その夜、建物の中で警報が鳴った。
高く、短く、耳の奥を刺すような音だった。
四階に来て。
赤黒い文字が書かれた紙袋を握りしめたまま、あなたはベッドの端に座っていた。廊下の向こうから、誰かが走る足音が聞こえる。複数の足音。急いでいるのに、叫び声はない。
それが、かえって不気味だった。
異常が起きている。
けれど、誰もそれを口にしない。
扉が叩かれた。
「開けます」
返事をする前に、神代が入ってきた。
いつもの黒い服。乱れていない髪。落ち着いた声。
けれど、その目だけは、わずかに鋭かった。
「ここから出ないでください」
「何があったんですか」
「確認中です」
「四階ですか」
神代の視線が、一瞬だけあなたの手元に落ちた。
紙袋。
あなたは慌ててそれを布団の下へ隠した。
神代は見たはずだった。
それでも何も言わない。
その沈黙が、かえって恐ろしかった。
「とにかく、朝まで部屋にいてください」
「閉じ込めるんですか」
「守るためです」
また、その言葉。
守る。
神代が言うたび、その意味が分からなくなる。
何から守っているのか。
誰から守っているのか。
それとも、自分が何かを知ることから守っているのか。
神代は扉の前で足を止めた。
「明日、少し騒がしくなるかもしれません」
「騒がしく?」
「警察が来ます」
警察。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に小さな光が差した。
助かるかもしれない。
ここで起きていることを、誰かに話せるかもしれない。
けれど、神代の表情は少しも安心していなかった。
「警察が来るなら、全部話します」
「何を?」
「白い部屋のこと。取調室のこと。四階のこと。赤い染みのこと」
神代は、静かにあなたを見た。
「話しても構いません」
意外な返事だった。
けれど、続いた言葉で胸が冷えた。
「ただ、信じてもらえるとは限りません」
扉が閉まる。
廊下では、まだ警報が鳴っていた。
あなたは布団の下から紙袋を取り出す。
四階に来て。
その文字は、消えていなかった。
翌朝。
建物の外に、車の音がした。
一台ではない。
複数の車が、砂利を踏むような低い音を立てて停まる。窓のカーテンを少しだけ開けると、曇ったガラスの向こうに黒い車と警察車両が見えた。
サイレンは鳴っていない。
赤色灯も回っていない。
ただ、静かに来た。
まるで、大きな事件を知らせに来たのではなく、隠していたものを確認しに来たようだった。
扉の外が慌ただしくなる。
足音。
低い話し声。
誰かが書類をめくる音。
扉が開閉する音。
けれど、誰も叫ばない。
誰も「大丈夫ですか」と言わない。
しばらくして、神代があなたを呼びに来た。
「話を聞きたいそうです」
「警察が?」
「ええ」
「私を助けに来たんですか」
神代は答えなかった。
その沈黙だけで、あなたは嫌な予感を覚えた。
案内されたのは、昨日とは別の部屋だった。
白い壁。
四角いテーブル。
向かい合う椅子。
窓はあるが、分厚いブラインドが下ろされている。外の光は細い線になって床へ落ちていた。
部屋の中には、女性が一人立っていた。
黒髪を後ろでひとつに結び、紺色のスーツを着ている。背筋はまっすぐで、表情は硬い。綺麗な顔立ちなのに、目だけが鋭く冷えていた。
その目が、あなたを見た。
心配ではない。
同情でもない。
好奇心でもない。
警戒。
まるで、保護する相手ではなく、注意深く見張る相手を見る目だった。
「雨宮千景です」
彼女は警察手帳を見せた。
「刑事です。少し話を聞かせてもらう」
大丈夫ですか、とは言わなかった。
怖かったでしょう、とも言わなかった。
被害者の方ですね、とも。
ただ、話を聞かせてもらう。
その言い方が、妙に冷たかった。
あなたが椅子に座ると、神代は部屋の端に立った。雨宮はそれを見て、眉をひそめる。
「神代さん。あなたには席を外していただきたいんですが」
「この人はまだ不安定な状態です。私がいた方が落ち着くでしょう」
「本人に聞いていません」
雨宮の視線があなたに戻る。
「二人で話せる?」
神代を見る。
彼は微笑んでいた。
穏やかに。
優しく。
けれど、その笑みの奥で、何かを待っている。
あなたは小さく頷いた。
「……大丈夫です」
神代の表情は変わらなかった。
けれど、空気が少しだけ冷えた気がした。
「では、外にいます」
神代はそう言って部屋を出た。
扉が閉まる。
雨宮は、しばらく黙っていた。
足音が遠ざかるのを待っているようだった。
完全に静かになってから、彼女は椅子に座った。
「君は、どこまで覚えている?」
君。
その呼び方に、胸が引っかかる。
「何も」
「名前も?」
「はい」
「昨日のことは?」
「白い部屋で目を覚ましたことは覚えています」
「白い部屋」
雨宮はメモを取る。
「そこには何があった?」
「椅子と、机と、紙が一枚」
雨宮のペンが止まった。
「紙?」
その聞き方が、少しだけ不自然だった。
知っている。
そう感じた。
「……何の紙か、知っているんですか」
「質問しているのは私」
「警察は、あの紙を知ってるんですね」
雨宮は答えなかった。
ペンを持ち直す。
「紙には、何と書いてあった?」
あなたは迷った。
逃げろ。
探偵を信じるな。
言っていいのか。
言った瞬間、何かが動いてしまう気がした。
「逃げろ、と」
雨宮の顔がわずかに強張った。
本当に、ほんのわずか。
けれど確かに。
「裏は?」
「……最初は何も」
「最初は?」
しまった、と思った。
雨宮の目が鋭くなる。
「あとで、文字が浮かびました」
「何と?」
唇が乾く。
「探偵を信じるな」
雨宮はすぐには反応しなかった。
ただ、ゆっくりと目を伏せた。
その沈黙は、驚きではなかった。
確認に近かった。
「神代悠真を、どう思う?」
「分かりません」
「信用している?」
「分かりません」
「それはいい答え」
雨宮は小さく言った。
褒められた気はしなかった。
「神代さんと知り合いなんですか」
「知り合いというほど親しくはない」
「でも、知っているんですね」
「事件の現場で何度か会っている」
事件。
その言葉が、部屋の温度を下げた。
「神代さんは探偵ですよね」
「そう名乗っている」
「名乗っている?」
雨宮はペンを置いた。
「神代悠真は、事件が起きる場所に現れる。被害者の近くにいる。容疑者の近くにもいる。そしていつも、自分は偶然そこにいただけだと言う」
胸の奥で、何かがざわめく。
神代の声が蘇る。
偶然ですよ。
あなたを守るためです。
「君は、神代に何を聞かされた?」
「記憶が不安定だと。無理に思い出さない方がいいって」
「それだけ?」
「名前は、自分で思い出す必要がある、とも」
雨宮の口元が、少しだけ歪んだ。
「都合のいい言い方ね」
「私の名前を知っているんですか」
雨宮は黙った。
まただ。
神代と同じ。
誰も、名前を教えてくれない。
「どうして誰も教えてくれないんですか」
「教えた瞬間、君がどうなるか分からないから」
「それも、私のためですか」
「違う」
雨宮は即答した。
その速さに、胸が少しだけ揺れた。
「私たちのためでもある」
意味が分からなかった。
「私は、被害者なんですか」
ずっと聞きたかった問いだった。
白い部屋で目覚めた。
記憶を失っていた。
謎の紙を持っていた。
施設には赤い染みがあり、四階は封鎖されている。
普通なら、自分は被害者のはずだった。
けれど、誰もそう呼ばない。
雨宮も、神代も。
誰も。
雨宮は答えるまでに時間をかけた。
その沈黙が、答えだった。
「今は、君の立場を断定できない」
胸の奥が冷たくなる。
「断定できないって、どういう意味ですか」
「そのままの意味」
「私は何かしたんですか」
「それを調べている」
息が詰まった。
被害者として話を聞かれているのではない。
疑われている。
自分が何をしたのかも分からないまま。
雨宮は透明な証拠袋を取り出した。
中には、一枚の紙が入っている。
白い紙。
中央に、黒い文字。
次は君だ。
手の中が冷える。
「これに見覚えは?」
「ありません」
「本当に?」
「ないです」
でも。
筆跡に、見覚えがある気がした。
逃げろ、と書かれていた紙。
鏡に浮かんだ文字。
薬の紙袋の裏に書かれた、四階に来て。
全部、どこか似ている。
そして何より、目の前の文字が、自分の手で書かれたもののように感じた。
なぜ、そう思うのか分からない。
雨宮はその表情を見逃さなかった。
「何か思い出した?」
「違います」
「違う?」
「思い出したんじゃなくて……知っている気がしただけです」
「その違いは大きい?」
答えられなかった。
そのとき、扉が叩かれた。
神代が入ってくる。
「そろそろ休ませてあげてください」
雨宮は素早く証拠袋をしまった。
神代はそれを見た。
見たはずなのに、何も言わなかった。
その沈黙が、二人の間にある共犯めいた空気を感じさせた。
「まだ質問は終わっていません」
雨宮が言う。
「この人は昨日から眠れていない。無理をさせれば、記憶がさらに混乱する」
「記憶が戻ると困るような言い方ですね」
「刑事さんは、疑うのが仕事ですからね」
「ええ。だからあなたを疑っています」
二人の間に、目に見えない火花が散る。
神代は笑っている。
雨宮は笑わない。
あなたは、その間に座っていた。
まるで、証言台に立たされているようだった。
「雨宮さん」
あなたは小さく声を出した。
二人の視線が同時に向く。
「警察は、何をしに来たんですか」
雨宮は一瞬だけ神代を見た。
神代は何も言わない。
「今朝、この施設の近くで身元不明の人物が発見された」
身元不明。
その言葉が、妙に重かった。
「私と関係があるんですか」
「それを調べに来た」
「その人は……」
それ以上、聞くのが怖かった。
雨宮は言葉を選ぶように続ける。
「命に別状はない。ただ、君と同じように記憶が混乱している」
同じように。
自分だけではない。
記憶を失っている人間が、他にもいる。
神代の表情を見た。
彼は、驚いていなかった。
やっぱり。
知っていた。
「神代さん」
雨宮が立ち上がる。
「施設の記録を見せてください。昨日の夜間記録、四階の管理記録、監視カメラの映像も」
「私はこの施設の職員ではありません」
「でも、全てを知っている顔をしている」
「買いかぶりです」
「あなたの偶然は、いつも事件の中心にある」
雨宮の声は低かった。
「今回も、偶然ですか」
神代は微笑む。
「ええ」
その笑顔が、怖かった。
雨宮は部屋を出る前に、あなたの横を通った。
その瞬間、小さな紙を机の端に滑らせる。
神代からは見えない角度だった。
雨宮は低い声で言う。
「何か思い出したら、連絡して」
紙には電話番号が書かれていた。
「私を信じてくれるんですか」
雨宮は足を止めた。
少しだけ振り返る。
「信じるかどうかは、まだ決めていない」
冷たい言葉。
けれど、嘘ではない。
神代の優しさより、ずっと信用できる気がした。
「でも、神代を信用しすぎるな」
その言葉に、胸が跳ねる。
探偵を信じるな。
同じ意味の警告。
雨宮はそのまま部屋を出ていった。
警察が帰るまで、施設内は妙な緊張に包まれていた。
廊下には制服警官が立ち、職員たちは目を伏せて歩く。誰も警察に助けを求めようとはしない。むしろ、見つからないように息を潜めているようだった。
雨宮が職員に質問するたび、職員は神代を見る。
神代は少し離れた場所で、穏やかに立っているだけだった。
それだけで、職員の言葉は短くなる。
知りません。
分かりません。
記録にありません。
まるで、この建物全体が同じ嘘を共有しているみたいだった。
昼過ぎ、警察車両は静かに施設を離れた。
サイレンは最後まで鳴らなかった。
車の音が遠ざかると、建物はまた元の静けさに戻った。
けれど、あなたの中には戻らなかった。
警察が来ても、何も解決しなかった。
むしろ、謎は増えた。
神代が部屋に戻ってくる。
「疲れましたね」
彼は、何事もなかったように言った。
あなたは机の上の紙を手で隠す。
雨宮の電話番号。
神代は気づいているのか、いないのか。
分からない。
「雨宮刑事の言うことは、あまり真に受けない方がいい」
「どうしてですか」
「彼女は、あなたを守りたいわけではありません」
「じゃあ、何のために来たんですか」
神代は静かにあなたを見る。
「あなたが、まだ危険かどうかを確かめに来たんです」
危険。
自分が?
「私は、危険なんですか」
「今はまだ、分かりません」
雨宮と同じことを言う。
けれど、神代の声で聞くと、意味が違って聞こえた。
「神代さんは、私を何だと思っているんですか」
神代は答えなかった。
ただ、少しだけ寂しそうに笑った。
「あなたがあなたであることを、思い出してほしいと思っています」
「名前は教えてくれないのに?」
「名前だけが、あなたではありません」
「でも、私には名前も顔も記憶もない」
声が震えた。
「それで、どうやって自分を信じればいいんですか」
神代の微笑みが、消えた。
初めて見る表情だった。
ほんの一瞬、彼はひどく疲れた人の顔をした。
「信じなくていい」
「え?」
「今は、何も信じなくていい」
その言葉だけは、不思議と本音に聞こえた。
神代は扉へ向かう。
「休んでください」
部屋を出る直前、彼は振り返った。
「ただし、雨宮刑事に連絡するのはおすすめしません」
やっぱり、気づいていた。
あなたの手が、机の下で紙を握る。
「どうして」
「彼女は、あなたの過去を知っています」
「なら、聞いた方がいいじゃないですか」
「知ることと、耐えられることは違います」
扉が閉まった。
今度は、鍵の音がした。
小さく、確かに。
かちり。
あなたはしばらく動けなかった。
警察が来た。
それなのに、安心はどこにもなかった。
神代は優しい。
雨宮は冷たい。
けれど、どちらも何かを隠している。
机の下から、雨宮の紙を取り出す。
電話番号。
その下には何も書かれていない。
そう思った。
けれど、紙を裏返した瞬間、息が止まった。
小さな文字があった。
雨宮の字だろうか。
それとも、また別の誰かの字だろうか。
そこには、こう書かれていた。
君は被害者ではない。
視界が揺れた。
被害者ではない。
なら、自分は何なのか。
容疑者。
目撃者。
それとも、犯人。
頭の奥で、何かがひび割れる。
雨の音。
白いライト。
誰かの笑い声。
床に落ちた紙。
赤い染み。
そして、誰かが自分を呼ぶ声。
けれど名前の部分だけが、黒く塗りつぶされていた。
あなたは紙を握りしめる。
廊下の向こうで、誰かの足音がした。
一歩。
二歩。
あなたの部屋の前で止まる。
扉の下から、白い紙が一枚差し込まれた。
心臓が強く鳴る。
恐る恐る拾い上げる。
そこには、短く書かれていた。
次は、君が思い出す番。
部屋の外には、もう誰もいなかった。
高く、短く、耳の奥を刺すような音だった。
四階に来て。
赤黒い文字が書かれた紙袋を握りしめたまま、あなたはベッドの端に座っていた。廊下の向こうから、誰かが走る足音が聞こえる。複数の足音。急いでいるのに、叫び声はない。
それが、かえって不気味だった。
異常が起きている。
けれど、誰もそれを口にしない。
扉が叩かれた。
「開けます」
返事をする前に、神代が入ってきた。
いつもの黒い服。乱れていない髪。落ち着いた声。
けれど、その目だけは、わずかに鋭かった。
「ここから出ないでください」
「何があったんですか」
「確認中です」
「四階ですか」
神代の視線が、一瞬だけあなたの手元に落ちた。
紙袋。
あなたは慌ててそれを布団の下へ隠した。
神代は見たはずだった。
それでも何も言わない。
その沈黙が、かえって恐ろしかった。
「とにかく、朝まで部屋にいてください」
「閉じ込めるんですか」
「守るためです」
また、その言葉。
守る。
神代が言うたび、その意味が分からなくなる。
何から守っているのか。
誰から守っているのか。
それとも、自分が何かを知ることから守っているのか。
神代は扉の前で足を止めた。
「明日、少し騒がしくなるかもしれません」
「騒がしく?」
「警察が来ます」
警察。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に小さな光が差した。
助かるかもしれない。
ここで起きていることを、誰かに話せるかもしれない。
けれど、神代の表情は少しも安心していなかった。
「警察が来るなら、全部話します」
「何を?」
「白い部屋のこと。取調室のこと。四階のこと。赤い染みのこと」
神代は、静かにあなたを見た。
「話しても構いません」
意外な返事だった。
けれど、続いた言葉で胸が冷えた。
「ただ、信じてもらえるとは限りません」
扉が閉まる。
廊下では、まだ警報が鳴っていた。
あなたは布団の下から紙袋を取り出す。
四階に来て。
その文字は、消えていなかった。
翌朝。
建物の外に、車の音がした。
一台ではない。
複数の車が、砂利を踏むような低い音を立てて停まる。窓のカーテンを少しだけ開けると、曇ったガラスの向こうに黒い車と警察車両が見えた。
サイレンは鳴っていない。
赤色灯も回っていない。
ただ、静かに来た。
まるで、大きな事件を知らせに来たのではなく、隠していたものを確認しに来たようだった。
扉の外が慌ただしくなる。
足音。
低い話し声。
誰かが書類をめくる音。
扉が開閉する音。
けれど、誰も叫ばない。
誰も「大丈夫ですか」と言わない。
しばらくして、神代があなたを呼びに来た。
「話を聞きたいそうです」
「警察が?」
「ええ」
「私を助けに来たんですか」
神代は答えなかった。
その沈黙だけで、あなたは嫌な予感を覚えた。
案内されたのは、昨日とは別の部屋だった。
白い壁。
四角いテーブル。
向かい合う椅子。
窓はあるが、分厚いブラインドが下ろされている。外の光は細い線になって床へ落ちていた。
部屋の中には、女性が一人立っていた。
黒髪を後ろでひとつに結び、紺色のスーツを着ている。背筋はまっすぐで、表情は硬い。綺麗な顔立ちなのに、目だけが鋭く冷えていた。
その目が、あなたを見た。
心配ではない。
同情でもない。
好奇心でもない。
警戒。
まるで、保護する相手ではなく、注意深く見張る相手を見る目だった。
「雨宮千景です」
彼女は警察手帳を見せた。
「刑事です。少し話を聞かせてもらう」
大丈夫ですか、とは言わなかった。
怖かったでしょう、とも言わなかった。
被害者の方ですね、とも。
ただ、話を聞かせてもらう。
その言い方が、妙に冷たかった。
あなたが椅子に座ると、神代は部屋の端に立った。雨宮はそれを見て、眉をひそめる。
「神代さん。あなたには席を外していただきたいんですが」
「この人はまだ不安定な状態です。私がいた方が落ち着くでしょう」
「本人に聞いていません」
雨宮の視線があなたに戻る。
「二人で話せる?」
神代を見る。
彼は微笑んでいた。
穏やかに。
優しく。
けれど、その笑みの奥で、何かを待っている。
あなたは小さく頷いた。
「……大丈夫です」
神代の表情は変わらなかった。
けれど、空気が少しだけ冷えた気がした。
「では、外にいます」
神代はそう言って部屋を出た。
扉が閉まる。
雨宮は、しばらく黙っていた。
足音が遠ざかるのを待っているようだった。
完全に静かになってから、彼女は椅子に座った。
「君は、どこまで覚えている?」
君。
その呼び方に、胸が引っかかる。
「何も」
「名前も?」
「はい」
「昨日のことは?」
「白い部屋で目を覚ましたことは覚えています」
「白い部屋」
雨宮はメモを取る。
「そこには何があった?」
「椅子と、机と、紙が一枚」
雨宮のペンが止まった。
「紙?」
その聞き方が、少しだけ不自然だった。
知っている。
そう感じた。
「……何の紙か、知っているんですか」
「質問しているのは私」
「警察は、あの紙を知ってるんですね」
雨宮は答えなかった。
ペンを持ち直す。
「紙には、何と書いてあった?」
あなたは迷った。
逃げろ。
探偵を信じるな。
言っていいのか。
言った瞬間、何かが動いてしまう気がした。
「逃げろ、と」
雨宮の顔がわずかに強張った。
本当に、ほんのわずか。
けれど確かに。
「裏は?」
「……最初は何も」
「最初は?」
しまった、と思った。
雨宮の目が鋭くなる。
「あとで、文字が浮かびました」
「何と?」
唇が乾く。
「探偵を信じるな」
雨宮はすぐには反応しなかった。
ただ、ゆっくりと目を伏せた。
その沈黙は、驚きではなかった。
確認に近かった。
「神代悠真を、どう思う?」
「分かりません」
「信用している?」
「分かりません」
「それはいい答え」
雨宮は小さく言った。
褒められた気はしなかった。
「神代さんと知り合いなんですか」
「知り合いというほど親しくはない」
「でも、知っているんですね」
「事件の現場で何度か会っている」
事件。
その言葉が、部屋の温度を下げた。
「神代さんは探偵ですよね」
「そう名乗っている」
「名乗っている?」
雨宮はペンを置いた。
「神代悠真は、事件が起きる場所に現れる。被害者の近くにいる。容疑者の近くにもいる。そしていつも、自分は偶然そこにいただけだと言う」
胸の奥で、何かがざわめく。
神代の声が蘇る。
偶然ですよ。
あなたを守るためです。
「君は、神代に何を聞かされた?」
「記憶が不安定だと。無理に思い出さない方がいいって」
「それだけ?」
「名前は、自分で思い出す必要がある、とも」
雨宮の口元が、少しだけ歪んだ。
「都合のいい言い方ね」
「私の名前を知っているんですか」
雨宮は黙った。
まただ。
神代と同じ。
誰も、名前を教えてくれない。
「どうして誰も教えてくれないんですか」
「教えた瞬間、君がどうなるか分からないから」
「それも、私のためですか」
「違う」
雨宮は即答した。
その速さに、胸が少しだけ揺れた。
「私たちのためでもある」
意味が分からなかった。
「私は、被害者なんですか」
ずっと聞きたかった問いだった。
白い部屋で目覚めた。
記憶を失っていた。
謎の紙を持っていた。
施設には赤い染みがあり、四階は封鎖されている。
普通なら、自分は被害者のはずだった。
けれど、誰もそう呼ばない。
雨宮も、神代も。
誰も。
雨宮は答えるまでに時間をかけた。
その沈黙が、答えだった。
「今は、君の立場を断定できない」
胸の奥が冷たくなる。
「断定できないって、どういう意味ですか」
「そのままの意味」
「私は何かしたんですか」
「それを調べている」
息が詰まった。
被害者として話を聞かれているのではない。
疑われている。
自分が何をしたのかも分からないまま。
雨宮は透明な証拠袋を取り出した。
中には、一枚の紙が入っている。
白い紙。
中央に、黒い文字。
次は君だ。
手の中が冷える。
「これに見覚えは?」
「ありません」
「本当に?」
「ないです」
でも。
筆跡に、見覚えがある気がした。
逃げろ、と書かれていた紙。
鏡に浮かんだ文字。
薬の紙袋の裏に書かれた、四階に来て。
全部、どこか似ている。
そして何より、目の前の文字が、自分の手で書かれたもののように感じた。
なぜ、そう思うのか分からない。
雨宮はその表情を見逃さなかった。
「何か思い出した?」
「違います」
「違う?」
「思い出したんじゃなくて……知っている気がしただけです」
「その違いは大きい?」
答えられなかった。
そのとき、扉が叩かれた。
神代が入ってくる。
「そろそろ休ませてあげてください」
雨宮は素早く証拠袋をしまった。
神代はそれを見た。
見たはずなのに、何も言わなかった。
その沈黙が、二人の間にある共犯めいた空気を感じさせた。
「まだ質問は終わっていません」
雨宮が言う。
「この人は昨日から眠れていない。無理をさせれば、記憶がさらに混乱する」
「記憶が戻ると困るような言い方ですね」
「刑事さんは、疑うのが仕事ですからね」
「ええ。だからあなたを疑っています」
二人の間に、目に見えない火花が散る。
神代は笑っている。
雨宮は笑わない。
あなたは、その間に座っていた。
まるで、証言台に立たされているようだった。
「雨宮さん」
あなたは小さく声を出した。
二人の視線が同時に向く。
「警察は、何をしに来たんですか」
雨宮は一瞬だけ神代を見た。
神代は何も言わない。
「今朝、この施設の近くで身元不明の人物が発見された」
身元不明。
その言葉が、妙に重かった。
「私と関係があるんですか」
「それを調べに来た」
「その人は……」
それ以上、聞くのが怖かった。
雨宮は言葉を選ぶように続ける。
「命に別状はない。ただ、君と同じように記憶が混乱している」
同じように。
自分だけではない。
記憶を失っている人間が、他にもいる。
神代の表情を見た。
彼は、驚いていなかった。
やっぱり。
知っていた。
「神代さん」
雨宮が立ち上がる。
「施設の記録を見せてください。昨日の夜間記録、四階の管理記録、監視カメラの映像も」
「私はこの施設の職員ではありません」
「でも、全てを知っている顔をしている」
「買いかぶりです」
「あなたの偶然は、いつも事件の中心にある」
雨宮の声は低かった。
「今回も、偶然ですか」
神代は微笑む。
「ええ」
その笑顔が、怖かった。
雨宮は部屋を出る前に、あなたの横を通った。
その瞬間、小さな紙を机の端に滑らせる。
神代からは見えない角度だった。
雨宮は低い声で言う。
「何か思い出したら、連絡して」
紙には電話番号が書かれていた。
「私を信じてくれるんですか」
雨宮は足を止めた。
少しだけ振り返る。
「信じるかどうかは、まだ決めていない」
冷たい言葉。
けれど、嘘ではない。
神代の優しさより、ずっと信用できる気がした。
「でも、神代を信用しすぎるな」
その言葉に、胸が跳ねる。
探偵を信じるな。
同じ意味の警告。
雨宮はそのまま部屋を出ていった。
警察が帰るまで、施設内は妙な緊張に包まれていた。
廊下には制服警官が立ち、職員たちは目を伏せて歩く。誰も警察に助けを求めようとはしない。むしろ、見つからないように息を潜めているようだった。
雨宮が職員に質問するたび、職員は神代を見る。
神代は少し離れた場所で、穏やかに立っているだけだった。
それだけで、職員の言葉は短くなる。
知りません。
分かりません。
記録にありません。
まるで、この建物全体が同じ嘘を共有しているみたいだった。
昼過ぎ、警察車両は静かに施設を離れた。
サイレンは最後まで鳴らなかった。
車の音が遠ざかると、建物はまた元の静けさに戻った。
けれど、あなたの中には戻らなかった。
警察が来ても、何も解決しなかった。
むしろ、謎は増えた。
神代が部屋に戻ってくる。
「疲れましたね」
彼は、何事もなかったように言った。
あなたは机の上の紙を手で隠す。
雨宮の電話番号。
神代は気づいているのか、いないのか。
分からない。
「雨宮刑事の言うことは、あまり真に受けない方がいい」
「どうしてですか」
「彼女は、あなたを守りたいわけではありません」
「じゃあ、何のために来たんですか」
神代は静かにあなたを見る。
「あなたが、まだ危険かどうかを確かめに来たんです」
危険。
自分が?
「私は、危険なんですか」
「今はまだ、分かりません」
雨宮と同じことを言う。
けれど、神代の声で聞くと、意味が違って聞こえた。
「神代さんは、私を何だと思っているんですか」
神代は答えなかった。
ただ、少しだけ寂しそうに笑った。
「あなたがあなたであることを、思い出してほしいと思っています」
「名前は教えてくれないのに?」
「名前だけが、あなたではありません」
「でも、私には名前も顔も記憶もない」
声が震えた。
「それで、どうやって自分を信じればいいんですか」
神代の微笑みが、消えた。
初めて見る表情だった。
ほんの一瞬、彼はひどく疲れた人の顔をした。
「信じなくていい」
「え?」
「今は、何も信じなくていい」
その言葉だけは、不思議と本音に聞こえた。
神代は扉へ向かう。
「休んでください」
部屋を出る直前、彼は振り返った。
「ただし、雨宮刑事に連絡するのはおすすめしません」
やっぱり、気づいていた。
あなたの手が、机の下で紙を握る。
「どうして」
「彼女は、あなたの過去を知っています」
「なら、聞いた方がいいじゃないですか」
「知ることと、耐えられることは違います」
扉が閉まった。
今度は、鍵の音がした。
小さく、確かに。
かちり。
あなたはしばらく動けなかった。
警察が来た。
それなのに、安心はどこにもなかった。
神代は優しい。
雨宮は冷たい。
けれど、どちらも何かを隠している。
机の下から、雨宮の紙を取り出す。
電話番号。
その下には何も書かれていない。
そう思った。
けれど、紙を裏返した瞬間、息が止まった。
小さな文字があった。
雨宮の字だろうか。
それとも、また別の誰かの字だろうか。
そこには、こう書かれていた。
君は被害者ではない。
視界が揺れた。
被害者ではない。
なら、自分は何なのか。
容疑者。
目撃者。
それとも、犯人。
頭の奥で、何かがひび割れる。
雨の音。
白いライト。
誰かの笑い声。
床に落ちた紙。
赤い染み。
そして、誰かが自分を呼ぶ声。
けれど名前の部分だけが、黒く塗りつぶされていた。
あなたは紙を握りしめる。
廊下の向こうで、誰かの足音がした。
一歩。
二歩。
あなたの部屋の前で止まる。
扉の下から、白い紙が一枚差し込まれた。
心臓が強く鳴る。
恐る恐る拾い上げる。
そこには、短く書かれていた。
次は、君が思い出す番。
部屋の外には、もう誰もいなかった。


