あなたが最後に見た景色

 走っていた。

 どこへ向かっているのかも分からないまま、ただ足だけが前へ出ていた。

 白い部屋を飛び出したあと、目の前に続いていたのは、暗く長い廊下だった。壁は灰色で、床には古いワックスの匂いが染みついている。どこか遠くで機械の低い音が鳴っていた。

 手の中には、しわくちゃになった紙がある。

 逃げろ。

 探偵を信じるな。

 二つの言葉が、頭の中で交互に響いていた。

 背後から、足音が近づいてくる。

「待ってください」

 優しい声だった。

 けれど、もうその声を信じてはいけない気がした。

 角を曲がる。

 廊下の先に、赤い非常灯がぼんやりと光っていた。その下に扉がある。出口かもしれない。そう思った瞬間、足がもつれた。

 視界がぐらりと揺れる。

 頭の奥が、鈍く脈打った。

 床が近づいてくる。

 倒れる、と思った。

 その直前、誰かの腕が体を支えた。

「無理をしないでください」

 耳元で声がした。

 あの声だった。

 逃げなければ。

 そう思うのに、体が動かない。

 指先から力が抜けていく。握っていた紙が、床へ落ちたような気がした。

 白い光が遠ざかる。

 暗闇に沈む寸前、最後に聞こえたのは、その人の静かな声だった。

「まだ、思い出さなくていい」

 次に目を開けたとき、世界は少しだけ柔らかくなっていた。

 天井は白かった。

 けれど、さっきの部屋とは違う。

 真っ白ではない。ほんの少しだけ黄色がかっていて、照明もやわらかい。空気には消毒液ではなく、古い本とコーヒーのような匂いが混じっていた。

 体を起こすと、そこは小さな部屋だった。

 ソファがある。

 本棚がある。

 窓には白いカーテンがかかっていて、壁際には観葉植物が置かれている。

 先ほどの白い部屋と比べれば、ずっと人が暮らしている場所に近かった。

「目が覚めましたか」

 声がして、反射的に肩が震えた。

 振り向くと、窓際に男が立っていた。

 黒い服。

 整った横顔。

 落ち着いた声。

 年齢は三十代半ばくらいに見える。穏やかで、知的で、こちらを怖がらせない距離を選んで立っている。

 けれど、その優しさが、今はひどく不気味だった。

「大丈夫です。ここは安全です」

 男はそう言った。

 安全。

 その言葉が、胸の奥に引っかかる。

 安全な場所で、人は閉じ込められるのだろうか。

 安全な場所で、「逃げろ」なんて紙を握りしめるのだろうか。

 自分の手を見る。

 紙がない。

 息が止まった。

 ポケットを探る。
 ソファの上を見る。
 足元を見る。

 ない。

 逃げろと書かれた紙も、裏に浮かんだ「探偵を信じるな」という文字も、どこにもなかった。

「何か探していますか」

 男が聞く。

 声は変わらず優しい。

 だからこそ、答えられなかった。

「……いえ」

「そうですか」

 男は深く追及しなかった。

 それもまた、不自然だった。

 普通なら聞くはずだ。
 何を探しているのか。
 なぜ廊下を走ったのか。
 なぜ逃げようとしたのか。

 けれど男は、まるで最初から全部知っているみたいに、何も聞かなかった。

「私は神代悠真です」

 男はゆっくりと名乗った。

「私立探偵をしています」

 探偵。

 その言葉を聞いた瞬間、背筋が冷たくなる。

 探偵を信じるな。

 紙に浮かんだ文字が、まぶたの裏に蘇った。

 目の前の男が、その探偵なのだろうか。

 確かめたくても、声が出ない。

 神代は、こちらの反応を見て小さく微笑んだ。

「混乱しているのは当然です。あなたは今、記憶が不安定な状態にあります」

「記憶……」

 自分の声が、ひどく遠く聞こえた。

「はい。無理に思い出そうとしないでください。頭痛がひどくなるだけです」

 その言い方は、心配しているようにも聞こえた。

 けれど同時に、命令にも聞こえた。

 思い出すな。

 さっき、誰かがそう言った。

 あれは、この人の声だっただろうか。

 分からない。

「私は……」

 言葉が喉に引っかかる。

 自分のことを何と呼べばいいのか分からなかった。

 私。
 僕。
 俺。
 名前。

 そのどれもが、自分のものではない気がした。

「私は、誰なんですか」

 ようやく絞り出した問いに、神代はすぐには答えなかった。

 窓の外から差し込む淡い光が、彼の顔半分を照らしている。もう半分は影に沈んでいて、表情が読み取りにくい。

「それは、あなた自身に思い出してもらう必要があります」

「名前は?」

「今は、焦らない方がいい」

「でも、あなたは知っているんですよね」

 神代は微笑んだままだった。

 その笑顔が、ほんのわずかに薄くなる。

「知っていることと、伝えていいことは違います」

「どういう意味ですか」

「あなたのためです」

 その言葉で、胸の奥に小さな棘が刺さった。

 あなたのため。

 それは、とても便利な言葉だと思った。

 何も説明しなくていい。
 何も答えなくていい。
 ただ相手を黙らせるために使える言葉。

 神代は机の上にあるメモ帳を指さした。

「試してみますか」

「何を」

「名前を、書けるかどうか」

 机にはペンとメモ帳が置かれていた。

 いつからそこにあったのか分からない。目を覚ましたときからあったのか、それとも神代が用意したのか。

 ペンを持つ。

 手は自然に動いた。

 持ち方は覚えている。
 文字の書き方も分かる。
 線を引くことも、丸を書くこともできる。

 けれど。

 名前だけが出てこない。

 紙の上でペン先が止まった。

 何かを書こうとすると、頭の中が白く塗りつぶされる。そこにあるはずの文字が、寸前で消えてしまう。

 ひと文字目さえ分からない。

 名字も。
 下の名前も。
 呼ばれていたあだ名も。

 何も。

 手が震え、ペン先が紙に黒い点を作った。

 神代が静かに言う。

「無理をしなくていい」

 その言葉に、なぜか腹の底が冷えた。

 無理をしなくていい。

 思い出さなくていい。

 忘れていていい。

 そう言われている気がした。

 ペンを置く。

 椅子から立ち上がろうとして、ふらついた。

「どこへ?」

「顔を、洗いたいです」

 神代は少しだけ間を置いた。

 それから、部屋の奥にある扉を指さした。

「あちらに洗面所があります」

 扉の向こうは小さな洗面所だった。

 白い洗面台。
 銀色の蛇口。
 壁に取りつけられた鏡。

 蛇口をひねると、冷たい水が流れた。

 手にすくって顔を洗う。

 水の冷たさが、少しだけ意識をはっきりさせてくれた。

 顔を上げる。

 鏡を見る。

 そして、息を呑んだ。

 見えない。

 鏡はそこにある。

 洗面台も映っている。
 背後の白い壁も映っている。
 照明も、蛇口も、肩のあたりも映っている。

 けれど、顔だけがぼやけていた。

 霧がかかったように、そこだけ白く曇っている。

「……何これ」

 袖で鏡を拭く。

 曇りは一瞬だけ薄くなった気がした。

 でも、すぐに戻る。

 もう一度拭く。

 変わらない。

 鏡全体が曇っているわけではなかった。

 顔の部分だけ。

 まるで、そこだけ誰かが指で塗りつぶしたみたいに。

 胸がざわつく。

 自分の顔が分からない。

 名前も分からない。

 過去も分からない。

 なのに、顔まで分からない。

 自分というものが、輪郭ごと消えていく感覚がした。

 鏡に近づく。

 目を凝らす。

 ぼやけた白の奥で、何かが動いた気がした。

 顔ではない。

 自分ではない誰かが、鏡の向こう側からこちらを見ているような気がした。

「どうしました?」

 背後から声がして、体が跳ねた。

 振り返ると、洗面所の入口に神代が立っていた。

「鏡が……」

「鏡?」

「顔が、見えないんです」

 神代は鏡を見た。

 そして、不思議そうに首を傾げた。

「普通に映っていますよ」

「え?」

「曇ってもいません」

 もう一度鏡を見る。

 やはり、顔だけが白くぼやけていた。

 神代には見えている。

 自分には見えない。

 その事実が、何より怖かった。

「頭を打った影響かもしれません」

 神代は落ち着いた声で言った。

「記憶が混乱していると、視覚に影響が出ることもあります」

「そんなこと……」

「あります」

 即答だった。

 早すぎる答え。

 まるで、最初からその質問が来ることを知っていたみたいに。

 神代は少しだけ表情を和らげる。

「今は眠った方がいい。あなたは疲れています」

「あなたは」

 言葉が勝手に出た。

「私の顔が、見えているんですか」

 神代は、こちらをじっと見た。

 ほんの数秒。

 その沈黙が、やけに長く感じた。

「ええ」

「なら、教えてください」

「何を?」

「私は、どんな顔をしていますか」

 神代の目が、わずかに細くなった。

 答えを考えているのではない。

 答えていいかどうかを選んでいる。

 そう見えた。

「今は、やめておきましょう」

「どうして」

「あなたが、あなた自身を受け入れる準備ができていないからです」

 意味が分からなかった。

 自分の顔を見るのに、準備がいるのだろうか。

 名前を知るのに、許可がいるのだろうか。

 神代は優しく続ける。

「焦れば焦るほど、記憶は遠ざかります」

「でも、思い出さなきゃ」

「なぜ?」

 その一言に、言葉が止まった。

 なぜ。

 なぜ思い出したいのか。

 自分が誰か知りたいから。

 ここがどこか知りたいから。

 何から逃げているのか知りたいから。

 でも、言葉にしようとすると、胸の奥で何かが拒んだ。

 思い出してはいけない。

 誰かの声が、頭の中で囁く。

 神代はそれ以上何も言わず、入口から身を引いた。

「部屋に戻りましょう」

 洗面所を出る直前、もう一度だけ鏡を見た。

 ぼやけた顔。

 白く塗りつぶされた輪郭。

 その奥で、誰かが笑った気がした。

 夜になった。

 そう判断したのは、窓の外が暗くなっていたからだ。

 神代は部屋を出ていった。

「すぐ近くにいます。何かあれば呼んでください」

 そう言い残して。

 けれど、呼ぶ気にはなれなかった。

 この部屋にはベッドがあった。

 さっきの白い部屋とは違う。柔らかい布団があり、枕もある。けれど、横になっても眠気は来なかった。

 目を閉じると、白い部屋が浮かぶ。

 硬い椅子。
 開かない窓。
 取調室の文字。
 逃げろ。
 探偵を信じるな。

 そして、神代の声。

 まだ、思い出さなくていい。

 なぜ、あの人はそんなことを言ったのか。

 なぜ、名前を教えてくれないのか。

 なぜ、自分の顔を説明しようとしなかったのか。

 考えれば考えるほど、頭が痛くなった。

 眠ろうと目を閉じる。

 白い霧の中に、鏡が現れた。

 夢だと、すぐに分かった。

 鏡の前に立っている。

 けれど、やはり顔は見えない。

 鏡の中の自分は、ぼやけたままこちらを見ている。

 いや。

 違う。

 鏡の中にいるのは、自分ではなかった。

 誰かが立っている。

 白い顔。
 黒い影。
 輪郭のない人。

 その人物が、鏡の向こうから手を伸ばした。

 冷たい指先が、ガラス越しにこちらへ触れようとする。

 逃げなければ。

 そう思うのに、足が動かない。

 鏡の中の誰かが、口を開いた。

「名前を思い出すな」

 目が覚めた。

 呼吸が乱れていた。

 部屋は暗い。

 窓の外も暗い。

 時計を見る。

 午前三時。

 秒針だけが、規則正しく動いている。

 汗で服が肌に張りついていた。

 喉が乾いている。

 水を飲もうと起き上がる。

 足音を立てないように、洗面所へ向かった。

 扉を開ける。

 暗い洗面所の鏡が、ぼんやりとこちらを映している。

 照明をつけるのが怖かった。

 けれど、暗いままの鏡を見る方がもっと怖かった。

 スイッチを押す。

 白い光が点いた。

 鏡を見る。

 やはり、顔だけが見えない。

 白く曇っている。

 けれど、さっきとは少し違った。

 曇りの向こうで、何かが浮かんでいる。

 文字。

 鏡の表面に、指でなぞったような文字がゆっくりと現れていく。

 名前を思い出すな。

 息が止まった。

 夢の中で聞いた言葉と同じだった。

 袖で鏡を拭く。

 文字は消えない。

 もう一度拭く。

 消えない。

 鏡の中の白い曇りが、ゆっくりと揺れた。

 その奥に、一瞬だけ顔が映った気がした。

 自分の顔。

 たぶん、そうだった。

 けれど、それを認識する前に、視界が白く弾けた。

 頭に痛みが走る。

 洗面台に手をつく。

 鏡の文字が滲む。

 名前を思い出すな。

 どうして。

 どうして、名前を思い出してはいけないのか。

 そのとき、廊下から声がした。

「眠れませんか」

 神代だった。

 いつからそこにいたのか。

 振り返る。

 洗面所の入口に、彼が立っていた。

 暗い廊下を背負って、静かにこちらを見ている。

「……いつから」

「物音がしたので」

 本当だろうか。

 神代の視線が、鏡に向かう。

「何か、見えましたか」

 その聞き方が、奇妙だった。

 何かあったのか、ではない。

 何か見えたか。

 まるで、見える可能性があると知っているみたいだった。

 鏡を見る。

 文字は消えていた。

 顔は、相変わらずぼやけている。

「何も」

 嘘をついた。

 神代は少しだけ微笑んだ。

「そうですか」

 信じていない声だった。

 胸の奥が冷えていく。

 神代は一歩、洗面所に入ってきた。

「夜中は、記憶が揺らぎやすい。見えないものが見えることもあります」

「私の記憶について、ずいぶん詳しいんですね」

 自分でも驚くほど、硬い声が出た。

 神代は立ち止まる。

「あなたを助けるためです」

「本当に?」

 沈黙。

 白い照明が、二人の間を冷たく照らしていた。

 神代は答えなかった。

 代わりに、鏡を見た。

 鏡の中には、神代の顔だけがはっきり映っている。

 こちらの顔は、やはり見えない。

 神代は鏡越しにこちらを見つめた。

「名前は、ただの記号ではありません」

「……え?」

「名前を思い出すということは、過去を思い出すということです。誰に呼ばれていたか。誰を愛していたか。誰に憎まれていたか。何をして、何を失ったのか」

 神代の声は静かだった。

「すべて、つながってしまう」

 その言葉の意味を考える前に、胸の奥で何かが軋んだ。

 赤い光。

 雨の音。

 誰かが泣いている。

 床に落ちた写真。

 そして、自分の手。

 何かを握っている。

 何かを――。

「やめて」

 思わず口から漏れた。

 神代が、ほんの少し目を伏せる。

「だから言ったでしょう。無理に思い出さない方がいい」

 優しい。

 優しすぎる。

 その優しさの奥に、鍵のかかった扉がある。

 そんな気がした。

「今日はもう休んでください」

 神代はそう言って、洗面所の入口から離れた。

「明日、あなたに会わせたい人がいます」

「誰ですか」

「あなたを知っている人です」

 胸が鳴った。

「その人は、私の名前を知っていますか」

 神代は答えなかった。

 ただ、廊下の暗がりの中で、静かに振り返る。

「知っているかもしれません」

「かもしれない?」

「でも、聞かない方がいい」

「どうして」

 神代は、少しだけ困ったように笑った。

「その名前を聞いた瞬間、あなたはきっと、今のあなたではいられなくなる」

 そう言って、彼は去っていった。

 足音が遠ざかる。

 部屋には、また静けさが戻った。

 洗面所の鏡を見る。

 顔は見えない。

 名前も思い出せない。

 けれど、たしかに何かが近づいていた。

 記憶の底に沈められたもの。

 誰かが隠したもの。

 自分が忘れたもの。

 そして、忘れなければならなかったもの。

 蛇口から、一滴だけ水が落ちた。

 ぽたり。

 その音に合わせるように、鏡の曇りが一瞬だけ晴れた。

 今度こそ、見えた。

 顔ではない。

 鏡の奥、背後に立つ誰かの影。

 白いワンピースの女。

 振り返ったとき、そこには誰もいなかった。

 もう一度、鏡を見る。

 文字が浮かんでいた。

 今度は短い。

 ――見つけて。

 瞬きをした瞬間、その文字は消えた。

 あなたは、しばらく動けなかった。

 名前を思い出すな。

 見つけて。

 矛盾する二つの言葉。

 どちらを信じればいいのか分からない。

 ただひとつ分かるのは、神代がまだ何かを隠しているということだった。

 そして、鏡に映らない顔の向こうで、誰かがあなたを待っている。

 その誰かが味方なのか、敵なのか。

 それさえ分からないまま、夜は静かに深く沈んでいった。