての記事の端に、小さな数字がある。

 新聞社がつけた整理番号にも見える。

 けれど、違う。

 これは事件の記事ではない。

 記録だ。

 誰かが、数字順に並べている。

「見つけてしまいましたか」

 背後から神代の声がした。

 あなたはゆっくり振り返る。

 神代は待合室の入口に立っていた。

 追ってきたはずなのに、息一つ乱れていない。

「これは何ですか」

 新聞を握りしめる。

「連続事件ですか」

 神代は答えない。

「それとも、実験の記録ですか」

 その言葉に、神代の表情から温度が消えた。

 初めてだった。

 彼の顔から、完全に微笑みが消えたのは。

「今日は、もう休みましょう」

「答えてください」

「今のあなたには、まだ早い」

「早いって、いつならいいんですか」

 神代は一歩、近づく。

 そのとき、待合室の照明が一度だけ明滅した。

 ちかり。

 消えて。

 戻る。

 テーブルの新聞の上に、一枚の写真が置かれていた。

 さっきまでなかった。

 白い部屋。

 四つの椅子。

 そして、その手前にもう一脚。

 五つ目の椅子。

 背もたれには、黒い数字が書かれている。

 5。

 神代が低く言った。

「見ないでください」

 もう遅かった。

 あなたは見てしまった。

 写真の隅に、小さな文字がある。

 被験者5、記憶誘導開始。

 その瞬間、頭の奥で誰かが笑った。

 優しい声だった。

 どこかで聞いた声。

 神代の声に似ている。

 けれど、少し違う。

 ――ようやく、始まった。

 視界が白く染まる。

 倒れる直前、神代があなたを支えた。

 今度は、逃げる力も残っていなかった。

 耳元で、神代が囁く。

「だから、まだ早いと言ったのに」

 その声は悲しそうだった。

 けれど、どこか安心しているようにも聞こえた。

 意識が沈む直前、あなたは新聞の見出しを見た。

 そこには、昨日まで切り取られていたはずの言葉が、はっきりと残っていた。

 連続記憶喪失事件。

 被害者たちは、なぜ笑っていたのか。

 そして、その下に小さく印刷された数字。

 No.5

 あなたは最後に、白い部屋を思い出した。

 椅子が五つ。

 そのうち一つには、誰かが座っている。

 顔は見えない。

 けれど、分かる。

 あれは、自分だ。

 君は5番だ。

 その言葉が、暗闇の中で何度も繰り返された。