走っていた。
どこへ向かっているのかも分からないまま、ただ足だけが前へ出ていた。
白い部屋を飛び出したあと、目の前に続いていたのは、暗く長い廊下だった。壁は灰色で、床には古いワックスの匂いが染みついている。どこか遠くで機械の低い音が鳴っていた。
手の中には、しわくちゃになった紙がある。
逃げろ。
探偵を信じるな。
二つの言葉が、頭の中で交互に響いていた。
背後から、足音が近づいてくる。
「待ってください」
優しい声だった。
けれど、もうその声を信じてはいけない気がした。
角を曲がる。
廊下の先に、赤い非常灯がぼんやりと光っていた。その下に扉がある。出口かもしれない。そう思った瞬間、足がもつれた。
視界がぐらりと揺れる。
頭の奥が、鈍く脈打った。
床が近づいてくる。
倒れる、と思った。
その直前、誰かの腕が体を支えた。
「無理をしないでください」
耳元で声がした。
あの声だった。
逃げなければ。
そう思うのに、体が動かない。
指先から力が抜けていく。握っていた紙が、床へ落ちたような気がした。
白い光が遠ざかる。
暗闇に沈む寸前、最後に聞こえたのは、その人の静かな声だった。
「まだ、思い出さなくていい」
次に目を開けたとき、世界は少しだけ柔らかくなっていた。
天井は白かった。
けれど、さっきの部屋とは違う。
真っ白ではない。ほんの少しだけ黄色がかっていて、照明もやわらかい。空気には消毒液ではなく、古い本とコーヒーのような匂いが混じっていた。
体を起こすと、そこは小さな部屋だった。
ソファがある。
本棚がある。
窓には白いカーテンがかかっていて、壁際には観葉植物が置かれている。
先ほどの白い部屋と比べれば、ずっと人が暮らしている場所に近かった。
「目が覚めましたか」
声がして、反射的に肩が震えた。
振り向くと、窓際に男が立っていた。
黒い服。
整った横顔。
落ち着いた声。
年齢は三十代半ばくらいに見える。穏やかで、知的で、こちらを怖がらせない距離を選んで立っている。
けれど、その優しさが、今はひどく不気味だった。
「大丈夫です。ここは安全です」
男はそう言った。
安全。
その言葉が、胸の奥に引っかかる。
安全な場所で、人は閉じ込められるのだろうか。
安全な場所で、「逃げろ」なんて紙を握りしめるのだろうか。
自分の手を見る。
紙がない。
息が止まった。
ポケットを探る。
ソファの上を見る。
足元を見る。
ない。
逃げろと書かれた紙も、裏に浮かんだ「探偵を信じるな」という文字も、どこにもなかった。
「何か探していますか」
男が聞く。
声は変わらず優しい。
だからこそ、答えられなかった。
「……いえ」
「そうですか」
男は深く追及しなかった。
それもまた、不自然だった。
普通なら聞くはずだ。
何を探しているのか。
なぜ廊下を走ったのか。
なぜ逃げようとしたのか。
けれど男は、まるで最初から全部知っているみたいに、何も聞かなかった。
「私は神代悠真です」
男はゆっくりと名乗った。
「私立探偵をしています」
探偵。
その言葉を聞いた瞬間、背筋が冷たくなる。
探偵を信じるな。
紙に浮かんだ文字が、まぶたの裏に蘇った。
目の前の男が、その探偵なのだろうか。
確かめたくても、声が出ない。
神代は、こちらの反応を見て小さく微笑んだ。
「混乱しているのは当然です。あなたは今、記憶が不安定な状態にあります」
「記憶……」
自分の声が、ひどく遠く聞こえた。
「はい。無理に思い出そうとしないでください。頭痛がひどくなるだけです」
その言い方は、心配しているようにも聞こえた。
けれど同時に、命令にも聞こえた。
思い出すな。
さっき、誰かがそう言った。
あれは、この人の声だっただろうか。
分からない。
「私は……」
言葉が喉に引っかかる。
自分のことを何と呼べばいいのか分からなかった。
私。
僕。
俺。
名前。
そのどれもが、自分のものではない気がした。
「私は、誰なんですか」
ようやく絞り出した問いに、神代はすぐには答えなかった。
窓の外から差し込む淡い光が、彼の顔半分を照らしている。もう半分は影に沈んでいて、表情が読み取りにくい。
「それは、あなた自身に思い出してもらう必要があります」
「名前は?」
「今は、焦らない方がいい」
「でも、あなたは知っているんですよね」
神代は微笑んだままだった。
その笑顔が、ほんのわずかに薄くなる。
「知っていることと、伝えていいことは違います」
「どういう意味ですか」
「あなたのためです」
その言葉で、胸の奥に小さな棘が刺さった。
あなたのため。
それは、とても便利な言葉だと思った。
何も説明しなくていい。
何も答えなくていい。
ただ相手を黙らせるために使える言葉。
神代は机の上にあるメモ帳を指さした。
「試してみますか」
「何を」
「名前を、書けるかどうか」
机にはペンとメモ帳が置かれていた。
いつからそこにあったのか分からない。目を覚ましたときからあったのか、それとも神代が用意したのか。
ペンを持つ。
手は自然に動いた。
持ち方は覚えている。
文字の書き方も分かる。
線を引くことも、丸を書くこともできる。
けれど。
名前だけが出てこない。
紙の上でペン先が止まった。
何かを書こうとすると、頭の中が白く塗りつぶされる。そこにあるはずの文字が、寸前で消えてしまう。
ひと文字目さえ分からない。
名字も。
下の名前も。
呼ばれていたあだ名も。
何も。
手が震え、ペン先が紙に黒い点を作った。
神代が静かに言う。
「無理をしなくていい」
その言葉に、なぜか腹の底が冷えた。
無理をしなくていい。
思い出さなくていい。
忘れていていい。
そう言われている気がした。
ペンを置く。
椅子から立ち上がろうとして、ふらついた。
「どこへ?」
「顔を、洗いたいです」
神代は少しだけ間を置いた。
それから、部屋の奥にある扉を指さした。
「あちらに洗面所があります」
扉の向こうは小さな洗面所だった。
白い洗面台。
銀色の蛇口。
壁に取りつけられた鏡。
蛇口をひねると、冷たい水が流れた。
手にすくって顔を洗う。
水の冷たさが、少しだけ意識をはっきりさせてくれた。
顔を上げる。
鏡を見る。
そして、息を呑んだ。
見えない。
鏡はそこにある。
洗面台も映っている。
背後の白い壁も映っている。
照明も、蛇口も、肩のあたりも映っている。
けれど、顔だけがぼやけていた。
霧がかかったように、そこだけ白く曇っている。
「……何これ」
袖で鏡を拭く。
曇りは一瞬だけ薄くなった気がした。
でも、すぐに戻る。
もう一度拭く。
変わらない。
鏡全体が曇っているわけではなかった。
顔の部分だけ。
まるで、そこだけ誰かが指で塗りつぶしたみたいに。
胸がざわつく。
自分の顔が分からない。
名前も分からない。
過去も分からない。
なのに、顔まで分からない。
自分というものが、輪郭ごと消えていく感覚がした。
鏡に近づく。
目を凝らす。
ぼやけた白の奥で、何かが動いた気がした。
顔ではない。
自分ではない誰かが、鏡の向こう側からこちらを見ているような気がした。
「どうしました?」
背後から声がして、体が跳ねた。
振り返ると、洗面所の入口に神代が立っていた。
「鏡が……」
「鏡?」
「顔が、見えないんです」
神代は鏡を見た。
そして、不思議そうに首を傾げた。
「普通に映っていますよ」
「え?」
「曇ってもいません」
もう一度鏡を見る。
やはり、顔だけが白くぼやけていた。
神代には見えている。
自分には見えない。
その事実が、何より怖かった。
「頭を打った影響かもしれません」
神代は落ち着いた声で言った。
「記憶が混乱していると、視覚に影響が出ることもあります」
「そんなこと……」
「あります」
即答だった。
早すぎる答え。
まるで、最初からその質問が来ることを知っていたみたいに。
神代は少しだけ表情を和らげる。
「今は眠った方がいい。あなたは疲れています」
「あなたは」
言葉が勝手に出た。
「私の顔が、見えているんですか」
神代は、こちらをじっと見た。
ほんの数秒。
その沈黙が、やけに長く感じた。
「ええ」
「なら、教えてください」
「何を?」
「私は、どんな顔をしていますか」
神代の目が、わずかに細くなった。
答えを考えているのではない。
答えていいかどうかを選んでいる。
そう見えた。
「今は、やめておきましょう」
「どうして」
「あなたが、あなた自身を受け入れる準備ができていないからです」
意味が分からなかった。
自分の顔を見るのに、準備がいるのだろうか。
名前を知るのに、許可がいるのだろうか。
神代は優しく続ける。
「焦れば焦るほど、記憶は遠ざかります」
「でも、思い出さなきゃ」
「なぜ?」
その一言に、言葉が止まった。
なぜ。
なぜ思い出したいのか。
自分が誰か知りたいから。
ここがどこか知りたいから。
何から逃げているのか知りたいから。
でも、言葉にしようとすると、胸の奥で何かが拒んだ。
思い出してはいけない。
誰かの声が、頭の中で囁く。
神代はそれ以上何も言わず、入口から身を引いた。
「部屋に戻りましょう」
洗面所を出る直前、もう一度だけ鏡を見た。
ぼやけた顔。
白く塗りつぶされた輪郭。
その奥で、誰かが笑った気がした。
夜になった。
そう判断したのは、窓の外が暗くなっていたからだ。
神代は部屋を出ていった。
「すぐ近くにいます。何かあれば呼んでください」
そう言い残して。
けれど、呼ぶ気にはなれなかった。
この部屋にはベッドがあった。
さっきの白い部屋とは違う。柔らかい布団があり、枕もある。けれど、横になっても眠気は来なかった。
目を閉じると、白い部屋が浮かぶ。
硬い椅子。
開かない窓。
取調室の文字。
逃げろ。
探偵を信じるな。
そして、神代の声。
まだ、思い出さなくていい。
なぜ、あの人はそんなことを言ったのか。
なぜ、名前を教えてくれないのか。
なぜ、自分の顔を説明しようとしなかったのか。
考えれば考えるほど、頭が痛くなった。
眠ろうと目を閉じる。
白い霧の中に、鏡が現れた。
夢だと、すぐに分かった。
鏡の前に立っている。
けれど、やはり顔は見えない。
鏡の中の自分は、ぼやけたままこちらを見ている。
いや。
違う。
鏡の中にいるのは、自分ではなかった。
誰かが立っている。
白い顔。
黒い影。
輪郭のない人。
その人物が、鏡の向こうから手を伸ばした。
冷たい指先が、ガラス越しにこちらへ触れようとする。
逃げなければ。
そう思うのに、足が動かない。
鏡の中の誰かが、口を開いた。
「名前を思い出すな」
目が覚めた。
呼吸が乱れていた。
部屋は暗い。
窓の外も暗い。
時計を見る。
午前三時。
秒針だけが、規則正しく動いている。
汗で服が肌に張りついていた。
喉が乾いている。
水を飲もうと起き上がる。
足音を立てないように、洗面所へ向かった。
扉を開ける。
暗い洗面所の鏡が、ぼんやりとこちらを映している。
照明をつけるのが怖かった。
けれど、暗いままの鏡を見る方がもっと怖かった。
スイッチを押す。
白い光が点いた。
鏡を見る。
やはり、顔だけが見えない。
白く曇っている。
けれど、さっきとは少し違った。
曇りの向こうで、何かが浮かんでいる。
文字。
鏡の表面に、指でなぞったような文字がゆっくりと現れていく。
名前を思い出すな。
息が止まった。
夢の中で聞いた言葉と同じだった。
袖で鏡を拭く。
文字は消えない。
もう一度拭く。
消えない。
鏡の中の白い曇りが、ゆっくりと揺れた。
その奥に、一瞬だけ顔が映った気がした。
自分の顔。
たぶん、そうだった。
けれど、それを認識する前に、視界が白く弾けた。
頭に痛みが走る。
洗面台に手をつく。
鏡の文字が滲む。
名前を思い出すな。
どうして。
どうして、名前を思い出してはいけないのか。
そのとき、廊下から声がした。
「眠れませんか」
神代だった。
いつからそこにいたのか。
振り返る。
洗面所の入口に、彼が立っていた。
暗い廊下を背負って、静かにこちらを見ている。
「……いつから」
「物音がしたので」
本当だろうか。
神代の視線が、鏡に向かう。
「何か、見えましたか」
その聞き方が、奇妙だった。
何かあったのか、ではない。
何か見えたか。
まるで、見える可能性があると知っているみたいだった。
鏡を見る。
文字は消えていた。
顔は、相変わらずぼやけている。
「何も」
嘘をついた。
神代は少しだけ微笑んだ。
「そうですか」
信じていない声だった。
胸の奥が冷えていく。
神代は一歩、洗面所に入ってきた。
「夜中は、記憶が揺らぎやすい。見えないものが見えることもあります」
「私の記憶について、ずいぶん詳しいんですね」
自分でも驚くほど、硬い声が出た。
神代は立ち止まる。
「あなたを助けるためです」
「本当に?」
沈黙。
白い照明が、二人の間を冷たく照らしていた。
神代は答えなかった。
代わりに、鏡を見た。
鏡の中には、神代の顔だけがはっきり映っている。
こちらの顔は、やはり見えない。
神代は鏡越しにこちらを見つめた。
「名前は、ただの記号ではありません」
「……え?」
「名前を思い出すということは、過去を思い出すということです。誰に呼ばれていたか。誰を愛していたか。誰に憎まれていたか。何をして、何を失ったのか」
神代の声は静かだった。
「すべて、つながってしまう」
その言葉の意味を考える前に、胸の奥で何かが軋んだ。
赤い光。
雨の音。
誰かが泣いている。
床に落ちた写真。
そして、自分の手。
何かを握っている。
何かを――。
「やめて」
思わず口から漏れた。
神代が、ほんの少し目を伏せる。
「だから言ったでしょう。無理に思い出さない方がいい」
優しい。
優しすぎる。
その優しさの奥に、鍵のかかった扉がある。
そんな気がした。
「今日はもう休んでください」
神代はそう言って、洗面所の入口から離れた。
「明日、あなたに会わせたい人がいます」
「誰ですか」
「あなたを知っている人です」
胸が鳴った。
「その人は、私の名前を知っていますか」
神代は答えなかった。
ただ、廊下の暗がりの中で、静かに振り返る。
「知っているかもしれません」
「かもしれない?」
「でも、聞かない方がいい」
「どうして」
神代は、少しだけ困ったように笑った。
「その名前を聞いた瞬間、あなたはきっと、今のあなたではいられなくなる」
そう言って、彼は去っていった。
足音が遠ざかる。
部屋には、また静けさが戻った。
洗面所の鏡を見る。
顔は見えない。
名前も思い出せない。
けれど、たしかに何かが近づいていた。
記憶の底に沈められたもの。
誰かが隠したもの。
自分が忘れたもの。
そして、忘れなければならなかったもの。
蛇口から、一滴だけ水が落ちた。
ぽたり。
その音に合わせるように、鏡の曇りが一瞬だけ晴れた。
今度こそ、見えた。
顔ではない。
鏡の奥、背後に立つ誰かの影。
白いワンピースの女。
振り返ったとき、そこには誰もいなかった。
もう一度、鏡を見る。
文字が浮かんでいた。
今度は短い。
――見つけて。
瞬きをした瞬間、その文字は消えた。
あなたは、しばらく動けなかった。
名前を思い出すな。
見つけて。
矛盾する二つの言葉。
どちらを信じればいいのか分からない。
ただひとつ分かるのは、神代がまだ何かを隠しているということだった。
そして、鏡に映らない顔の向こうで、誰かがあなたを待っている。
その誰かが味方なのか、敵なのか。
それさえ分からないまま、夜は静かに深く沈んでいった。
どこへ向かっているのかも分からないまま、ただ足だけが前へ出ていた。
白い部屋を飛び出したあと、目の前に続いていたのは、暗く長い廊下だった。壁は灰色で、床には古いワックスの匂いが染みついている。どこか遠くで機械の低い音が鳴っていた。
手の中には、しわくちゃになった紙がある。
逃げろ。
探偵を信じるな。
二つの言葉が、頭の中で交互に響いていた。
背後から、足音が近づいてくる。
「待ってください」
優しい声だった。
けれど、もうその声を信じてはいけない気がした。
角を曲がる。
廊下の先に、赤い非常灯がぼんやりと光っていた。その下に扉がある。出口かもしれない。そう思った瞬間、足がもつれた。
視界がぐらりと揺れる。
頭の奥が、鈍く脈打った。
床が近づいてくる。
倒れる、と思った。
その直前、誰かの腕が体を支えた。
「無理をしないでください」
耳元で声がした。
あの声だった。
逃げなければ。
そう思うのに、体が動かない。
指先から力が抜けていく。握っていた紙が、床へ落ちたような気がした。
白い光が遠ざかる。
暗闇に沈む寸前、最後に聞こえたのは、その人の静かな声だった。
「まだ、思い出さなくていい」
次に目を開けたとき、世界は少しだけ柔らかくなっていた。
天井は白かった。
けれど、さっきの部屋とは違う。
真っ白ではない。ほんの少しだけ黄色がかっていて、照明もやわらかい。空気には消毒液ではなく、古い本とコーヒーのような匂いが混じっていた。
体を起こすと、そこは小さな部屋だった。
ソファがある。
本棚がある。
窓には白いカーテンがかかっていて、壁際には観葉植物が置かれている。
先ほどの白い部屋と比べれば、ずっと人が暮らしている場所に近かった。
「目が覚めましたか」
声がして、反射的に肩が震えた。
振り向くと、窓際に男が立っていた。
黒い服。
整った横顔。
落ち着いた声。
年齢は三十代半ばくらいに見える。穏やかで、知的で、こちらを怖がらせない距離を選んで立っている。
けれど、その優しさが、今はひどく不気味だった。
「大丈夫です。ここは安全です」
男はそう言った。
安全。
その言葉が、胸の奥に引っかかる。
安全な場所で、人は閉じ込められるのだろうか。
安全な場所で、「逃げろ」なんて紙を握りしめるのだろうか。
自分の手を見る。
紙がない。
息が止まった。
ポケットを探る。
ソファの上を見る。
足元を見る。
ない。
逃げろと書かれた紙も、裏に浮かんだ「探偵を信じるな」という文字も、どこにもなかった。
「何か探していますか」
男が聞く。
声は変わらず優しい。
だからこそ、答えられなかった。
「……いえ」
「そうですか」
男は深く追及しなかった。
それもまた、不自然だった。
普通なら聞くはずだ。
何を探しているのか。
なぜ廊下を走ったのか。
なぜ逃げようとしたのか。
けれど男は、まるで最初から全部知っているみたいに、何も聞かなかった。
「私は神代悠真です」
男はゆっくりと名乗った。
「私立探偵をしています」
探偵。
その言葉を聞いた瞬間、背筋が冷たくなる。
探偵を信じるな。
紙に浮かんだ文字が、まぶたの裏に蘇った。
目の前の男が、その探偵なのだろうか。
確かめたくても、声が出ない。
神代は、こちらの反応を見て小さく微笑んだ。
「混乱しているのは当然です。あなたは今、記憶が不安定な状態にあります」
「記憶……」
自分の声が、ひどく遠く聞こえた。
「はい。無理に思い出そうとしないでください。頭痛がひどくなるだけです」
その言い方は、心配しているようにも聞こえた。
けれど同時に、命令にも聞こえた。
思い出すな。
さっき、誰かがそう言った。
あれは、この人の声だっただろうか。
分からない。
「私は……」
言葉が喉に引っかかる。
自分のことを何と呼べばいいのか分からなかった。
私。
僕。
俺。
名前。
そのどれもが、自分のものではない気がした。
「私は、誰なんですか」
ようやく絞り出した問いに、神代はすぐには答えなかった。
窓の外から差し込む淡い光が、彼の顔半分を照らしている。もう半分は影に沈んでいて、表情が読み取りにくい。
「それは、あなた自身に思い出してもらう必要があります」
「名前は?」
「今は、焦らない方がいい」
「でも、あなたは知っているんですよね」
神代は微笑んだままだった。
その笑顔が、ほんのわずかに薄くなる。
「知っていることと、伝えていいことは違います」
「どういう意味ですか」
「あなたのためです」
その言葉で、胸の奥に小さな棘が刺さった。
あなたのため。
それは、とても便利な言葉だと思った。
何も説明しなくていい。
何も答えなくていい。
ただ相手を黙らせるために使える言葉。
神代は机の上にあるメモ帳を指さした。
「試してみますか」
「何を」
「名前を、書けるかどうか」
机にはペンとメモ帳が置かれていた。
いつからそこにあったのか分からない。目を覚ましたときからあったのか、それとも神代が用意したのか。
ペンを持つ。
手は自然に動いた。
持ち方は覚えている。
文字の書き方も分かる。
線を引くことも、丸を書くこともできる。
けれど。
名前だけが出てこない。
紙の上でペン先が止まった。
何かを書こうとすると、頭の中が白く塗りつぶされる。そこにあるはずの文字が、寸前で消えてしまう。
ひと文字目さえ分からない。
名字も。
下の名前も。
呼ばれていたあだ名も。
何も。
手が震え、ペン先が紙に黒い点を作った。
神代が静かに言う。
「無理をしなくていい」
その言葉に、なぜか腹の底が冷えた。
無理をしなくていい。
思い出さなくていい。
忘れていていい。
そう言われている気がした。
ペンを置く。
椅子から立ち上がろうとして、ふらついた。
「どこへ?」
「顔を、洗いたいです」
神代は少しだけ間を置いた。
それから、部屋の奥にある扉を指さした。
「あちらに洗面所があります」
扉の向こうは小さな洗面所だった。
白い洗面台。
銀色の蛇口。
壁に取りつけられた鏡。
蛇口をひねると、冷たい水が流れた。
手にすくって顔を洗う。
水の冷たさが、少しだけ意識をはっきりさせてくれた。
顔を上げる。
鏡を見る。
そして、息を呑んだ。
見えない。
鏡はそこにある。
洗面台も映っている。
背後の白い壁も映っている。
照明も、蛇口も、肩のあたりも映っている。
けれど、顔だけがぼやけていた。
霧がかかったように、そこだけ白く曇っている。
「……何これ」
袖で鏡を拭く。
曇りは一瞬だけ薄くなった気がした。
でも、すぐに戻る。
もう一度拭く。
変わらない。
鏡全体が曇っているわけではなかった。
顔の部分だけ。
まるで、そこだけ誰かが指で塗りつぶしたみたいに。
胸がざわつく。
自分の顔が分からない。
名前も分からない。
過去も分からない。
なのに、顔まで分からない。
自分というものが、輪郭ごと消えていく感覚がした。
鏡に近づく。
目を凝らす。
ぼやけた白の奥で、何かが動いた気がした。
顔ではない。
自分ではない誰かが、鏡の向こう側からこちらを見ているような気がした。
「どうしました?」
背後から声がして、体が跳ねた。
振り返ると、洗面所の入口に神代が立っていた。
「鏡が……」
「鏡?」
「顔が、見えないんです」
神代は鏡を見た。
そして、不思議そうに首を傾げた。
「普通に映っていますよ」
「え?」
「曇ってもいません」
もう一度鏡を見る。
やはり、顔だけが白くぼやけていた。
神代には見えている。
自分には見えない。
その事実が、何より怖かった。
「頭を打った影響かもしれません」
神代は落ち着いた声で言った。
「記憶が混乱していると、視覚に影響が出ることもあります」
「そんなこと……」
「あります」
即答だった。
早すぎる答え。
まるで、最初からその質問が来ることを知っていたみたいに。
神代は少しだけ表情を和らげる。
「今は眠った方がいい。あなたは疲れています」
「あなたは」
言葉が勝手に出た。
「私の顔が、見えているんですか」
神代は、こちらをじっと見た。
ほんの数秒。
その沈黙が、やけに長く感じた。
「ええ」
「なら、教えてください」
「何を?」
「私は、どんな顔をしていますか」
神代の目が、わずかに細くなった。
答えを考えているのではない。
答えていいかどうかを選んでいる。
そう見えた。
「今は、やめておきましょう」
「どうして」
「あなたが、あなた自身を受け入れる準備ができていないからです」
意味が分からなかった。
自分の顔を見るのに、準備がいるのだろうか。
名前を知るのに、許可がいるのだろうか。
神代は優しく続ける。
「焦れば焦るほど、記憶は遠ざかります」
「でも、思い出さなきゃ」
「なぜ?」
その一言に、言葉が止まった。
なぜ。
なぜ思い出したいのか。
自分が誰か知りたいから。
ここがどこか知りたいから。
何から逃げているのか知りたいから。
でも、言葉にしようとすると、胸の奥で何かが拒んだ。
思い出してはいけない。
誰かの声が、頭の中で囁く。
神代はそれ以上何も言わず、入口から身を引いた。
「部屋に戻りましょう」
洗面所を出る直前、もう一度だけ鏡を見た。
ぼやけた顔。
白く塗りつぶされた輪郭。
その奥で、誰かが笑った気がした。
夜になった。
そう判断したのは、窓の外が暗くなっていたからだ。
神代は部屋を出ていった。
「すぐ近くにいます。何かあれば呼んでください」
そう言い残して。
けれど、呼ぶ気にはなれなかった。
この部屋にはベッドがあった。
さっきの白い部屋とは違う。柔らかい布団があり、枕もある。けれど、横になっても眠気は来なかった。
目を閉じると、白い部屋が浮かぶ。
硬い椅子。
開かない窓。
取調室の文字。
逃げろ。
探偵を信じるな。
そして、神代の声。
まだ、思い出さなくていい。
なぜ、あの人はそんなことを言ったのか。
なぜ、名前を教えてくれないのか。
なぜ、自分の顔を説明しようとしなかったのか。
考えれば考えるほど、頭が痛くなった。
眠ろうと目を閉じる。
白い霧の中に、鏡が現れた。
夢だと、すぐに分かった。
鏡の前に立っている。
けれど、やはり顔は見えない。
鏡の中の自分は、ぼやけたままこちらを見ている。
いや。
違う。
鏡の中にいるのは、自分ではなかった。
誰かが立っている。
白い顔。
黒い影。
輪郭のない人。
その人物が、鏡の向こうから手を伸ばした。
冷たい指先が、ガラス越しにこちらへ触れようとする。
逃げなければ。
そう思うのに、足が動かない。
鏡の中の誰かが、口を開いた。
「名前を思い出すな」
目が覚めた。
呼吸が乱れていた。
部屋は暗い。
窓の外も暗い。
時計を見る。
午前三時。
秒針だけが、規則正しく動いている。
汗で服が肌に張りついていた。
喉が乾いている。
水を飲もうと起き上がる。
足音を立てないように、洗面所へ向かった。
扉を開ける。
暗い洗面所の鏡が、ぼんやりとこちらを映している。
照明をつけるのが怖かった。
けれど、暗いままの鏡を見る方がもっと怖かった。
スイッチを押す。
白い光が点いた。
鏡を見る。
やはり、顔だけが見えない。
白く曇っている。
けれど、さっきとは少し違った。
曇りの向こうで、何かが浮かんでいる。
文字。
鏡の表面に、指でなぞったような文字がゆっくりと現れていく。
名前を思い出すな。
息が止まった。
夢の中で聞いた言葉と同じだった。
袖で鏡を拭く。
文字は消えない。
もう一度拭く。
消えない。
鏡の中の白い曇りが、ゆっくりと揺れた。
その奥に、一瞬だけ顔が映った気がした。
自分の顔。
たぶん、そうだった。
けれど、それを認識する前に、視界が白く弾けた。
頭に痛みが走る。
洗面台に手をつく。
鏡の文字が滲む。
名前を思い出すな。
どうして。
どうして、名前を思い出してはいけないのか。
そのとき、廊下から声がした。
「眠れませんか」
神代だった。
いつからそこにいたのか。
振り返る。
洗面所の入口に、彼が立っていた。
暗い廊下を背負って、静かにこちらを見ている。
「……いつから」
「物音がしたので」
本当だろうか。
神代の視線が、鏡に向かう。
「何か、見えましたか」
その聞き方が、奇妙だった。
何かあったのか、ではない。
何か見えたか。
まるで、見える可能性があると知っているみたいだった。
鏡を見る。
文字は消えていた。
顔は、相変わらずぼやけている。
「何も」
嘘をついた。
神代は少しだけ微笑んだ。
「そうですか」
信じていない声だった。
胸の奥が冷えていく。
神代は一歩、洗面所に入ってきた。
「夜中は、記憶が揺らぎやすい。見えないものが見えることもあります」
「私の記憶について、ずいぶん詳しいんですね」
自分でも驚くほど、硬い声が出た。
神代は立ち止まる。
「あなたを助けるためです」
「本当に?」
沈黙。
白い照明が、二人の間を冷たく照らしていた。
神代は答えなかった。
代わりに、鏡を見た。
鏡の中には、神代の顔だけがはっきり映っている。
こちらの顔は、やはり見えない。
神代は鏡越しにこちらを見つめた。
「名前は、ただの記号ではありません」
「……え?」
「名前を思い出すということは、過去を思い出すということです。誰に呼ばれていたか。誰を愛していたか。誰に憎まれていたか。何をして、何を失ったのか」
神代の声は静かだった。
「すべて、つながってしまう」
その言葉の意味を考える前に、胸の奥で何かが軋んだ。
赤い光。
雨の音。
誰かが泣いている。
床に落ちた写真。
そして、自分の手。
何かを握っている。
何かを――。
「やめて」
思わず口から漏れた。
神代が、ほんの少し目を伏せる。
「だから言ったでしょう。無理に思い出さない方がいい」
優しい。
優しすぎる。
その優しさの奥に、鍵のかかった扉がある。
そんな気がした。
「今日はもう休んでください」
神代はそう言って、洗面所の入口から離れた。
「明日、あなたに会わせたい人がいます」
「誰ですか」
「あなたを知っている人です」
胸が鳴った。
「その人は、私の名前を知っていますか」
神代は答えなかった。
ただ、廊下の暗がりの中で、静かに振り返る。
「知っているかもしれません」
「かもしれない?」
「でも、聞かない方がいい」
「どうして」
神代は、少しだけ困ったように笑った。
「その名前を聞いた瞬間、あなたはきっと、今のあなたではいられなくなる」
そう言って、彼は去っていった。
足音が遠ざかる。
部屋には、また静けさが戻った。
洗面所の鏡を見る。
顔は見えない。
名前も思い出せない。
けれど、たしかに何かが近づいていた。
記憶の底に沈められたもの。
誰かが隠したもの。
自分が忘れたもの。
そして、忘れなければならなかったもの。
蛇口から、一滴だけ水が落ちた。
ぽたり。
その音に合わせるように、鏡の曇りが一瞬だけ晴れた。
今度こそ、見えた。
顔ではない。
鏡の奥、背後に立つ誰かの影。
白いワンピースの女。
振り返ったとき、そこには誰もいなかった。
もう一度、鏡を見る。
文字が浮かんでいた。
今度は短い。
――見つけて。
瞬きをした瞬間、その文字は消えた。
あなたは、しばらく動けなかった。
名前を思い出すな。
見つけて。
矛盾する二つの言葉。
どちらを信じればいいのか分からない。
ただひとつ分かるのは、神代がまだ何かを隠しているということだった。
そして、鏡に映らない顔の向こうで、誰かがあなたを待っている。
その誰かが味方なのか、敵なのか。
それさえ分からないまま、夜は静かに深く沈んでいった。


