あなたが最後に見た景色

 その夜、建物の中で警報が鳴った。

 高く、短く、耳の奥を刺すような音だった。

 四階に来て。

 赤黒い文字が書かれた紙袋を握りしめたまま、あなたはベッドの端に座っていた。廊下の向こうから、誰かが走る足音が聞こえる。複数の足音。急いでいるのに、叫び声はない。

 それが、かえって不気味だった。

 異常が起きている。

 けれど、誰もそれを口にしない。

 扉が叩かれた。

「開けます」

 返事をする前に、神代が入ってきた。

 いつもの黒い服。乱れていない髪。落ち着いた声。

 けれど、その目だけは、わずかに鋭かった。

「ここから出ないでください」

「何があったんですか」

「確認中です」

「四階ですか」

 神代の視線が、一瞬だけあなたの手元に落ちた。

 紙袋。

 あなたは慌ててそれを布団の下へ隠した。

 神代は見たはずだった。
 それでも何も言わない。

 その沈黙が、かえって恐ろしかった。

「とにかく、朝まで部屋にいてください」

「閉じ込めるんですか」

「守るためです」

 また、その言葉。

 守る。

 神代が言うたび、その意味が分からなくなる。

 何から守っているのか。

 誰から守っているのか。

 それとも、自分が何かを知ることから守っているのか。

 神代は扉の前で足を止めた。

「明日、少し騒がしくなるかもしれません」

「騒がしく?」

「警察が来ます」

 警察。

 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に小さな光が差した。

 助かるかもしれない。

 ここで起きていることを、誰かに話せるかもしれない。

 けれど、神代の表情は少しも安心していなかった。

「警察が来るなら、全部話します」

「何を?」

「白い部屋のこと。取調室のこと。四階のこと。赤い染みのこと」

 神代は、静かにあなたを見た。

「話しても構いません」

 意外な返事だった。

 けれど、続いた言葉で胸が冷えた。

「ただ、信じてもらえるとは限りません」

 扉が閉まる。

 廊下では、まだ警報が鳴っていた。

 あなたは布団の下から紙袋を取り出す。

 四階に来て。

 その文字は、消えていなかった。

 翌朝。

 建物の外に、車の音がした。

 一台ではない。

 複数の車が、砂利を踏むような低い音を立てて停まる。窓のカーテンを少しだけ開けると、曇ったガラスの向こうに黒い車と警察車両が見えた。

 サイレンは鳴っていない。

 赤色灯も回っていない。

 ただ、静かに来た。

 まるで、大きな事件を知らせに来たのではなく、隠していたものを確認しに来たようだった。

 扉の外が慌ただしくなる。

 足音。
 低い話し声。
 誰かが書類をめくる音。
 扉が開閉する音。

 けれど、誰も叫ばない。

 誰も「大丈夫ですか」と言わない。

 しばらくして、神代があなたを呼びに来た。

「話を聞きたいそうです」

「警察が?」

「ええ」

「私を助けに来たんですか」

 神代は答えなかった。

 その沈黙だけで、あなたは嫌な予感を覚えた。

 案内されたのは、昨日とは別の部屋だった。

 白い壁。
 四角いテーブル。
 向かい合う椅子。

 窓はあるが、分厚いブラインドが下ろされている。外の光は細い線になって床へ落ちていた。

 部屋の中には、女性が一人立っていた。

 黒髪を後ろでひとつに結び、紺色のスーツを着ている。背筋はまっすぐで、表情は硬い。綺麗な顔立ちなのに、目だけが鋭く冷えていた。

 その目が、あなたを見た。

 心配ではない。
 同情でもない。
 好奇心でもない。

 警戒。

 まるで、保護する相手ではなく、注意深く見張る相手を見る目だった。

「雨宮千景です」

 彼女は警察手帳を見せた。

「刑事です。少し話を聞かせてもらう」

 大丈夫ですか、とは言わなかった。

 怖かったでしょう、とも言わなかった。

 被害者の方ですね、とも。

 ただ、話を聞かせてもらう。

 その言い方が、妙に冷たかった。

 あなたが椅子に座ると、神代は部屋の端に立った。雨宮はそれを見て、眉をひそめる。

「神代さん。あなたには席を外していただきたいんですが」

「この人はまだ不安定な状態です。私がいた方が落ち着くでしょう」

「本人に聞いていません」

 雨宮の視線があなたに戻る。

「二人で話せる?」

 神代を見る。

 彼は微笑んでいた。

 穏やかに。
 優しく。
 けれど、その笑みの奥で、何かを待っている。

 あなたは小さく頷いた。

「……大丈夫です」

 神代の表情は変わらなかった。

 けれど、空気が少しだけ冷えた気がした。

「では、外にいます」

 神代はそう言って部屋を出た。

 扉が閉まる。

 雨宮は、しばらく黙っていた。

 足音が遠ざかるのを待っているようだった。

 完全に静かになってから、彼女は椅子に座った。

「君は、どこまで覚えている?」

 君。

 その呼び方に、胸が引っかかる。

「何も」

「名前も?」

「はい」

「昨日のことは?」

「白い部屋で目を覚ましたことは覚えています」

「白い部屋」

 雨宮はメモを取る。

「そこには何があった?」

「椅子と、机と、紙が一枚」

 雨宮のペンが止まった。

「紙?」

 その聞き方が、少しだけ不自然だった。

 知っている。

 そう感じた。

「……何の紙か、知っているんですか」

「質問しているのは私」

「警察は、あの紙を知ってるんですね」

 雨宮は答えなかった。

 ペンを持ち直す。

「紙には、何と書いてあった?」

 あなたは迷った。

 逃げろ。

 探偵を信じるな。

 言っていいのか。

 言った瞬間、何かが動いてしまう気がした。

「逃げろ、と」

 雨宮の顔がわずかに強張った。

 本当に、ほんのわずか。

 けれど確かに。

「裏は?」

「……最初は何も」

「最初は?」

 しまった、と思った。

 雨宮の目が鋭くなる。

「あとで、文字が浮かびました」

「何と?」

 唇が乾く。

「探偵を信じるな」

 雨宮はすぐには反応しなかった。

 ただ、ゆっくりと目を伏せた。

 その沈黙は、驚きではなかった。

 確認に近かった。

「神代悠真を、どう思う?」

「分かりません」

「信用している?」

「分かりません」

「それはいい答え」

 雨宮は小さく言った。

 褒められた気はしなかった。

「神代さんと知り合いなんですか」

「知り合いというほど親しくはない」

「でも、知っているんですね」

「事件の現場で何度か会っている」

 事件。

 その言葉が、部屋の温度を下げた。

「神代さんは探偵ですよね」

「そう名乗っている」

「名乗っている?」

 雨宮はペンを置いた。

「神代悠真は、事件が起きる場所に現れる。被害者の近くにいる。容疑者の近くにもいる。そしていつも、自分は偶然そこにいただけだと言う」

 胸の奥で、何かがざわめく。

 神代の声が蘇る。

 偶然ですよ。

 あなたを守るためです。

「君は、神代に何を聞かされた?」

「記憶が不安定だと。無理に思い出さない方がいいって」

「それだけ?」

「名前は、自分で思い出す必要がある、とも」

 雨宮の口元が、少しだけ歪んだ。

「都合のいい言い方ね」

「私の名前を知っているんですか」

 雨宮は黙った。

 まただ。

 神代と同じ。

 誰も、名前を教えてくれない。

「どうして誰も教えてくれないんですか」

「教えた瞬間、君がどうなるか分からないから」

「それも、私のためですか」

「違う」

 雨宮は即答した。

 その速さに、胸が少しだけ揺れた。

「私たちのためでもある」

 意味が分からなかった。

「私は、被害者なんですか」

 ずっと聞きたかった問いだった。

 白い部屋で目覚めた。
 記憶を失っていた。
 謎の紙を持っていた。
 施設には赤い染みがあり、四階は封鎖されている。

 普通なら、自分は被害者のはずだった。

 けれど、誰もそう呼ばない。

 雨宮も、神代も。

 誰も。

 雨宮は答えるまでに時間をかけた。

 その沈黙が、答えだった。

「今は、君の立場を断定できない」

 胸の奥が冷たくなる。

「断定できないって、どういう意味ですか」

「そのままの意味」

「私は何かしたんですか」

「それを調べている」

 息が詰まった。

 被害者として話を聞かれているのではない。

 疑われている。

 自分が何をしたのかも分からないまま。

 雨宮は透明な証拠袋を取り出した。

 中には、一枚の紙が入っている。

 白い紙。

 中央に、黒い文字。

 次は君だ。

 手の中が冷える。

「これに見覚えは?」

「ありません」

「本当に?」

「ないです」

 でも。

 筆跡に、見覚えがある気がした。

 逃げろ、と書かれていた紙。

 鏡に浮かんだ文字。

 薬の紙袋の裏に書かれた、四階に来て。

 全部、どこか似ている。

 そして何より、目の前の文字が、自分の手で書かれたもののように感じた。

 なぜ、そう思うのか分からない。

 雨宮はその表情を見逃さなかった。

「何か思い出した?」

「違います」

「違う?」

「思い出したんじゃなくて……知っている気がしただけです」

「その違いは大きい?」

 答えられなかった。

 そのとき、扉が叩かれた。

 神代が入ってくる。

「そろそろ休ませてあげてください」

 雨宮は素早く証拠袋をしまった。

 神代はそれを見た。

 見たはずなのに、何も言わなかった。

 その沈黙が、二人の間にある共犯めいた空気を感じさせた。

「まだ質問は終わっていません」

 雨宮が言う。

「この人は昨日から眠れていない。無理をさせれば、記憶がさらに混乱する」

「記憶が戻ると困るような言い方ですね」

「刑事さんは、疑うのが仕事ですからね」

「ええ。だからあなたを疑っています」

 二人の間に、目に見えない火花が散る。

 神代は笑っている。

 雨宮は笑わない。

 あなたは、その間に座っていた。

 まるで、証言台に立たされているようだった。

「雨宮さん」

 あなたは小さく声を出した。

 二人の視線が同時に向く。

「警察は、何をしに来たんですか」

 雨宮は一瞬だけ神代を見た。

 神代は何も言わない。

「今朝、この施設の近くで身元不明の人物が発見された」

 身元不明。

 その言葉が、妙に重かった。

「私と関係があるんですか」

「それを調べに来た」

「その人は……」

 それ以上、聞くのが怖かった。

 雨宮は言葉を選ぶように続ける。

「命に別状はない。ただ、君と同じように記憶が混乱している」

 同じように。

 自分だけではない。

 記憶を失っている人間が、他にもいる。

 神代の表情を見た。

 彼は、驚いていなかった。

 やっぱり。

 知っていた。

「神代さん」

 雨宮が立ち上がる。

「施設の記録を見せてください。昨日の夜間記録、四階の管理記録、監視カメラの映像も」

「私はこの施設の職員ではありません」

「でも、全てを知っている顔をしている」

「買いかぶりです」

「あなたの偶然は、いつも事件の中心にある」

 雨宮の声は低かった。

「今回も、偶然ですか」

 神代は微笑む。

「ええ」

 その笑顔が、怖かった。

 雨宮は部屋を出る前に、あなたの横を通った。

 その瞬間、小さな紙を机の端に滑らせる。

 神代からは見えない角度だった。

 雨宮は低い声で言う。

「何か思い出したら、連絡して」

 紙には電話番号が書かれていた。

「私を信じてくれるんですか」

 雨宮は足を止めた。

 少しだけ振り返る。

「信じるかどうかは、まだ決めていない」

 冷たい言葉。

 けれど、嘘ではない。

 神代の優しさより、ずっと信用できる気がした。

「でも、神代を信用しすぎるな」

 その言葉に、胸が跳ねる。

 探偵を信じるな。

 同じ意味の警告。

 雨宮はそのまま部屋を出ていった。

 警察が帰るまで、施設内は妙な緊張に包まれていた。

 廊下には制服警官が立ち、職員たちは目を伏せて歩く。誰も警察に助けを求めようとはしない。むしろ、見つからないように息を潜めているようだった。

 雨宮が職員に質問するたび、職員は神代を見る。

 神代は少し離れた場所で、穏やかに立っているだけだった。

 それだけで、職員の言葉は短くなる。

 知りません。
 分かりません。
 記録にありません。

 まるで、この建物全体が同じ嘘を共有しているみたいだった。

 昼過ぎ、警察車両は静かに施設を離れた。

 サイレンは最後まで鳴らなかった。

 車の音が遠ざかると、建物はまた元の静けさに戻った。

 けれど、あなたの中には戻らなかった。

 警察が来ても、何も解決しなかった。

 むしろ、謎は増えた。

 神代が部屋に戻ってくる。

「疲れましたね」

 彼は、何事もなかったように言った。

 あなたは机の上の紙を手で隠す。

 雨宮の電話番号。

 神代は気づいているのか、いないのか。

 分からない。

「雨宮刑事の言うことは、あまり真に受けない方がいい」

「どうしてですか」

「彼女は、あなたを守りたいわけではありません」

「じゃあ、何のために来たんですか」

 神代は静かにあなたを見る。

「あなたが、まだ危険かどうかを確かめに来たんです」

 危険。

 自分が?

「私は、危険なんですか」

「今はまだ、分かりません」

 雨宮と同じことを言う。

 けれど、神代の声で聞くと、意味が違って聞こえた。

「神代さんは、私を何だと思っているんですか」

 神代は答えなかった。

 ただ、少しだけ寂しそうに笑った。

「あなたがあなたであることを、思い出してほしいと思っています」

「名前は教えてくれないのに?」

「名前だけが、あなたではありません」

「でも、私には名前も顔も記憶もない」

 声が震えた。

「それで、どうやって自分を信じればいいんですか」

 神代の微笑みが、消えた。

 初めて見る表情だった。

 ほんの一瞬、彼はひどく疲れた人の顔をした。

「信じなくていい」

「え?」

「今は、何も信じなくていい」

 その言葉だけは、不思議と本音に聞こえた。

 神代は扉へ向かう。

「休んでください」

 部屋を出る直前、彼は振り返った。

「ただし、雨宮刑事に連絡するのはおすすめしません」

 やっぱり、気づいていた。

 あなたの手が、机の下で紙を握る。

「どうして」

「彼女は、あなたの過去を知っています」

「なら、聞いた方がいいじゃないですか」

「知ることと、耐えられることは違います」

 扉が閉まった。

 今度は、鍵の音がした。

 小さく、確かに。

 かちり。

 あなたはしばらく動けなかった。

 警察が来た。

 それなのに、安心はどこにもなかった。

 神代は優しい。
 雨宮は冷たい。

 けれど、どちらも何かを隠している。

 机の下から、雨宮の紙を取り出す。

 電話番号。

 その下には何も書かれていない。

 そう思った。

 けれど、紙を裏返した瞬間、息が止まった。

 小さな文字があった。

 雨宮の字だろうか。

 それとも、また別の誰かの字だろうか。

 そこには、こう書かれていた。

 君は被害者ではない。

 視界が揺れた。

 被害者ではない。

 なら、自分は何なのか。

 容疑者。

 目撃者。

 それとも、犯人。

 頭の奥で、何かがひび割れる。

 雨の音。
 白いライト。
 誰かの笑い声。
 床に落ちた紙。
 赤い染み。

 そして、誰かが自分を呼ぶ声。

 けれど名前の部分だけが、黒く塗りつぶされていた。

 あなたは紙を握りしめる。

 廊下の向こうで、誰かの足音がした。

 一歩。

 二歩。

 あなたの部屋の前で止まる。

 扉の下から、白い紙が一枚差し込まれた。

 心臓が強く鳴る。

 恐る恐る拾い上げる。

 そこには、短く書かれていた。

 次は、君が思い出す番。

 部屋の外には、もう誰もいなかった。