あなたが最後に見た景色

 朝は、静かに来た。

 目を覚ました瞬間、昨日までとは違う天井が視界に入った。淡い色の壁。柔らかい光を通すカーテン。棚に並んだ本の背表紙。観葉植物の葉が、空調の風にかすかに揺れている。

 一見すれば、落ち着いた部屋だった。

 けれど、その静けさは安らぎではなかった。

 どれだけ耳を澄ませても、廊下を行き交う人の気配は薄い。遠くで低く唸る機械音だけが、建物の奥から途切れず響いている。

 昨夜の鏡。

 名前を思い出すな。

 見つけて。

 あの文字は、本当に鏡に浮かんだのだろうか。

 それとも、記憶を失った頭が見せた幻だったのか。

 考えようとすると、こめかみが鈍く痛んだ。

 ベッドの上で体を起こす。
 喉が乾いていた。けれど、洗面所へ行く気にはなれなかった。

 あの鏡を見るのが怖かった。

 そのとき、扉が二度、軽く叩かれた。

「起きていますか」

 神代の声だった。

 反射的に背筋がこわばる。

「……はい」

 扉が開く。

 神代悠真は、昨日と同じ黒い服を着ていた。暗い色のシャツに、細身のジャケット。乱れのない髪。穏やかな表情。

 まるで、この建物の中で起きることすべてを最初から把握している人のようだった。

「朝食を持ってきました」

 彼は白いトレーを机に置いた。

 トースト。
 薄い色のスープ。
 小さなカップに入ったコーヒー。

 あまりにも普通の朝食だった。

 だからこそ、奇妙だった。

 白い部屋。
 取調室。
 開かない窓。
 逃げろと書かれた紙。
 顔の映らない鏡。

 それらのあとに出されたトーストは、まるで悪夢の中にだけ置かれた日常の切れ端みたいに見えた。

「食べられそうですか」

 神代が聞く。

「……あまり」

「無理はしないでください。けれど、少しでも口に入れた方がいい」

 優しい言い方だった。

 けれど、その優しさは逃げ道を塞ぐ壁のようでもあった。

 食べなければならない。
 休まなければならない。
 思い出してはいけない。

 すべてが、神代の声で決められていく。

 トーストを一口だけかじる。味はほとんど分からなかった。スープも同じだった。温かいはずなのに、胃の底へ落ちていく感覚だけが妙に生々しい。

 神代は向かいの椅子に腰を下ろし、こちらを見ていた。

 観察されている。

 ふと、そう思った。

 心配しているように見える視線。
 けれど、それは熱を測る医師の目ではなく、反応を記録する研究者の目に近かった。

「少し、歩きませんか」

「歩く?」

「ずっと部屋にいると、余計に不安になります。建物の中を少し見て回りましょう」

「ここは……病院なんですか」

 昨日から、何度も飲み込んできた問いだった。

 神代は、すぐには答えなかった。

 ほんの一拍。

 それだけの間が、胸に引っかかった。

「似たようなものです」

「似たようなもの?」

「療養と保護を目的とした施設です」

 病院とは言わない。

 やっぱり。

 言葉にできない違和感が、喉の奥に溜まっていく。

「じゃあ、なぜ取調室なんて部屋があるんですか」

 神代の指が、カップの縁で止まった。

 それは本当に一瞬のことだった。

 けれど、見逃せなかった。

「古い建物ですから、以前はいろいろな用途で使われていたんです」

「以前?」

「詳しいことは、あなたの体調が戻ってから話します」

 まただ。

 あなたのため。
 体調が戻ってから。
 焦らない方がいい。

 神代は、答えないための言葉をいくつも持っている。

 そのことに気づくたび、この人が遠くなる。

 朝食を半分ほど残して、部屋を出た。

 廊下は、昨日より明るく見えた。

 天井の蛍光灯が等間隔に並び、白に近い光を落としている。壁は薄い灰色で、ところどころに小さな傷がある。床は磨かれているのに古く、光をぼんやり反射していた。

 空気は冷たい。

 消毒液の匂いは薄い。代わりに、湿った紙と古い木材、かすかな薬品の匂いが混じっている。

 廊下の奥に、白衣の人物が一人いた。

 こちらに気づいた瞬間、その人は目を逸らした。

 神代を見る。
 すぐに頭を下げる。
 そして、足早に横の部屋へ消えた。

 その様子が、不自然だった。

 まるで、神代に見つかってはいけないことをしていたみたいに。

「職員の方ですか」

「ええ」

「私のこと、知っているんですか」

「どうでしょう」

 神代は前を向いたまま答える。

「ここでは、皆さん他人の事情に踏み込みません」

 嘘だ、と思った。

 さっきの人は、明らかにこちらを知っている目をしていた。

 廊下を進む。

 足音が、床に乾いた音を立てる。

 しばらく歩いたところで、神代が少しだけ歩調を緩めた。視線が廊下の先へ動く。

 その一瞬の動きが気になった。

 神代は、何かを避けようとしている。

 そう思った直後だった。

 床に、赤黒い染みがあった。

 廊下の角。

 壁際から少し離れた場所。

 磨かれた床の上に、乾いて固まったような色が、細く伸びていた。

 最初は泥かと思った。

 けれど、泥にしては色が深い。茶色に近い赤。乾いて黒ずみ、光を反射しない。

 足を止める。

「これ……」

 神代も止まった。

 彼は床を見た。

 表情は変わらない。

 変わらなすぎた。

 普通なら、驚く。
 少なくとも、何かしら反応する。

 けれど神代は、そこに染みがあることを初めから知っていたように、ただ静かに見下ろしていた。

「行きましょう」

「何ですか、これ」

「古い汚れです」

「赤いです」

「錆かもしれません」

 錆。

 この床に?

 その言葉は、あまりにも苦しかった。

 しゃがみ込もうとした瞬間、神代の声が鋭くなった。

「触らないでください」

 手が止まる。

 初めて聞く声だった。

 昨日からずっと、神代は穏やかだった。柔らかく、落ち着いて、こちらを怖がらせないように話していた。

 けれど今の声には、刃物のような硬さがあった。

 顔を上げる。

 神代はすぐに微笑んだ。

「すみません。衛生的によくないので」

 遅れて足した理由。

 その順番が、ひどく気になった。

 触らせたくなかった。
 衛生面は、後から付けた言い訳。

 床の染みを見つめる。

 乾いている。

 完全に。

 表面に光沢はない。古い絵の具のように床へ貼りつき、端の部分だけが薄く擦れている。誰かが踏んだのか、あるいは何度も拭こうとしたのか、色が線のように伸びていた。

 これは、今日ついたものではない。

 昨日でもない。

 もっと前から、ここにある。

「どうして、掃除しないんですか」

「落ちない汚れもあります」

「病院みたいな施設なのに?」

 神代の目が、少しだけ細くなる。

「似たようなもの、と言ったはずです」

 その訂正に、背筋が冷える。

 病院ではない。

 神代は最初から、そう言っている。

 廊下の向こうから、清掃用のカートを押す女性が来た。

 中年くらいの女性だった。灰色の制服を着て、髪を後ろでまとめている。

 彼女は染みに目を向けた。

 次に、こちらを見た。

 そして最後に、神代を見た。

 顔色が明らかに変わった。

「あの」

 声をかけると、女性は肩を震わせた。

「この染み、何か知っていますか」

 女性は口を開きかけた。

 けれど、神代が一歩前に出る。

 それだけで、女性の口は閉じた。

「……知りません」

 小さな声だった。

「でも、掃除の方ですよね」

「知りません」

 同じ言葉を繰り返し、女性はカートを押して足早に去っていく。

 車輪の音が、廊下の奥へ逃げるように遠ざかった。

 神代は何も言わない。

 それが、答えのように思えた。

「今の人、何か知ってますよね」

「人は、知らないことを聞かれると怯えるものです」

「違います。あの人は神代さんを見て黙った」

 神代は、こちらを見た。

 静かな目だった。

 怒ってはいない。
 笑ってもいない。

 ただ、感情の温度だけが消えていた。

「あなたは、よく見ていますね」

 褒め言葉のはずなのに、そう聞こえなかった。

 まるで、注意すべき対象として認識されたような気がした。

 その後、神代は染みのある角を避けるように廊下を曲がった。

 通されたのは、待合室のような場所だった。

 壁際にいくつか椅子が並び、低いテーブルの上に古い雑誌や新聞が置かれている。窓はあるが、白いカーテンが閉め切られ、外の景色は見えない。

 誰もいない。

 時計だけが、静かに動いている。

「少し休みましょう」

 神代はそう言って、飲み物を取りに行くと言い残した。

 一人になった瞬間、空気が少し軽くなる。

 それが、自分でも怖かった。

 神代が近くにいないだけで、息がしやすい。

 テーブルの上の新聞を手に取る。

 日付を見る。

 去年。

 しかも、月がばらばらだった。

 最新のものは一つもない。

 紙は黄ばみ、端が少し波打っている。長く同じ場所に置かれていたのか、折り目に埃が溜まっていた。

 適当にめくる。

 地域欄。
 事故の記事。
 小さな広告。

 そして、一面の片隅が切り取られている新聞を見つけた。

 四角く、綺麗に。

 はさみで切ったような跡。

 切り抜かれた周囲に、かろうじて残った文字があった。

 ――連続。
 ――被害者。
 ――笑顔。

 指先が止まる。

 笑顔。

 なぜ、その言葉に胸がざわつくのか分からなかった。

 さらに別の新聞をめくる。

 また、同じ場所が切り取られている。

 次も。
 その次も。

 事件の記事だけが、消されている。

「何を読んでいるんですか」

 背後から声がして、新聞を取り落としそうになった。

 神代が、いつの間にか戻ってきていた。

 手には紙コップが二つ。

 足音がしなかった。

「古い新聞しかないんですね」

「ええ。ここは外部との接触が少ないので」

「この記事、切り取られています」

 神代は新聞を見た。

 そして、何でもないことのように言う。

「誰かが必要だったんでしょう」

「何を?」

「さあ」

 神代は紙コップを差し出した。

 受け取るしかなかった。

 温かいはずのコップが、なぜか手の中で冷たく感じる。

「神代さんは、私に何を隠しているんですか」

 自分でも驚くほど、まっすぐな声だった。

 神代は困ったように笑った。

「隠しているわけではありません」

「じゃあ、説明してください。白い部屋のこと。取調室のこと。鏡のこと。廊下の染みのこと。新聞の記事のこと」

 言葉が止まらなかった。

「それから、私の名前」

 最後の言葉に、神代の表情がほんの少しだけ動いた。

「今はまだ」

「また、それですか」

「あなたを守るためです」

「何から?」

 神代は答えない。

 代わりに、視線を外した。

 その沈黙が、何よりも雄弁だった。

 待合室を出て、再び廊下を歩いた。

 さっきの染みとは別の場所にも、赤黒い跡があった。

 今度は壁だった。

 白いペンキで上から塗られている。けれど完全には隠しきれていない。光の角度によって、下からにじむように赤黒い色が浮かび上がる。

 神代はそれを見ようとしない。

 見ないようにしている。

 その横顔を見て、確信に近いものが生まれた。

 彼は知らないのではない。
 知っていて、見ないふりをしている。

 白衣の女性とすれ違った。

 彼女は立ち止まりかけた。

 こちらを見て、口を開く。

 何か言おうとしていた。

 けれど、神代が彼女を見た。

 たったそれだけで、女性は目を伏せた。

「……失礼します」

 小さく頭を下げて、通り過ぎていく。

 まただ。

 この建物にいる人たちは、神代を恐れている。

 尊敬ではない。
 信頼でもない。

 もっと息苦しいもの。

 逆らってはいけない相手を見る目。

「皆さん、神代さんのことを見ますね」

「私が外部の人間だからでしょう」

「私にはそう見えません」

「では、どう見えますか」

 神代は足を止めずに聞いた。

 その背中に向かって答える。

「怖がっているように見えます」

 神代は小さく笑った。

「想像力が豊かですね」

 軽く流された。

 でも、その笑い方は優しくなかった。

 廊下の突き当たりにエレベーターがあった。

 古い型で、銀色の扉には細かな傷がいくつもついている。横に並んだボタンは、地下、一階、二階、三階、四階、五階。

 けれど、四階のボタンだけに透明なカバーがかけられていた。

 押せないようになっている。

「四階は?」

「使っていません」

 神代は即答した。

「故障ですか」

「いいえ」

「じゃあ、どうして」

「必要がないからです」

 必要がない。

 建物の一つの階を丸ごと?

 そんな理由で封鎖するだろうか。

「四階には何があるんですか」

「何もありません」

 神代は微笑んだ。

 その笑顔を見て、昨日の鏡の文字を思い出す。

 探偵を信じるな。

 それは、もしかすると本当に警告だったのかもしれない。

 エレベーターには乗らず、別の廊下へ向かった。

 途中、非常階段の扉があった。

 小さな窓から、薄暗い階段が見える。

 神代が先に進む。

 その隙に、扉へ手をかけた。

 開いた。

 一段だけ足を踏み入れる。

 冷たい空気が下から吹き上げてきた。階段の壁には古い非常灯が光っている。上へ続く階段も見えた。

 四階へ行けるかもしれない。

 そう思った瞬間、背後から声がした。

「どこへ行くつもりですか」

 振り返る。

 神代が立っていた。

 いつの間に。

 その言葉が、喉元で消えた。

「少し、階段を見ただけです」

「まだ長く歩ける状態ではありません」

「四階に行かれたら困るんですか」

 神代は黙った。

 短い沈黙。

 それだけで十分だった。

「何か、あるんですね」

「ありません」

「じゃあ、行ってもいいですよね」

「駄目です」

 今度は、はっきりとした拒絶だった。

 神代の声が低くなる。

「今のあなたには、まだ早い」

「また、私のためですか」

「そうです」

「私が何を思い出すと、困るんですか」

 神代の目が揺れた。

 ほんの一瞬。

 でも、確かに。

 揺れた。

 彼はすぐにいつもの表情に戻る。

「部屋へ戻りましょう」

 それは提案ではなかった。

 指示だった。

 戻る途中、廊下の壁に違和感を覚えた。

 壁紙の一部分だけ、色が違う。

 他より少し新しい。貼り替えられた跡のように、境目がうっすら残っている。

 神代は先を歩いている。

 足を止め、壁に触れる。

 指先に、わずかな段差。

 軽く叩く。

 コン。

 もう一度、隣を叩く。

 コツ。

 音が違う。

 ここだけ、奥に空洞がある。

 胸が跳ねた。

 壁の向こうに、何かがある。

「どうしました?」

 背後から声。

 思わず手を離した。

 神代がすぐ後ろに立っていた。

 距離が近い。

 近すぎる。

「……少し、めまいが」

「そうですか」

 神代は壁を見た。

 一瞬だけ、表情が消えた。

 それから、いつもの微笑みを浮かべる。

「古い建物ですから、音の響きが場所によって違うんです」

 何も言っていないのに。

 音のことなど、まだ話していないのに。

 神代は、なぜそれを知っている?

 部屋へ戻ると、神代は薬らしきものを置いていった。

「頭痛があるなら飲んでください」

 白い錠剤が二つ。

 小さな紙袋に入っているだけで、薬の名前は書かれていない。

「これは?」

「鎮痛剤です」

「名前が書いてありません」

「施設内で管理しているものです」

「飲まなかったら?」

 神代は少し笑った。

「それは、あなたの自由です」

 自由。

 鍵のかかる部屋で。
 押せない四階があって。
 名前も顔も教えられず。
 答えを求めるたび止められる場所で。

 自由。

 その言葉が、ひどく皮肉に聞こえた。

 神代が出ていったあと、薬は飲まなかった。

 机の引き出しを開け、小さな紙袋ごと奥へ押し込む。

 その夜、眠れなかった。

 部屋の照明を消しても、まぶたの裏に赤黒い染みが浮かんだ。

 乾いた床。
 壁に塗られたペンキ。
 切り抜かれた新聞記事。
 押せない四階。
 音の違う壁。

 そして神代の声。

 触らないでください。
 今のあなたには、まだ早い。
 あなたを守るためです。

 守る。

 何から?

 真実から?

 それとも、過去の自分から?

 時計を見る。

 午前二時を少し過ぎていた。

 建物の中は静まり返っている。

 今なら。

 そう思った瞬間、体が動いていた。

 靴を履き、扉をそっと開ける。

 廊下は暗かった。

 昼間とは別の場所のように見える。

 非常灯の赤い光が、床に長く伸びている。蛍光灯は半分ほど消され、壁の傷も、扉の影も、すべてが深く沈んでいた。

 足音を殺して歩く。

 昼間見た、赤黒い染みの場所へ向かった。

 そこに近づくにつれ、胸の鼓動が速くなる。

 角を曲がる。

 あった。

 床の染みは、暗がりの中でさらに濃く見えた。

 赤というより、黒。

 乾いて、こびりついて、時間だけが上から積もったような跡。

 しゃがみ込む。

 触らないでください。

 神代の声が頭に蘇る。

 でも、今は彼はいない。

 指を伸ばしかけて、止めた。

 染みの横に、小さな文字があった。

 床に、誰かが指でなぞったような跡。

 昼間はなかった。

 いや、気づかなかっただけかもしれない。

 非常灯の赤い光の下で、その文字はかすかに浮かび上がっていた。

 まだある。

 息を呑む。

 まだある。

 何が?

 染みが?
 事件が?
 隠された部屋が?
 それとも、被害者が?

 瞬きをした。

 文字は消えていた。

 床には、ただ乾いた赤黒い染みだけが残っている。

 背後で、かすかな音がした。

 振り返る。

 廊下の奥に、人影があった。

 黒いコート。

 帽子。

 顔は見えない。

 その人影は、こちらを見ていた。

 逃げなければ。

 そう思った瞬間、人影はゆっくりと右手を上げた。

 指さしている。

 染みではない。

 壁。

 昼間、音が違ったあの壁の方角。

 次の瞬間、廊下の照明が一斉に点いた。

 まぶしさに目を細める。

 もう一度見たとき、黒いコートの人影はいなかった。

「こんな時間に、何をしているんですか」

 背後から声がした。

 神代だった。

 心臓が、強く跳ねる。

 ゆっくり振り返る。

 神代は廊下の中央に立っていた。寝ていた様子はない。乱れもなく、昨日と同じように整っている。

 まるで、最初からここで待っていたみたいだった。

「眠れなくて」

「そうですか」

 神代の視線が床の染みに落ちる。

 そして、壁へ。

 一瞬だけ、彼の目が冷たくなった。

「部屋へ戻りましょう」

「今、誰かいました」

「誰もいません」

「黒いコートの人が」

「見間違いです」

「でも」

「見間違いです」

 二度目の声は、明らかに強かった。

 廊下の空気が、さらに冷える。

 神代はこちらへ歩いてくる。

 その足音は静かで、規則正しい。

「夜中は記憶が乱れやすいと言ったはずです」

「全部、記憶のせいにするんですね」

 神代の足が止まった。

 少しだけ、沈黙が落ちる。

「あなたが傷つくよりは、その方がいい」

 低い声だった。

 優しさにも聞こえる。
 脅しにも聞こえる。

「傷つくようなことが、あるんですか」

 神代は答えなかった。

 ただ、こちらに手を差し出した。

「戻りましょう」

 その手を取る気にはなれなかった。

 けれど、拒むこともできなかった。

 神代の横を通り過ぎる。

 そのとき、床の染みにもう一度目を向けた。

 文字はない。

 まだある。

 あれは幻だったのか。

 それとも、誰かが確かに残したメッセージだったのか。

 部屋へ戻る直前、神代が言った。

「明日からは、勝手に出歩かないでください」

「命令ですか」

「お願いです」

 彼は微笑んだ。

 けれど、その目は笑っていなかった。

「あなたが思っているより、この建物は安全ではありません」

 その言葉に、足が止まる。

「だったら、どうして私はここにいるんですか」

 神代は、静かにこちらを見た。

 そして言った。

「ここにいる方が、外よりは安全だからです」

 扉が閉まる。

 鍵の音はしなかった。

 けれど、閉じ込められた感覚だけが残った。

 ベッドに腰を下ろし、手のひらを見つめる。

 逃げろ。

 探偵を信じるな。

 名前を思い出すな。

 見つけて。

 まだある。

 増えていく言葉たちが、頭の中でばらばらに散らばる。

 でも、その中心にはいつも神代がいた。

 優しく笑う探偵。

 答えを隠す男。

 職員たちが恐れる人。

 四階を封じる人。

 そして、何かから自分を守ろうとしているのか、それとも何かへ誘導しているのか分からない人。

 窓の外はまだ暗い。

 眠れないまま朝を待っていると、ふと、机の引き出しの中から小さな音がした。

 かさり。

 息を止める。

 引き出しを開ける。

 そこには、神代が置いていった薬の紙袋がある。

 飲まなかったはずの白い錠剤。

 その紙袋の裏に、いつの間にか文字が書かれていた。

 赤黒い、細い文字。

 ――四階に来て。

 指先が震えた。

 その瞬間、廊下の向こうで、何かが落ちる音がした。

 乾いた、重い音。

 部屋の扉の下から、赤い光が細く差し込んでいる。

 非常灯の光ではない。

 もっと濃く、もっと生々しい色。

 あなたは、紙袋を握りしめる。

 四階に来て。

 その言葉が、今度ははっきりと読めた。

 この建物には、まだ何かがある。

 そして神代は、それを知っている。