最初に感じたのは、白だった。
目を開けた、という感覚はなかった。
まぶたの裏側に、じわじわと光が染み込んでくる。暗闇に慣れきっていた視界が、ゆっくりと塗り替えられていく。
白い。
ただ、白い。
天井も、壁も、視界の端に映る床も、何もかもが同じ色をしていた。
頭の奥が鈍く痛む。
強く何かを打ちつけた後のような重さが、こめかみのあたりに残っていた。息を吸うたび、喉の奥が乾いてひりつく。
ここは、どこだろう。
そう思った瞬間、自分の中にあるはずのものが、何ひとつ掴めないことに気づいた。
名前。
年齢。
ここへ来るまでの記憶。
昨日、何をしていたのか。
最後に誰と話したのか。
そもそも、自分がどんな声で笑う人間だったのか。
何も、出てこない。
頭の中に手を伸ばしても、指先に触れるのは空っぽの霧だけだった。
起き上がろうとして、体が小さく軋んだ。
背中が硬い。布団の柔らかさではない。マットレスの沈み込みでもない。
背もたれ。
そこでようやく、自分が横になっていたのではなく、椅子にもたれかかるようにして眠っていたのだと気づいた。
椅子は簡素なものだった。肘掛けもなく、座面は硬い。長く座っていれば腰が痛くなりそうな、何の温かみもない椅子。
白い部屋。
硬い椅子。
静かすぎる空気。
病室のように見えた。
けれど、耳を澄ませても、人の気配はない。
廊下を歩く足音も。
遠くで鳴る機械音も。
誰かの話し声も。
カーテンが揺れる音さえも。
何も聞こえない。
自分の呼吸だけが、やけに大きく聞こえていた。
「……誰か」
声を出したつもりだった。
けれど、喉から漏れたのは、かすれた息に近い音だけだった。
もう一度、周囲を見る。
部屋には机が一台あった。
四角い、白い机。壁と同じ色をしているせいで、部屋に溶け込んでいるように見える。
机の上には、何もない。
いや。
紙が一枚、置かれていた。

遠目では、ただの白い紙に見えた。けれど、折り目がある。誰かが丁寧に二つ折りにして、そこへ置いたものらしい。
立ち上がろうとして、足に力が入らなかった。
膝が震える。
床に触れた足裏が冷たい。
まるでこの部屋全体が、温度を忘れてしまったみたいだった。
壁に手をつき、ゆっくり立ち上がる。
そのとき、自分の腕が目に入った。
何も付いていない。
包帯も、点滴も、チューブも、名前の書かれたリストバンドもない。病院で目覚めたのなら、何かしら処置の跡があってもおかしくないはずなのに。
腕はただ、そこにあった。
自分のものなのに、どこか知らない誰かの腕のように見えた。
胸の奥が、嫌な音を立てて沈んでいく。
本当に、ここは病院なのだろうか。
壁を見た。
天井を見た。
床を見た。
白い。
白すぎる。
清潔というより、消されているような白だった。
窓があった。
部屋の奥、ちょうど机の向こう側。
細長い窓がひとつだけ、壁に埋め込まれている。
外は見えなかった。
曇りガラスの向こうには、白い光だけが広がっている。朝なのか、昼なのか、夜なのかさえ分からない。
窓に近づき、手をかける。
開かない。
鍵がかかっているのかと思ったが、違った。取っ手がない。そもそも、開けるための作りになっていない。
ただ、そこにあるだけの窓。
外を見るためではなく、こちらを閉じ込めるための窓。
そんな考えが頭をよぎって、すぐに打ち消した。
落ち着け。
きっと理由がある。
危険だから開かないようになっているのかもしれない。
特殊な施設なのかもしれない。
自分は何かの検査中で、だからここにいるのかもしれない。
そう考えようとした。
けれど、考えようとすればするほど、頭の奥が白く濁っていく。
記憶がない。
ここがどこか分からない。
なぜ椅子で眠っていたのかも分からない。
分からないことばかりが積み重なっていく。
部屋の右側に、ドアがあった。
白いドア。
壁と同じ色で、危うく見落としそうになるほどだった。
近づいて、ノブに手をかける。
冷たかった。
回す。
動かない。
もう一度、力を込める。
がちゃ、と小さな音がしただけで、ドアはびくともしなかった。
「開けてください」
今度は、少しだけ声になった。
返事はない。
「誰か、いませんか」
やはり、何も返ってこない。
拳でドアを叩いた。
一度。
二度。
三度。
音は部屋の中で小さく反響し、すぐに吸い込まれるように消えた。
外からの反応はなかった。
喉がさらに乾く。
鼓動が速くなる。
冷静でいようとするほど、指先が震えた。
机の上の紙。
それを見るしかなかった。
一歩ずつ近づく。
床は不自然なほど綺麗だった。傷も、汚れも、靴跡もない。まるで誰もここを歩いたことがないみたいに。
机の前で立ち止まる。
紙は、何の変哲もない白い紙だった。
折り目が中央に一本。
端が少しだけ曲がっている。
誰かがここに置いた。
自分が目を覚ます前に。
そう考えた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
この部屋に、誰かがいた。
少なくとも、少し前までは。
震える指で紙を取る。
紙は軽かった。けれど、その軽さが逆に怖かった。
ゆっくりと開く。
中には、短い言葉が書かれていた。
逃げろ。
たった三文字。
黒いインクで、強く、乱れた字。
息が止まった。
逃げろ。
何から。
誰から。
どこへ。
この部屋から出ることさえできないのに。
紙を裏返す。
何も書かれていない。
もう一度、表を見る。
逃げろ。
その文字が、目の奥に焼きついて離れない。
誰が書いたのか。
自分に向けたものなのか。
それとも、別の誰かに宛てられたものなのか。
分からない。
けれど、ひとつだけ確かなことがあった。
これは、冗談ではない。
文字の乱れ方。
紙の端に残る小さなしわ。
急いで書かれたような筆跡。
書いた人間は、焦っていた。
恐れていた。
そして、どうしてもこの言葉を残さなければならなかった。
逃げろ。
その言葉が、部屋の白さを少しずつ違う色に変えていく。
ここは安全な場所ではない。
そう思った途端、今まで見逃していたものが、急に目につき始めた。
ベッドがない。
点滴台がない。
ナースコールがない。
薬品の匂いもしない。
白い壁。
白い机。
硬い椅子。
開かない窓。
鍵のかかったドア。
自分は治療されていたのではない。
ここに、置かれていた。
まるで誰かが、自分が目を覚ますのを待っていたみたいに。
壁の高い位置に、黒い点があった。
最初は汚れかと思った。
けれど、白い壁の中で、そこだけが不自然に黒い。
近づいて見上げる。
小さな丸い穴。
通気口にしては小さすぎる。
傷にしては整いすぎている。
見られている。
そう思った瞬間、心臓が大きく跳ねた。
誰かが、この部屋の外から見ている。
いや、そんなはずはない。
ただの穴かもしれない。
何かの設備かもしれない。
そう言い聞かせても、視線を感じた。
白い壁の向こう側から、じっと見つめられているような気がした。
紙を握る手に力が入る。
逃げろ。
逃げたい。
けれど、どこへ?
ドアは開かない。
窓も開かない。
この部屋には、隠れる場所すらない。
ふと、壁の時計が目に入った。
丸い時計。
何の飾りもない、白い縁の時計。
針は八時を指していた。
長針が十二。
短針が八。
秒針は、動いていない。
八時ちょうどで止まっている。
朝の八時なのか、夜の八時なのか。
それとも、ずっと前から止まっているのか。
分からない。
だけど、止まった時計を見ていると、不思議と胸の奥がざわついた。
八時。
その数字を、どこかで見た気がする。
記憶の底で、何かが動いた。
暗い部屋。
誰かの声。
机を叩く音。
まぶしい光。
そこまで浮かびかけて、頭に鋭い痛みが走った。
「っ……」
思わず机に手をつく。
視界が揺れた。
白い部屋が、ぐにゃりと歪む。
耳の奥で、誰かの声がした。
――思い出すな。
誰の声だ。
自分の声なのか。
それとも、知らない誰かの声なのか。
顔を上げる。
部屋は変わらず白かった。
静かだった。
何も起きていない。
でも、手の中には紙がある。
逃げろ。
これは現実だ。
自分は、この部屋に閉じ込められている。
ドアへ向かう。
もう一度、ノブを回す。
やはり開かない。
叩く。
「開けてください!」
声が少しだけ強くなる。
「誰か! 聞こえてるなら開けてください!」
返事はない。
代わりに、天井のどこかで低い音がした。
ぶうん、と機械が動き出すような音。
換気の音だろうか。
それとも、別の何か。
空気がわずかに冷たくなった気がした。
部屋の隅に、細い線が見えた。
壁と床の境目ではない。
白い壁に、縦の細い切れ目がある。
近づいて触れる。
指先に、かすかな凹みがあった。
何かの扉?
だが、取っ手はない。
押しても引いても動かない。
ただ、壁の一部がそこだけ不自然に分かれている。
隠し扉かもしれない。
そう思った瞬間、希望に似たものが胸に浮かんだ。
けれど、すぐに消えた。
開け方が分からない。
部屋の中を探す。
机の下。
椅子の裏。
床の隅。
壁の近く。
何もない。
鍵も、道具も、メモもない。
あるのは、机と椅子と、あの紙だけ。
まるで、最初から選択肢など与えられていないみたいだった。
そのときだった。
かちり。
小さな音がした。
全身が固まる。
音は、ドアの向こうからだった。
鍵の音。
誰かがいる。
紙を握りしめる。
呼吸が止まりそうになる。
逃げろという言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
でも、逃げ場はない。
ドアノブが、ゆっくりと動いた。
がちゃり。
白いドアが、ほんの少しだけ開く。
隙間から、廊下の暗がりが見えた。
白い部屋の外は、白くなかった。
その事実に、なぜかひどく恐怖した。
隙間の向こうに、人影が立っている。
顔は見えない。
逆光になっているわけでもないのに、なぜか輪郭だけが黒く沈んでいる。
その人物は、すぐには入ってこなかった。
ただ、こちらを見ていた。
見られている。
壁の穴から感じたものと同じ感覚が、今度ははっきりと形を持って目の前にあった。
逃げろ。
紙の文字が、手の中で潰れる。
人影が、静かに口を開いた。
「目が覚めたんですね」
その声を聞いた瞬間、頭の奥で何かが割れた。
知っている。
この声を、自分は知っている。
でも、思い出せない。
思い出してはいけない。
そんな感覚が、胸の奥からせり上がってくる。
人影が一歩、部屋に入る。
白い床に、黒い靴が触れた。
「大丈夫です。怖がらないでください」
優しい声だった。
けれど、その優しさが怖かった。
なぜなら、その人は一度も言わなかったからだ。
ここがどこなのか。
自分が誰なのか。
なぜ閉じ込められていたのか。
何も説明しないまま、ただ微笑む気配だけをまとって、こちらへ近づいてくる。
あなたは一歩、後ずさる。
背中が壁に触れた。
もう下がれない。
人影の視線が、あなたの手元に落ちる。
握りしめた紙。
逃げろ。
その文字を見たのか、人影の動きが止まった。
ほんの一瞬。
本当に、ほんの一瞬だけ。
その人の声から、優しさが消えた。
「それを、どこで見つけました?」
答えられなかった。
声が出ない。
人影はまた、一歩近づく。
その瞬間、部屋の時計が動いた。
止まっていたはずの秒針が、かちり、と音を立てた。
一秒。
二秒。
三秒。
白い部屋に、時計の音だけが響く。
かちり。
かちり。
かちり。
あなたは紙を握ったまま、人影を見つめる。
逃げろ。
逃げろ。
逃げろ。
でも、どこへ。
人影が、手を伸ばす。
その指先が紙に触れようとした瞬間、天井のどこかから、突然、短い電子音が鳴った。
ぴ、と。
人影が顔を上げる。
その隙に、あなたは動いていた。
考えたわけではない。
体が勝手に動いた。
人影の横をすり抜け、半開きのドアへ向かう。
「待って!」
声が追いかけてくる。
けれど、止まらない。
白い部屋を飛び出した瞬間、冷たい空気が頬を打った。
廊下は暗かった。
長く、細く、先が見えない。
白い部屋の中では聞こえなかった音が、廊下にはあった。
遠くで鳴る足音。
低く響く機械音。
誰かの話し声のようなもの。
そして、どこかで聞こえる、笑い声。
あなたは振り返らなかった。
手の中には、しわくちゃになった紙。
逃げろ。
その三文字だけを頼りに、あなたは暗い廊下を走り出した。
自分が誰なのかも分からないまま。
何から逃げているのかも分からないまま。
ただひとつだけ、確信していた。
あの白い部屋に戻ってはいけない。
絶対に。
廊下の奥で、赤いランプが点滅している。
その下に、扉があった。
扉の上には、かすれた文字で何かが書かれている。
走りながら、それを読む。
――取調室。
その文字を見た瞬間、足が止まりそうになった。
病室では、なかった。
白い部屋は、病室ではなかった。
背後から、足音が近づいてくる。
「逃げても無駄です」
優しかったはずの声が、もう優しくない。
「あなたは、まだ何も思い出していない」
胸の奥で、何かが崩れた。
思い出していない。
では、自分は何を忘れている?
何をした?
何を見た?
そして――誰から逃げている?
赤いランプが、また光る。
その光の下で、手の中の紙がわずかに開いた。
裏には何も書かれていなかったはずだった。
けれど、今は違った。
汗で濡れた紙の裏側に、薄く文字が浮かび上がっていた。
震える手で、紙を広げる。
そこには、小さく、こう書かれていた。
――探偵を信じるな。
背後で、足音が止まった。
そして、あの声が言った。
「やっと、そこまで読めましたか」
あなたは、振り返る。
暗い廊下の先に立つその人が、ゆっくりと微笑んだ。
誰なのか、まだ分からない。
けれど、ひとつだけ分かった。
これは、始まりだ。
自分が失った記憶と、これから起こる事件。
そのすべてが、この白い部屋から始まっていた。
逃げろ。
探偵を信じるな。
二つの言葉を握りしめたまま、あなたは再び走り出した。
目を開けた、という感覚はなかった。
まぶたの裏側に、じわじわと光が染み込んでくる。暗闇に慣れきっていた視界が、ゆっくりと塗り替えられていく。
白い。
ただ、白い。
天井も、壁も、視界の端に映る床も、何もかもが同じ色をしていた。
頭の奥が鈍く痛む。
強く何かを打ちつけた後のような重さが、こめかみのあたりに残っていた。息を吸うたび、喉の奥が乾いてひりつく。
ここは、どこだろう。
そう思った瞬間、自分の中にあるはずのものが、何ひとつ掴めないことに気づいた。
名前。
年齢。
ここへ来るまでの記憶。
昨日、何をしていたのか。
最後に誰と話したのか。
そもそも、自分がどんな声で笑う人間だったのか。
何も、出てこない。
頭の中に手を伸ばしても、指先に触れるのは空っぽの霧だけだった。
起き上がろうとして、体が小さく軋んだ。
背中が硬い。布団の柔らかさではない。マットレスの沈み込みでもない。
背もたれ。
そこでようやく、自分が横になっていたのではなく、椅子にもたれかかるようにして眠っていたのだと気づいた。
椅子は簡素なものだった。肘掛けもなく、座面は硬い。長く座っていれば腰が痛くなりそうな、何の温かみもない椅子。
白い部屋。
硬い椅子。
静かすぎる空気。
病室のように見えた。
けれど、耳を澄ませても、人の気配はない。
廊下を歩く足音も。
遠くで鳴る機械音も。
誰かの話し声も。
カーテンが揺れる音さえも。
何も聞こえない。
自分の呼吸だけが、やけに大きく聞こえていた。
「……誰か」
声を出したつもりだった。
けれど、喉から漏れたのは、かすれた息に近い音だけだった。
もう一度、周囲を見る。
部屋には机が一台あった。
四角い、白い机。壁と同じ色をしているせいで、部屋に溶け込んでいるように見える。
机の上には、何もない。
いや。
紙が一枚、置かれていた。

遠目では、ただの白い紙に見えた。けれど、折り目がある。誰かが丁寧に二つ折りにして、そこへ置いたものらしい。
立ち上がろうとして、足に力が入らなかった。
膝が震える。
床に触れた足裏が冷たい。
まるでこの部屋全体が、温度を忘れてしまったみたいだった。
壁に手をつき、ゆっくり立ち上がる。
そのとき、自分の腕が目に入った。
何も付いていない。
包帯も、点滴も、チューブも、名前の書かれたリストバンドもない。病院で目覚めたのなら、何かしら処置の跡があってもおかしくないはずなのに。
腕はただ、そこにあった。
自分のものなのに、どこか知らない誰かの腕のように見えた。
胸の奥が、嫌な音を立てて沈んでいく。
本当に、ここは病院なのだろうか。
壁を見た。
天井を見た。
床を見た。
白い。
白すぎる。
清潔というより、消されているような白だった。
窓があった。
部屋の奥、ちょうど机の向こう側。
細長い窓がひとつだけ、壁に埋め込まれている。
外は見えなかった。
曇りガラスの向こうには、白い光だけが広がっている。朝なのか、昼なのか、夜なのかさえ分からない。
窓に近づき、手をかける。
開かない。
鍵がかかっているのかと思ったが、違った。取っ手がない。そもそも、開けるための作りになっていない。
ただ、そこにあるだけの窓。
外を見るためではなく、こちらを閉じ込めるための窓。
そんな考えが頭をよぎって、すぐに打ち消した。
落ち着け。
きっと理由がある。
危険だから開かないようになっているのかもしれない。
特殊な施設なのかもしれない。
自分は何かの検査中で、だからここにいるのかもしれない。
そう考えようとした。
けれど、考えようとすればするほど、頭の奥が白く濁っていく。
記憶がない。
ここがどこか分からない。
なぜ椅子で眠っていたのかも分からない。
分からないことばかりが積み重なっていく。
部屋の右側に、ドアがあった。
白いドア。
壁と同じ色で、危うく見落としそうになるほどだった。
近づいて、ノブに手をかける。
冷たかった。
回す。
動かない。
もう一度、力を込める。
がちゃ、と小さな音がしただけで、ドアはびくともしなかった。
「開けてください」
今度は、少しだけ声になった。
返事はない。
「誰か、いませんか」
やはり、何も返ってこない。
拳でドアを叩いた。
一度。
二度。
三度。
音は部屋の中で小さく反響し、すぐに吸い込まれるように消えた。
外からの反応はなかった。
喉がさらに乾く。
鼓動が速くなる。
冷静でいようとするほど、指先が震えた。
机の上の紙。
それを見るしかなかった。
一歩ずつ近づく。
床は不自然なほど綺麗だった。傷も、汚れも、靴跡もない。まるで誰もここを歩いたことがないみたいに。
机の前で立ち止まる。
紙は、何の変哲もない白い紙だった。
折り目が中央に一本。
端が少しだけ曲がっている。
誰かがここに置いた。
自分が目を覚ます前に。
そう考えた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
この部屋に、誰かがいた。
少なくとも、少し前までは。
震える指で紙を取る。
紙は軽かった。けれど、その軽さが逆に怖かった。
ゆっくりと開く。
中には、短い言葉が書かれていた。
逃げろ。
たった三文字。
黒いインクで、強く、乱れた字。
息が止まった。
逃げろ。
何から。
誰から。
どこへ。
この部屋から出ることさえできないのに。
紙を裏返す。
何も書かれていない。
もう一度、表を見る。
逃げろ。
その文字が、目の奥に焼きついて離れない。
誰が書いたのか。
自分に向けたものなのか。
それとも、別の誰かに宛てられたものなのか。
分からない。
けれど、ひとつだけ確かなことがあった。
これは、冗談ではない。
文字の乱れ方。
紙の端に残る小さなしわ。
急いで書かれたような筆跡。
書いた人間は、焦っていた。
恐れていた。
そして、どうしてもこの言葉を残さなければならなかった。
逃げろ。
その言葉が、部屋の白さを少しずつ違う色に変えていく。
ここは安全な場所ではない。
そう思った途端、今まで見逃していたものが、急に目につき始めた。
ベッドがない。
点滴台がない。
ナースコールがない。
薬品の匂いもしない。
白い壁。
白い机。
硬い椅子。
開かない窓。
鍵のかかったドア。
自分は治療されていたのではない。
ここに、置かれていた。
まるで誰かが、自分が目を覚ますのを待っていたみたいに。
壁の高い位置に、黒い点があった。
最初は汚れかと思った。
けれど、白い壁の中で、そこだけが不自然に黒い。
近づいて見上げる。
小さな丸い穴。
通気口にしては小さすぎる。
傷にしては整いすぎている。
見られている。
そう思った瞬間、心臓が大きく跳ねた。
誰かが、この部屋の外から見ている。
いや、そんなはずはない。
ただの穴かもしれない。
何かの設備かもしれない。
そう言い聞かせても、視線を感じた。
白い壁の向こう側から、じっと見つめられているような気がした。
紙を握る手に力が入る。
逃げろ。
逃げたい。
けれど、どこへ?
ドアは開かない。
窓も開かない。
この部屋には、隠れる場所すらない。
ふと、壁の時計が目に入った。
丸い時計。
何の飾りもない、白い縁の時計。
針は八時を指していた。
長針が十二。
短針が八。
秒針は、動いていない。
八時ちょうどで止まっている。
朝の八時なのか、夜の八時なのか。
それとも、ずっと前から止まっているのか。
分からない。
だけど、止まった時計を見ていると、不思議と胸の奥がざわついた。
八時。
その数字を、どこかで見た気がする。
記憶の底で、何かが動いた。
暗い部屋。
誰かの声。
机を叩く音。
まぶしい光。
そこまで浮かびかけて、頭に鋭い痛みが走った。
「っ……」
思わず机に手をつく。
視界が揺れた。
白い部屋が、ぐにゃりと歪む。
耳の奥で、誰かの声がした。
――思い出すな。
誰の声だ。
自分の声なのか。
それとも、知らない誰かの声なのか。
顔を上げる。
部屋は変わらず白かった。
静かだった。
何も起きていない。
でも、手の中には紙がある。
逃げろ。
これは現実だ。
自分は、この部屋に閉じ込められている。
ドアへ向かう。
もう一度、ノブを回す。
やはり開かない。
叩く。
「開けてください!」
声が少しだけ強くなる。
「誰か! 聞こえてるなら開けてください!」
返事はない。
代わりに、天井のどこかで低い音がした。
ぶうん、と機械が動き出すような音。
換気の音だろうか。
それとも、別の何か。
空気がわずかに冷たくなった気がした。
部屋の隅に、細い線が見えた。
壁と床の境目ではない。
白い壁に、縦の細い切れ目がある。
近づいて触れる。
指先に、かすかな凹みがあった。
何かの扉?
だが、取っ手はない。
押しても引いても動かない。
ただ、壁の一部がそこだけ不自然に分かれている。
隠し扉かもしれない。
そう思った瞬間、希望に似たものが胸に浮かんだ。
けれど、すぐに消えた。
開け方が分からない。
部屋の中を探す。
机の下。
椅子の裏。
床の隅。
壁の近く。
何もない。
鍵も、道具も、メモもない。
あるのは、机と椅子と、あの紙だけ。
まるで、最初から選択肢など与えられていないみたいだった。
そのときだった。
かちり。
小さな音がした。
全身が固まる。
音は、ドアの向こうからだった。
鍵の音。
誰かがいる。
紙を握りしめる。
呼吸が止まりそうになる。
逃げろという言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
でも、逃げ場はない。
ドアノブが、ゆっくりと動いた。
がちゃり。
白いドアが、ほんの少しだけ開く。
隙間から、廊下の暗がりが見えた。
白い部屋の外は、白くなかった。
その事実に、なぜかひどく恐怖した。
隙間の向こうに、人影が立っている。
顔は見えない。
逆光になっているわけでもないのに、なぜか輪郭だけが黒く沈んでいる。
その人物は、すぐには入ってこなかった。
ただ、こちらを見ていた。
見られている。
壁の穴から感じたものと同じ感覚が、今度ははっきりと形を持って目の前にあった。
逃げろ。
紙の文字が、手の中で潰れる。
人影が、静かに口を開いた。
「目が覚めたんですね」
その声を聞いた瞬間、頭の奥で何かが割れた。
知っている。
この声を、自分は知っている。
でも、思い出せない。
思い出してはいけない。
そんな感覚が、胸の奥からせり上がってくる。
人影が一歩、部屋に入る。
白い床に、黒い靴が触れた。
「大丈夫です。怖がらないでください」
優しい声だった。
けれど、その優しさが怖かった。
なぜなら、その人は一度も言わなかったからだ。
ここがどこなのか。
自分が誰なのか。
なぜ閉じ込められていたのか。
何も説明しないまま、ただ微笑む気配だけをまとって、こちらへ近づいてくる。
あなたは一歩、後ずさる。
背中が壁に触れた。
もう下がれない。
人影の視線が、あなたの手元に落ちる。
握りしめた紙。
逃げろ。
その文字を見たのか、人影の動きが止まった。
ほんの一瞬。
本当に、ほんの一瞬だけ。
その人の声から、優しさが消えた。
「それを、どこで見つけました?」
答えられなかった。
声が出ない。
人影はまた、一歩近づく。
その瞬間、部屋の時計が動いた。
止まっていたはずの秒針が、かちり、と音を立てた。
一秒。
二秒。
三秒。
白い部屋に、時計の音だけが響く。
かちり。
かちり。
かちり。
あなたは紙を握ったまま、人影を見つめる。
逃げろ。
逃げろ。
逃げろ。
でも、どこへ。
人影が、手を伸ばす。
その指先が紙に触れようとした瞬間、天井のどこかから、突然、短い電子音が鳴った。
ぴ、と。
人影が顔を上げる。
その隙に、あなたは動いていた。
考えたわけではない。
体が勝手に動いた。
人影の横をすり抜け、半開きのドアへ向かう。
「待って!」
声が追いかけてくる。
けれど、止まらない。
白い部屋を飛び出した瞬間、冷たい空気が頬を打った。
廊下は暗かった。
長く、細く、先が見えない。
白い部屋の中では聞こえなかった音が、廊下にはあった。
遠くで鳴る足音。
低く響く機械音。
誰かの話し声のようなもの。
そして、どこかで聞こえる、笑い声。
あなたは振り返らなかった。
手の中には、しわくちゃになった紙。
逃げろ。
その三文字だけを頼りに、あなたは暗い廊下を走り出した。
自分が誰なのかも分からないまま。
何から逃げているのかも分からないまま。
ただひとつだけ、確信していた。
あの白い部屋に戻ってはいけない。
絶対に。
廊下の奥で、赤いランプが点滅している。
その下に、扉があった。
扉の上には、かすれた文字で何かが書かれている。
走りながら、それを読む。
――取調室。
その文字を見た瞬間、足が止まりそうになった。
病室では、なかった。
白い部屋は、病室ではなかった。
背後から、足音が近づいてくる。
「逃げても無駄です」
優しかったはずの声が、もう優しくない。
「あなたは、まだ何も思い出していない」
胸の奥で、何かが崩れた。
思い出していない。
では、自分は何を忘れている?
何をした?
何を見た?
そして――誰から逃げている?
赤いランプが、また光る。
その光の下で、手の中の紙がわずかに開いた。
裏には何も書かれていなかったはずだった。
けれど、今は違った。
汗で濡れた紙の裏側に、薄く文字が浮かび上がっていた。
震える手で、紙を広げる。
そこには、小さく、こう書かれていた。
――探偵を信じるな。
背後で、足音が止まった。
そして、あの声が言った。
「やっと、そこまで読めましたか」
あなたは、振り返る。
暗い廊下の先に立つその人が、ゆっくりと微笑んだ。
誰なのか、まだ分からない。
けれど、ひとつだけ分かった。
これは、始まりだ。
自分が失った記憶と、これから起こる事件。
そのすべてが、この白い部屋から始まっていた。
逃げろ。
探偵を信じるな。
二つの言葉を握りしめたまま、あなたは再び走り出した。


