あなたが最後に見た景色

 朝になっても、眠った気がしなかった。

 窓の向こうは灰色だった。厚い雲が空全体を覆い、建物の中まで薄暗く沈ませている。カーテンの隙間から差し込む光は弱く、夜がまだ部屋の隅に残っているようだった。

 机の上には、一枚の紙がある。

 次は、君が思い出す番。

 昨夜、扉の下から差し込まれたものだった。

 何度見ても、文字は変わらない。
 消えもしない。

 そして、雨宮刑事が渡した紙の裏にあった言葉も、頭から離れなかった。

 君は被害者ではない。

 被害者ではないなら、自分は何なのか。

 容疑者。
 目撃者。
 それとも、もっと別の何か。

 考えようとすると、頭の奥に鈍い痛みが広がる。まるで、答えに近づこうとするたび、見えない手で記憶の扉を押さえつけられているみたいだった。

 扉が叩かれた。

「起きていますか」

 神代の声だった。

 あなたは反射的に紙を伏せた。

「……はい」

 扉が開く。

 神代悠真は、いつもと同じように穏やかな顔で入ってきた。黒いジャケット。乱れのない髪。やわらかな声。

 けれど、もうその穏やかさをそのまま信じることはできなかった。

「顔色が悪いですね」

「眠れなかったので」

「無理もありません」

 神代は机の上に視線を落とした。

 紙は伏せてある。

 それなのに、彼はそこに何があるのか知っているように見えた。

「今日は少し、外へ出ましょう」

「外?」

 思わず聞き返した。

 この建物に来てから、まともに外へ出たことはない。窓は曇り、廊下は閉じられ、階段も四階も制限されていた。

 外という言葉が、あまりに現実離れして聞こえた。

「気分転換です」

「急に?」

「ずっと閉じこもっているより、その方がいい」

 あなたは神代を見る。

「警察が来た次の日に?」

 神代は、少しだけ微笑んだ。

「疑り深くなりましたね」

「そうさせたのは神代さんです」

 口にしたあと、自分でも驚いた。

 神代も、ほんの一瞬だけ目を細めた。

 けれどすぐに、いつもの穏やかな表情へ戻る。

「それは、申し訳ありません」

 謝っているのに、謝罪には聞こえなかった。

 案内されるまま部屋を出る。

 廊下は、昨日より冷たかった。蛍光灯の白い光が床に反射し、遠くまで細長く伸びている。職員らしき人が数人いたが、誰もこちらを見ようとしない。

 いや、違う。

 見ている。

 見ないふりをしながら、こちらを見ている。

 神代が通ると、誰もが少しだけ道を空ける。その動きが自然すぎて、かえって不自然だった。まるで、そうするように体へ染み込んでいるみたいに。

 玄関へ近づくにつれ、外の匂いがした。

 湿った土。
 雨の気配。
 冷えた空気。

 自動ドアが開く。

 外へ出た瞬間、風が頬を撫でた。

 冷たい。

 空は重く曇っていた。施設は山の中腹にあるらしく、周囲には濃い木々が広がっている。高いフェンスが敷地を囲み、その上には監視カメラがいくつも設置されていた。

 病院には見えない。

 療養施設にも、見えない。

 ここは、誰かを治す場所ではなく、誰かを逃がさないための場所に見えた。

「高いフェンスですね」

「山の動物が入ってこないように」

「監視カメラも?」

「防犯です」

「外から守るためですか」

 神代がこちらを見る。

「中にいる人を守るためです」

 同じようで、違う答え。

 その違いが、胸に引っかかった。

 駐車場には黒い車が停まっていた。昨日、警察が来たときに見たものとは別の車だった。神代が運転席に乗り込み、あなたは助手席に座る。

 車内は静かだった。

 エンジン音だけが低く響く。

 施設の門を出るとき、守衛らしき男が神代に小さく頭を下げた。確認も、質問もしない。ただ、門を開ける。

 この人は、この施設の職員ではないと言っていた。

 それなのに、誰も神代を止めない。

 山道を下っていく。

 窓の外を流れる木々は黒く濡れていた。いつ雨が降り出してもおかしくない空だった。

 しばらくして、遠くからサイレンが聞こえた。

 昨日とは違う。

 昨日の警察は静かに来た。

 けれど今日は、はっきりと鳴っている。

 神代のスマートフォンが震えた。

 彼は画面を見ると、表情を変えずに通話をつないだ。

「はい」

 相手の声は聞こえない。

 神代は前を向いたまま、短く相槌を打つ。

「……分かりました」

 それだけ言って、電話を切った。

「何かあったんですか」

 神代はすぐには答えなかった。

 車の速度が、少しだけ落ちる。

「事件です」

 胸の奥が冷えた。

「事件?」

「近くの市街地で、人が見つかりました」

 人が見つかった。

 その言い方が気になった。

 倒れていた、ではない。
 保護された、でもない。

 見つかった。

「どうして、そこへ行くんですか」

「雨宮刑事からの要請です」

「私も?」

「ええ」

 あなたは神代を見る。

「なぜ私が必要なんですか」

「それを、これから確かめるんでしょう」

 神代の横顔は静かだった。

 驚きも、動揺もない。

 まるで事件が起きることを知っていたような顔。

 車は市街地へ入った。

 雨が降り始めていた。

 細い雨粒がフロントガラスを叩き、ワイパーが規則正しく視界を拭っていく。灰色の街並み。閉じたシャッター。濡れた電柱。人通りは少なく、道路には警察車両の赤い光だけが滲んでいた。

 細い路地の前で車が止まる。

 黄色い規制線。

 制服警官。

 鑑識の白い手袋。

 雨の匂いに混じって、鉄のような冷たい匂いがした。

 足がすくむ。

「行きましょう」

 神代が言う。

「私、本当に行く必要がありますか」

「見れば、何か思い出すかもしれません」

「思い出さない方がいいって言ってたのに」

 神代は傘を開きながら、こちらを見た。

「思い出すべきものと、思い出してはいけないものがあります」

「誰が決めるんですか」

 神代は答えなかった。

 規制線の前で、警官があなたを止めた。

「関係者以外は――」

「通して」

 奥から雨宮千景の声がした。

 雨宮は紺色のコートを着て、雨の中に立っていた。髪はきっちり結ばれ、表情は昨日よりもさらに硬い。

 彼女の視線が、あなたに向く。

 やはり、心配する目ではなかった。

 警戒。

 そして、ほんの少しの焦り。

「どうして私を通すんですか」

 あなたが聞くと、雨宮は淡々と答えた。

「確認したいことがある」

 被害者だからではない。

 保護するためでもない。

 確認するため。

 その言葉が、足元の雨水より冷たかった。

 路地裏へ入る。

 建物の隙間は狭く、雨音が反響していた。古い室外機。錆びた非常階段。濡れたアスファルト。灰色の壁には、過去に貼られて剥がされたポスターの跡が残っている。

 その奥に、人が横たわっていた。

 直接見てはいけない。

 頭のどこかがそう叫んだ。

 鑑識が周囲を囲み、青いシートが半分だけかけられている。顔は見えない。体の輪郭だけが雨に濡れた地面へ沈むように横たわっていた。

 けれど、手だけが見えていた。

 右手。

 手の甲を上にして、こちらへ向けられている。

 その手に、黒い文字が書かれていた。

 4

 数字。

 ただの数字。

 それなのに、見た瞬間、世界の音が遠のいた。

 雨音が消える。

 サイレンも、人の声も、足音も、すべてが水の底に沈んでいく。

 代わりに、頭の奥で声がした。

 ――第四実験、開始。

 白い光。

 椅子。

 手首に巻かれた何か。

 誰かが数字を読み上げる声。

 四。

 四番。

 第四実験。

「……っ」

 膝から力が抜ける。

 倒れかけた体を、神代が支えた。

「見ない方がいい」

 その声が耳元で聞こえる。

 でも、もう見てしまった。

 手に書かれた4。

 それはただの数字ではない。

 そのことを、あなたは知っている気がした。

「何を思い出した?」

 雨宮が近づいてくる。

 あなたは息を整えようとする。

「声が……」

「どんな声?」

「第四……」

 そこまで言った瞬間、頭に激しい痛みが走った。

 視界が白く弾ける。

 神代の手に力が入った。

「今日はここまでです」

「神代さん、黙っていてください」

 雨宮の声が鋭くなる。

「今、重要なことを言いかけた」

「これ以上は危険です」

「危険なのは、あなたが止めることです」

 二人の声が遠く聞こえる。

 あなたは、まだ手の数字から目を離せなかった。

 4。

 四人目。

 普通ならそう思うはずだった。

 けれど、胸の奥で別の声が否定していた。

 違う。

 これは人数じゃない。

 番号だ。

 誰かが背後で言った。

「また数字だ」

 鑑識の声だった。

 また。

 その一言が、雨より冷たく落ちた。

 前にもあった。

 数字を残された人が。

 雨宮が鑑識を睨むように見る。鑑識は気まずそうに口を閉じた。

「またって、どういう意味ですか」

 あなたが聞く。

 誰も答えない。

 雨宮も。
 神代も。
 鑑識も。

 全員が、同じ沈黙を選んだ。

 その沈黙の中で、路地裏の奥に白いものが見えた。

 写真だった。

 雨で濡れたアスファルトの上に、一枚の写真が落ちている。半分ほど水たまりに浸かり、端が丸まっていた。

 写っているのは、白い部屋。

 椅子。
 机。
 開かない窓。

 あなたが目を覚ました、あの部屋。

 息が止まる。

 拾おうとした瞬間、神代の声が飛んだ。

「触らないでください」

 まただ。

 廊下の赤い染みのときと同じ。

 触らせたくないものがあるときだけ、神代の声は優しさを失う。

 雨宮が写真に気づき、素早く拾い上げた。

「それ、何ですか」

 雨宮は写真を見た。

 表情が変わる。

 だが、すぐに証拠袋へ入れてしまった。

「まだ見ない方がいい」

 その言葉に、胸がざわついた。

 神代だけじゃない。

 雨宮まで同じことを言う。

 見ない方がいい。
 思い出さない方がいい。
 聞かない方がいい。

 誰もが、真実の前であなたの目を塞ごうとする。

 雨が強くなった。

 規制線の外で、誰かがこちらを見ている気がした。

 振り返る。

 人混みの奥に、黒いコートの男が立っていた。

 帽子を深くかぶり、顔は見えない。

 右足を、少しだけ引きずっている。

 目が合った気がした瞬間、その男は人混みの中へ消えた。

 追いかけようとした。

 けれど、神代の手が腕を掴んだ。

「どこへ」

「今、黒いコートの人が」

「見間違いです」

「また、それですか」

 神代は黙った。

 雨宮がこちらを見る。

「黒いコート?」

「昨日の夜も見ました。施設の廊下で」

 雨宮の表情が変わった。

「神代さん」

「見間違いでしょう」

「あなた、本当にそう思ってる?」

 神代は雨宮を見る。

「刑事さんは、幻覚まで事件にするつもりですか」

「幻覚と決めつけるのが早すぎると言っているんです」

 雨宮の声は低かった。

 二人の間に、また冷たい空気が流れる。

 その中心にいるのは、いつも自分だった。

 でも、自分が何者なのかだけが分からない。

 被害者ではない。

 四番ではない。

 では、何番なのか。

 その答えを考えた瞬間、手の中に見えない数字が刻まれるような感覚がした。

 五。

 なぜか、その数字だけが浮かんだ。

 雨の匂いが濃くなる。

 神代が傘を傾ける。

「戻りましょう」

 あなたは、もう一度だけ路地裏を見た。

 青いシート。
 鑑識。
 雨宮。
 濡れた写真。
 手に書かれた4。

 そして、頭の奥に残る声。

 第四実験、開始。

 その声が、まだ耳の奥で鳴っていた。