路地裏を離れるまで、雨は止まなかった。
細い雨粒が傘の表面を叩き、足元のアスファルトに小さな波紋を作っている。規制線の向こうでは、鑑識たちが黙々と作業を続けていた。誰も大きな声を出さない。誰も騒がない。
人が一人、そこで見つかったというのに。
まるで、この光景が初めてではないかのようだった。
「もう戻った方がいい」
神代が言った。
あなたは答えず、もう一度だけ路地の奥を見た。
青いシートの下に隠された人。
手に書かれた数字。
4。
その数字を見た瞬間に聞こえた声が、まだ頭の奥に残っている。
第四実験、開始。
実験。
どうして、そんな言葉が浮かんだのか分からない。
雨宮が近づいてきた。
「少し待って」
神代の眉がわずかに動く。
「この人はもう限界です」
「判断するのはあなたじゃない」
「あなたでもありません」
二人の声は低かった。
けれど、互いに一歩も引かない硬さがあった。
雨宮はあなたを見た。
「さっき、第四と言ったね」
「……声が聞こえた気がしたんです」
「誰の声?」
「分かりません」
「男? 女?」
答えようとした瞬間、頭痛が走る。
白い光。
冷たい椅子。
数字を読み上げる声。
喉の奥が詰まる。
「分からない……でも、知ってる気がします」
雨宮の目が鋭くなる。
「何を?」
「4は、四人目じゃない」
言った瞬間、自分でも息を呑んだ。
なぜ分かるのか。
分からない。
けれど、それだけは確かだった。
4は人数ではない。
もっと別の意味。
番号。
分類。
実験。
神代の手が、あなたの肩に触れた。
「もう十分です」
雨宮は神代を睨んだ。
「あなた、何を知っているんですか」
「何も」
「嘘」
短い一言だった。
雨音の中でも、はっきり聞こえた。
神代は笑わなかった。
雨宮も、それ以上は言わなかった。
けれど、その一言が二人の間に深く刺さったのは分かった。
帰りの車内は、重い沈黙に包まれていた。
窓ガラスを流れる雨粒が、街灯の光を歪ませている。ワイパーが何度も視界を拭うたび、路地裏の光景が頭の中で繰り返された。
手に書かれた4。
白い部屋の写真。
黒いコートの男。
そして、神代の声。
見ない方がいい。
触らないでください。
戻りましょう。
「神代さん」
「はい」
「あの人、私と関係ありますか」
神代はハンドルを握ったまま、前を見ていた。
「ありません」
早すぎる答えだった。
考える間もなかった。
その早さが、嘘に聞こえた。
「本当に?」
「ええ」
「じゃあ、どうして私はあの数字を見て、声を聞いたんですか」
「記憶が混乱しているからです」
「全部それで片づけるんですね」
神代は何も言わない。
あなたは窓の外を見た。
雨で滲む街並みの向こうに、さっきの黒いコートの男が立っているような気がした。
でも、瞬きをすると消えていた。
施設へ戻る頃には、雨は小降りになっていた。
高いフェンス。
監視カメラ。
無言で開く門。
外へ出たことで自由に近づいたはずなのに、戻ってきた瞬間、ここが檻なのだと強く感じた。
玄関で職員たちがこちらを見た。
誰も何も言わない。
けれど、その目は知っていた。
路地裏のことを。
数字のことを。
あなたが見たものを。
部屋に戻ると、神代は薬を置いた。
「今日は飲んでください」
「飲まないとどうなりますか」
「眠れません」
「眠ったら、何か忘れますか」
神代の手が止まった。
ほんの一瞬。
それだけで十分だった。
「忘れるための薬ではありません」
「じゃあ、思い出さないための薬?」
神代はあなたを見た。
その表情には、いつもの微笑みがなかった。
「あなたは、思い出すことを望んでいるんですか」
「当たり前です」
「たとえ、今のあなたが壊れても?」
部屋の空気が凍る。
神代の声は静かだった。
でも、その静けさの奥に、初めて怒りに似たものが見えた。
「壊れるって、どういう意味ですか」
神代は答えなかった。
薬だけを机に置き、扉へ向かう。
「休んでください」
扉が閉まる。
今度も鍵の音はしなかった。
けれど、あなたは確信していた。
この部屋は開いていても、自由ではない。
机の上に置かれた薬を見つめる。
白い錠剤。
飲まなかった。
ベッドに横になっても、目を閉じることが怖かった。
けれど、疲労は体の奥からじわじわ広がり、いつの間にか意識を沈めていく。
夢を見た。
白い部屋だった。
けれど、最初に目覚めた部屋とは少し違う。
椅子が四つ並んでいる。
白い椅子。
その背もたれに、黒い数字が書かれていた。
1。
2。
3。
4。
どの椅子にも、人はいない。
けれど、座っていた跡だけが残っている。
机の上には、紙が四枚。
すべて裏返されていた。
奥の壁に、曇った鏡がある。
鏡の向こうから、誰かが見ている。
声がした。
「第四実験、終了」
別の声が続く。
「第五を連れてこい」
その瞬間、四つの椅子が一斉にこちらを向いた。
違う。
椅子が動いたのではない。
部屋が回った。
世界の中心が、あなたへ向いた。
鏡に文字が浮かぶ。
君は――
そこで目が覚めた。
息が荒い。
部屋は暗い。
時計は午前三時を少し過ぎている。
汗で服が背中に張りついていた。
夢の中の声が、まだ耳元に残っている。
第五を連れてこい。
手が震える。
机を見る。
そこに、なかったはずの紙が置かれていた。
白い紙。
二つ折り。
あなたはゆっくりと手を伸ばす。
開く。
そこには、黒い文字で書かれていた。
君は5番だ。
その文字を見た瞬間、呼吸の仕方を忘れた。
紙は、さっきまで机の上になかったはずだった。眠る前、確かに何もなかった。薬とコップだけが置かれていた。その薬だって、飲まずにそのまま残していた。
なのに、今は紙がある。
誰かが部屋に入った。
自分が眠っている間に。
胸の奥が冷たく沈んでいく。
この部屋は安全ではない。
神代は安全だと言った。
ここにいる方が外より安全だと言った。
でも、誰かは自由に入ってこられる。
紙を握りしめ、あなたはベッドから降りた。
扉へ向かう。
鍵はかかっていなかった。
廊下は暗い。非常灯の赤い光だけが、床を細長く染めている。
右を見ても、左を見ても、誰もいない。
けれど、どこかで誰かが見ている気がした。
「誰かいるんですか」
声は小さく廊下へ落ちた。
返事はない。
代わりに、遠くで何かが鳴った。
かちり。
鍵の音に似ていた。
あなたは紙を握ったまま、神代の部屋を探そうと歩き出した。
この建物の構造はまだ分からない。けれど、神代はいつも近くにいると言っていた。なら、本当に近くにいるはずだった。
角を曲がる。
昼間見た赤い染みの場所を通り過ぎる。
そこにはもう、文字はなかった。
まだある。
あの言葉は消えている。
けれど、今なら分かる。
まだあるのは、染みではない。
事件でもない。
実験だ。
第四実験。
第五。
その二つの言葉が、頭の中で繋がりかける。
その瞬間、背後から声がした。
「どこへ行くつもりですか」
神代だった。
振り返る。
彼は廊下の奥に立っていた。眠っていた様子はない。服も、髪も、表情も、いつもと同じように整っている。
まるで、あなたが部屋を出るのを待っていたみたいに。
「これ」
あなたは紙を差し出した。
神代は近づいてくる。
紙を見た瞬間、彼の表情がほんの少しだけ変わった。
驚きではない。
焦りでもない。
もっと静かな、苦い感情。
「誰が置いたんですか」
「分かりません」
「嘘です」
言葉が、思ったより強く出た。
神代は紙からあなたへ視線を移す。
「なぜそう思うんですか」
「神代さんは、いつも分からないふりをするから」
廊下の赤い光が、彼の横顔を暗く照らしていた。
「白い部屋も、赤い染みも、四階も、路地裏の人も、全部知ってるのに、知らないふりをしてる」
「あなたのためです」
「それ、もう聞き飽きました」
神代は黙った。
その沈黙の中で、廊下の奥の機械音だけが低く響いている。
「私は5番なんですか」
声が震えた。
「4番の次だから?」
「違います」
神代は即答した。
「じゃあ、何が違うんですか」
「その数字に、意味を与えてはいけない」
「意味はもうあります」
あなたは紙を握りしめる。
「私は聞きました。第四実験って。夢でも見ました。椅子が四つあって、誰かが第五を連れてこいって言った」
神代の目が揺れる。
今度は、はっきりと。
「それ以上、思い出してはいけない」
「どうして?」
「あなたが壊れるからです」
「壊れるって何ですか!」
廊下に声が反響した。
自分の声なのに、どこか知らない人の叫びのように聞こえた。
「私はもう壊れてます。名前も分からない。顔も見えない。誰も本当のことを言わない。警察には被害者じゃないって言われる。紙には5番だって書かれる」
息が苦しい。
「これ以上、何が壊れるんですか」
神代は答えなかった。
答えられないのか、答えたくないのか分からない。
やがて彼は、静かに言った。
「部屋へ戻りましょう」
「嫌です」
「お願いです」
「嫌です」
あなたは一歩、後ずさった。
「雨宮刑事に連絡します」
神代の表情が変わった。
それは本当に一瞬だった。
けれど、その一瞬で分かった。
神代は、それを一番避けたい。
「やめた方がいい」
「どうして」
「彼女はあなたを利用します」
「神代さんは?」
神代は黙る。
「神代さんは、私を利用してないんですか」
廊下が静まり返る。
その沈黙の中で、遠くのどこかから水滴の落ちる音がした。
ぽたり。
ぽたり。
神代は、ひどく疲れたように目を伏せた。
「私は、あなたを救いたい」
「何から?」
「あなた自身から」
その言葉に、胸の奥がざらりと音を立てた。
自分自身から救う。
それはつまり、自分が危険だということなのか。
雨宮の言葉が蘇る。
君は被害者ではない。
あなたは紙を抱え、神代の横をすり抜けようとした。
その瞬間、彼が腕を掴んだ。
強くはない。
けれど、逃がさない力だった。
「離してください」
「今、外へ出るのは危険です」
「神代さんが一番危険に見えます」
神代の手から、少しだけ力が抜けた。
あなたはその隙に腕を引き抜き、廊下を走った。
部屋へは戻らない。
行くべき場所は一つしかなかった。
公衆電話でも、職員室でもいい。
とにかく外部へ連絡できる場所。
雨宮に電話する。
真実を知っているかもしれない、あの刑事に。
廊下の角を曲がると、昨日の待合室が見えた。
低いテーブル。
古い新聞。
壁際の椅子。
そこに、電話があった。
古い固定電話。
あなたは受話器を取る。
ツー、という音が聞こえた。
つながる。
雨宮から渡された紙を取り出し、震える指で番号を押す。
一つ。
二つ。
三つ。
最後の数字を押そうとした瞬間、受話器から声がした。
まだ、かけるな。
指が止まる。
雨宮の声ではない。
神代でもない。
もっと近い。
自分の内側から聞こえたような声。
受話器を耳から離す。
電話は、つながっていない。
ただの発信音。
それなのに、確かに声がした。
まだ、かけるな。
なぜ。
そう思った瞬間、待合室のテーブルに置かれた新聞が目に入った。
昨日も見た、古い新聞。
切り抜かれた記事。
あなたは受話器を置き、新聞へ手を伸ばした。
手が勝手に動いた。
何かを探している。
新聞をめくる。
日付は一年前。
地域欄。
小さな記事。
その一部が、今度は切り取られていなかった。
雨に濡れた路地裏。
身元不明の人物。
手に数字。
そこまでは読めた。
でも、次の行を見た瞬間、全身が凍った。
第一実験体、発見。
文字が、そう読めた気がした。
瞬きをする。
記事は普通の文章に戻っている。
「第一発見者」という文字だった。
第一発見者。
でも、今の一瞬。
確かに、第一実験体と読めた。
頭が痛む。
新聞の紙面が揺れる。
その下に、別の新聞があった。
日付が違う。
また、数字。
2。
さらに別の日付。
3。
そして今日。
4。

すべての記事の端に、小さな数字がある。
新聞社がつけた整理番号にも見える。
けれど、違う。
これは事件の記事ではない。
記録だ。
誰かが、数字順に並べている。
「見つけてしまいましたか」
背後から神代の声がした。
あなたはゆっくり振り返る。
神代は待合室の入口に立っていた。
追ってきたはずなのに、息一つ乱れていない。
「これは何ですか」
新聞を握りしめる。
「連続事件ですか」
神代は答えない。
「それとも、実験の記録ですか」
その言葉に、神代の表情から温度が消えた。
初めてだった。
彼の顔から、完全に微笑みが消えたのは。
「今日は、もう休みましょう」
「答えてください」
「今のあなたには、まだ早い」
「早いって、いつならいいんですか」
神代は一歩、近づく。
そのとき、待合室の照明が一度だけ明滅した。
ちかり。
消えて。
戻る。
テーブルの新聞の上に、一枚の写真が置かれていた。
さっきまでなかった。
白い部屋。
四つの椅子。
そして、その手前にもう一脚。
五つ目の椅子。
背もたれには、黒い数字が書かれている。
5。
神代が低く言った。
「見ないでください」
もう遅かった。
あなたは見てしまった。
写真の隅に、小さな文字がある。
被験者5、記憶誘導開始。
その瞬間、頭の奥で誰かが笑った。
優しい声だった。
どこかで聞いた声。
神代の声に似ている。
けれど、少し違う。
――ようやく、始まった。
視界が白く染まる。
倒れる直前、神代があなたを支えた。
今度は、逃げる力も残っていなかった。
耳元で、神代が囁く。
「だから、まだ早いと言ったのに」
その声は悲しそうだった。
けれど、どこか安心しているようにも聞こえた。
意識が沈む直前、あなたは新聞の見出しを見た。
そこには、昨日まで切り取られていたはずの言葉が、はっきりと残っていた。
連続記憶喪失事件。
被害者たちは、なぜ笑っていたのか。
そして、その下に小さく印刷された数字。
No.5
あなたは最後に、白い部屋を思い出した。
椅子が五つ。
そのうち一つには、誰かが座っている。
顔は見えない。
けれど、分かる。
あれは、自分だ。
君は5番だ。
その言葉が、暗闇の中で何度も繰り返された。
細い雨粒が傘の表面を叩き、足元のアスファルトに小さな波紋を作っている。規制線の向こうでは、鑑識たちが黙々と作業を続けていた。誰も大きな声を出さない。誰も騒がない。
人が一人、そこで見つかったというのに。
まるで、この光景が初めてではないかのようだった。
「もう戻った方がいい」
神代が言った。
あなたは答えず、もう一度だけ路地の奥を見た。
青いシートの下に隠された人。
手に書かれた数字。
4。
その数字を見た瞬間に聞こえた声が、まだ頭の奥に残っている。
第四実験、開始。
実験。
どうして、そんな言葉が浮かんだのか分からない。
雨宮が近づいてきた。
「少し待って」
神代の眉がわずかに動く。
「この人はもう限界です」
「判断するのはあなたじゃない」
「あなたでもありません」
二人の声は低かった。
けれど、互いに一歩も引かない硬さがあった。
雨宮はあなたを見た。
「さっき、第四と言ったね」
「……声が聞こえた気がしたんです」
「誰の声?」
「分かりません」
「男? 女?」
答えようとした瞬間、頭痛が走る。
白い光。
冷たい椅子。
数字を読み上げる声。
喉の奥が詰まる。
「分からない……でも、知ってる気がします」
雨宮の目が鋭くなる。
「何を?」
「4は、四人目じゃない」
言った瞬間、自分でも息を呑んだ。
なぜ分かるのか。
分からない。
けれど、それだけは確かだった。
4は人数ではない。
もっと別の意味。
番号。
分類。
実験。
神代の手が、あなたの肩に触れた。
「もう十分です」
雨宮は神代を睨んだ。
「あなた、何を知っているんですか」
「何も」
「嘘」
短い一言だった。
雨音の中でも、はっきり聞こえた。
神代は笑わなかった。
雨宮も、それ以上は言わなかった。
けれど、その一言が二人の間に深く刺さったのは分かった。
帰りの車内は、重い沈黙に包まれていた。
窓ガラスを流れる雨粒が、街灯の光を歪ませている。ワイパーが何度も視界を拭うたび、路地裏の光景が頭の中で繰り返された。
手に書かれた4。
白い部屋の写真。
黒いコートの男。
そして、神代の声。
見ない方がいい。
触らないでください。
戻りましょう。
「神代さん」
「はい」
「あの人、私と関係ありますか」
神代はハンドルを握ったまま、前を見ていた。
「ありません」
早すぎる答えだった。
考える間もなかった。
その早さが、嘘に聞こえた。
「本当に?」
「ええ」
「じゃあ、どうして私はあの数字を見て、声を聞いたんですか」
「記憶が混乱しているからです」
「全部それで片づけるんですね」
神代は何も言わない。
あなたは窓の外を見た。
雨で滲む街並みの向こうに、さっきの黒いコートの男が立っているような気がした。
でも、瞬きをすると消えていた。
施設へ戻る頃には、雨は小降りになっていた。
高いフェンス。
監視カメラ。
無言で開く門。
外へ出たことで自由に近づいたはずなのに、戻ってきた瞬間、ここが檻なのだと強く感じた。
玄関で職員たちがこちらを見た。
誰も何も言わない。
けれど、その目は知っていた。
路地裏のことを。
数字のことを。
あなたが見たものを。
部屋に戻ると、神代は薬を置いた。
「今日は飲んでください」
「飲まないとどうなりますか」
「眠れません」
「眠ったら、何か忘れますか」
神代の手が止まった。
ほんの一瞬。
それだけで十分だった。
「忘れるための薬ではありません」
「じゃあ、思い出さないための薬?」
神代はあなたを見た。
その表情には、いつもの微笑みがなかった。
「あなたは、思い出すことを望んでいるんですか」
「当たり前です」
「たとえ、今のあなたが壊れても?」
部屋の空気が凍る。
神代の声は静かだった。
でも、その静けさの奥に、初めて怒りに似たものが見えた。
「壊れるって、どういう意味ですか」
神代は答えなかった。
薬だけを机に置き、扉へ向かう。
「休んでください」
扉が閉まる。
今度も鍵の音はしなかった。
けれど、あなたは確信していた。
この部屋は開いていても、自由ではない。
机の上に置かれた薬を見つめる。
白い錠剤。
飲まなかった。
ベッドに横になっても、目を閉じることが怖かった。
けれど、疲労は体の奥からじわじわ広がり、いつの間にか意識を沈めていく。
夢を見た。
白い部屋だった。
けれど、最初に目覚めた部屋とは少し違う。
椅子が四つ並んでいる。
白い椅子。
その背もたれに、黒い数字が書かれていた。
1。
2。
3。
4。
どの椅子にも、人はいない。
けれど、座っていた跡だけが残っている。
机の上には、紙が四枚。
すべて裏返されていた。
奥の壁に、曇った鏡がある。
鏡の向こうから、誰かが見ている。
声がした。
「第四実験、終了」
別の声が続く。
「第五を連れてこい」
その瞬間、四つの椅子が一斉にこちらを向いた。
違う。
椅子が動いたのではない。
部屋が回った。
世界の中心が、あなたへ向いた。
鏡に文字が浮かぶ。
君は――
そこで目が覚めた。
息が荒い。
部屋は暗い。
時計は午前三時を少し過ぎている。
汗で服が背中に張りついていた。
夢の中の声が、まだ耳元に残っている。
第五を連れてこい。
手が震える。
机を見る。
そこに、なかったはずの紙が置かれていた。
白い紙。
二つ折り。
あなたはゆっくりと手を伸ばす。
開く。
そこには、黒い文字で書かれていた。
君は5番だ。
その文字を見た瞬間、呼吸の仕方を忘れた。
紙は、さっきまで机の上になかったはずだった。眠る前、確かに何もなかった。薬とコップだけが置かれていた。その薬だって、飲まずにそのまま残していた。
なのに、今は紙がある。
誰かが部屋に入った。
自分が眠っている間に。
胸の奥が冷たく沈んでいく。
この部屋は安全ではない。
神代は安全だと言った。
ここにいる方が外より安全だと言った。
でも、誰かは自由に入ってこられる。
紙を握りしめ、あなたはベッドから降りた。
扉へ向かう。
鍵はかかっていなかった。
廊下は暗い。非常灯の赤い光だけが、床を細長く染めている。
右を見ても、左を見ても、誰もいない。
けれど、どこかで誰かが見ている気がした。
「誰かいるんですか」
声は小さく廊下へ落ちた。
返事はない。
代わりに、遠くで何かが鳴った。
かちり。
鍵の音に似ていた。
あなたは紙を握ったまま、神代の部屋を探そうと歩き出した。
この建物の構造はまだ分からない。けれど、神代はいつも近くにいると言っていた。なら、本当に近くにいるはずだった。
角を曲がる。
昼間見た赤い染みの場所を通り過ぎる。
そこにはもう、文字はなかった。
まだある。
あの言葉は消えている。
けれど、今なら分かる。
まだあるのは、染みではない。
事件でもない。
実験だ。
第四実験。
第五。
その二つの言葉が、頭の中で繋がりかける。
その瞬間、背後から声がした。
「どこへ行くつもりですか」
神代だった。
振り返る。
彼は廊下の奥に立っていた。眠っていた様子はない。服も、髪も、表情も、いつもと同じように整っている。
まるで、あなたが部屋を出るのを待っていたみたいに。
「これ」
あなたは紙を差し出した。
神代は近づいてくる。
紙を見た瞬間、彼の表情がほんの少しだけ変わった。
驚きではない。
焦りでもない。
もっと静かな、苦い感情。
「誰が置いたんですか」
「分かりません」
「嘘です」
言葉が、思ったより強く出た。
神代は紙からあなたへ視線を移す。
「なぜそう思うんですか」
「神代さんは、いつも分からないふりをするから」
廊下の赤い光が、彼の横顔を暗く照らしていた。
「白い部屋も、赤い染みも、四階も、路地裏の人も、全部知ってるのに、知らないふりをしてる」
「あなたのためです」
「それ、もう聞き飽きました」
神代は黙った。
その沈黙の中で、廊下の奥の機械音だけが低く響いている。
「私は5番なんですか」
声が震えた。
「4番の次だから?」
「違います」
神代は即答した。
「じゃあ、何が違うんですか」
「その数字に、意味を与えてはいけない」
「意味はもうあります」
あなたは紙を握りしめる。
「私は聞きました。第四実験って。夢でも見ました。椅子が四つあって、誰かが第五を連れてこいって言った」
神代の目が揺れる。
今度は、はっきりと。
「それ以上、思い出してはいけない」
「どうして?」
「あなたが壊れるからです」
「壊れるって何ですか!」
廊下に声が反響した。
自分の声なのに、どこか知らない人の叫びのように聞こえた。
「私はもう壊れてます。名前も分からない。顔も見えない。誰も本当のことを言わない。警察には被害者じゃないって言われる。紙には5番だって書かれる」
息が苦しい。
「これ以上、何が壊れるんですか」
神代は答えなかった。
答えられないのか、答えたくないのか分からない。
やがて彼は、静かに言った。
「部屋へ戻りましょう」
「嫌です」
「お願いです」
「嫌です」
あなたは一歩、後ずさった。
「雨宮刑事に連絡します」
神代の表情が変わった。
それは本当に一瞬だった。
けれど、その一瞬で分かった。
神代は、それを一番避けたい。
「やめた方がいい」
「どうして」
「彼女はあなたを利用します」
「神代さんは?」
神代は黙る。
「神代さんは、私を利用してないんですか」
廊下が静まり返る。
その沈黙の中で、遠くのどこかから水滴の落ちる音がした。
ぽたり。
ぽたり。
神代は、ひどく疲れたように目を伏せた。
「私は、あなたを救いたい」
「何から?」
「あなた自身から」
その言葉に、胸の奥がざらりと音を立てた。
自分自身から救う。
それはつまり、自分が危険だということなのか。
雨宮の言葉が蘇る。
君は被害者ではない。
あなたは紙を抱え、神代の横をすり抜けようとした。
その瞬間、彼が腕を掴んだ。
強くはない。
けれど、逃がさない力だった。
「離してください」
「今、外へ出るのは危険です」
「神代さんが一番危険に見えます」
神代の手から、少しだけ力が抜けた。
あなたはその隙に腕を引き抜き、廊下を走った。
部屋へは戻らない。
行くべき場所は一つしかなかった。
公衆電話でも、職員室でもいい。
とにかく外部へ連絡できる場所。
雨宮に電話する。
真実を知っているかもしれない、あの刑事に。
廊下の角を曲がると、昨日の待合室が見えた。
低いテーブル。
古い新聞。
壁際の椅子。
そこに、電話があった。
古い固定電話。
あなたは受話器を取る。
ツー、という音が聞こえた。
つながる。
雨宮から渡された紙を取り出し、震える指で番号を押す。
一つ。
二つ。
三つ。
最後の数字を押そうとした瞬間、受話器から声がした。
まだ、かけるな。
指が止まる。
雨宮の声ではない。
神代でもない。
もっと近い。
自分の内側から聞こえたような声。
受話器を耳から離す。
電話は、つながっていない。
ただの発信音。
それなのに、確かに声がした。
まだ、かけるな。
なぜ。
そう思った瞬間、待合室のテーブルに置かれた新聞が目に入った。
昨日も見た、古い新聞。
切り抜かれた記事。
あなたは受話器を置き、新聞へ手を伸ばした。
手が勝手に動いた。
何かを探している。
新聞をめくる。
日付は一年前。
地域欄。
小さな記事。
その一部が、今度は切り取られていなかった。
雨に濡れた路地裏。
身元不明の人物。
手に数字。
そこまでは読めた。
でも、次の行を見た瞬間、全身が凍った。
第一実験体、発見。
文字が、そう読めた気がした。
瞬きをする。
記事は普通の文章に戻っている。
「第一発見者」という文字だった。
第一発見者。
でも、今の一瞬。
確かに、第一実験体と読めた。
頭が痛む。
新聞の紙面が揺れる。
その下に、別の新聞があった。
日付が違う。
また、数字。
2。
さらに別の日付。
3。
そして今日。
4。

すべての記事の端に、小さな数字がある。
新聞社がつけた整理番号にも見える。
けれど、違う。
これは事件の記事ではない。
記録だ。
誰かが、数字順に並べている。
「見つけてしまいましたか」
背後から神代の声がした。
あなたはゆっくり振り返る。
神代は待合室の入口に立っていた。
追ってきたはずなのに、息一つ乱れていない。
「これは何ですか」
新聞を握りしめる。
「連続事件ですか」
神代は答えない。
「それとも、実験の記録ですか」
その言葉に、神代の表情から温度が消えた。
初めてだった。
彼の顔から、完全に微笑みが消えたのは。
「今日は、もう休みましょう」
「答えてください」
「今のあなたには、まだ早い」
「早いって、いつならいいんですか」
神代は一歩、近づく。
そのとき、待合室の照明が一度だけ明滅した。
ちかり。
消えて。
戻る。
テーブルの新聞の上に、一枚の写真が置かれていた。
さっきまでなかった。
白い部屋。
四つの椅子。
そして、その手前にもう一脚。
五つ目の椅子。
背もたれには、黒い数字が書かれている。
5。
神代が低く言った。
「見ないでください」
もう遅かった。
あなたは見てしまった。
写真の隅に、小さな文字がある。
被験者5、記憶誘導開始。
その瞬間、頭の奥で誰かが笑った。
優しい声だった。
どこかで聞いた声。
神代の声に似ている。
けれど、少し違う。
――ようやく、始まった。
視界が白く染まる。
倒れる直前、神代があなたを支えた。
今度は、逃げる力も残っていなかった。
耳元で、神代が囁く。
「だから、まだ早いと言ったのに」
その声は悲しそうだった。
けれど、どこか安心しているようにも聞こえた。
意識が沈む直前、あなたは新聞の見出しを見た。
そこには、昨日まで切り取られていたはずの言葉が、はっきりと残っていた。
連続記憶喪失事件。
被害者たちは、なぜ笑っていたのか。
そして、その下に小さく印刷された数字。
No.5
あなたは最後に、白い部屋を思い出した。
椅子が五つ。
そのうち一つには、誰かが座っている。
顔は見えない。
けれど、分かる。
あれは、自分だ。
君は5番だ。
その言葉が、暗闇の中で何度も繰り返された。



