あなたが最後に見た景色

 最初に感じたのは、白だった。

 目を開けた、という感覚はなかった。
 まぶたの裏側に、じわじわと光が染み込んでくる。暗闇に慣れきっていた視界が、ゆっくりと塗り替えられていく。

 白い。

 ただ、白い。

 天井も、壁も、視界の端に映る床も、何もかもが同じ色をしていた。

 頭の奥が鈍く痛む。
 強く何かを打ちつけた後のような重さが、こめかみのあたりに残っていた。息を吸うたび、喉の奥が乾いてひりつく。

 ここは、どこだろう。

 そう思った瞬間、自分の中にあるはずのものが、何ひとつ掴めないことに気づいた。

 名前。

 年齢。

 ここへ来るまでの記憶。

 昨日、何をしていたのか。
 最後に誰と話したのか。
 そもそも、自分がどんな声で笑う人間だったのか。

 何も、出てこない。

 頭の中に手を伸ばしても、指先に触れるのは空っぽの霧だけだった。

 起き上がろうとして、体が小さく軋んだ。
 背中が硬い。布団の柔らかさではない。マットレスの沈み込みでもない。

 背もたれ。

 そこでようやく、自分が横になっていたのではなく、椅子にもたれかかるようにして眠っていたのだと気づいた。

 椅子は簡素なものだった。肘掛けもなく、座面は硬い。長く座っていれば腰が痛くなりそうな、何の温かみもない椅子。

 白い部屋。
 硬い椅子。
 静かすぎる空気。

 病室のように見えた。
 けれど、耳を澄ませても、人の気配はない。

 廊下を歩く足音も。
 遠くで鳴る機械音も。
 誰かの話し声も。
 カーテンが揺れる音さえも。

 何も聞こえない。

 自分の呼吸だけが、やけに大きく聞こえていた。

「……誰か」

 声を出したつもりだった。
 けれど、喉から漏れたのは、かすれた息に近い音だけだった。

 もう一度、周囲を見る。

 部屋には机が一台あった。
 四角い、白い机。壁と同じ色をしているせいで、部屋に溶け込んでいるように見える。

 机の上には、何もない。

 いや。

 紙が一枚、置かれていた。

 遠目では、ただの白い紙に見えた。けれど、折り目がある。誰かが丁寧に二つ折りにして、そこへ置いたものらしい。

 立ち上がろうとして、足に力が入らなかった。

 膝が震える。
 床に触れた足裏が冷たい。
 まるでこの部屋全体が、温度を忘れてしまったみたいだった。

 壁に手をつき、ゆっくり立ち上がる。

 そのとき、自分の腕が目に入った。

 何も付いていない。

 包帯も、点滴も、チューブも、名前の書かれたリストバンドもない。病院で目覚めたのなら、何かしら処置の跡があってもおかしくないはずなのに。

 腕はただ、そこにあった。
 自分のものなのに、どこか知らない誰かの腕のように見えた。

 胸の奥が、嫌な音を立てて沈んでいく。

 本当に、ここは病院なのだろうか。

 壁を見た。
 天井を見た。
 床を見た。

 白い。
 白すぎる。

 清潔というより、消されているような白だった。

 窓があった。

 部屋の奥、ちょうど机の向こう側。
 細長い窓がひとつだけ、壁に埋め込まれている。

 外は見えなかった。
 曇りガラスの向こうには、白い光だけが広がっている。朝なのか、昼なのか、夜なのかさえ分からない。

 窓に近づき、手をかける。

 開かない。

 鍵がかかっているのかと思ったが、違った。取っ手がない。そもそも、開けるための作りになっていない。

 ただ、そこにあるだけの窓。

 外を見るためではなく、こちらを閉じ込めるための窓。

 そんな考えが頭をよぎって、すぐに打ち消した。

 落ち着け。
 きっと理由がある。

 危険だから開かないようになっているのかもしれない。
 特殊な施設なのかもしれない。
 自分は何かの検査中で、だからここにいるのかもしれない。

 そう考えようとした。

 けれど、考えようとすればするほど、頭の奥が白く濁っていく。

 記憶がない。
 ここがどこか分からない。
 なぜ椅子で眠っていたのかも分からない。

 分からないことばかりが積み重なっていく。

 部屋の右側に、ドアがあった。

 白いドア。
 壁と同じ色で、危うく見落としそうになるほどだった。

 近づいて、ノブに手をかける。

 冷たかった。

 回す。

 動かない。

 もう一度、力を込める。

 がちゃ、と小さな音がしただけで、ドアはびくともしなかった。

「開けてください」

 今度は、少しだけ声になった。

 返事はない。

「誰か、いませんか」

 やはり、何も返ってこない。

 拳でドアを叩いた。
 一度。
 二度。
 三度。

 音は部屋の中で小さく反響し、すぐに吸い込まれるように消えた。

 外からの反応はなかった。

 喉がさらに乾く。
 鼓動が速くなる。
 冷静でいようとするほど、指先が震えた。

 机の上の紙。

 それを見るしかなかった。

 一歩ずつ近づく。
 床は不自然なほど綺麗だった。傷も、汚れも、靴跡もない。まるで誰もここを歩いたことがないみたいに。

 机の前で立ち止まる。

 紙は、何の変哲もない白い紙だった。
 折り目が中央に一本。
 端が少しだけ曲がっている。

 誰かがここに置いた。

 自分が目を覚ます前に。

 そう考えた瞬間、背筋に冷たいものが走った。

 この部屋に、誰かがいた。

 少なくとも、少し前までは。

 震える指で紙を取る。
 紙は軽かった。けれど、その軽さが逆に怖かった。

 ゆっくりと開く。

 中には、短い言葉が書かれていた。

 逃げろ。

 たった三文字。

 黒いインクで、強く、乱れた字。

 息が止まった。

 逃げろ。

 何から。
 誰から。
 どこへ。

 この部屋から出ることさえできないのに。

 紙を裏返す。
 何も書かれていない。

 もう一度、表を見る。

 逃げろ。

 その文字が、目の奥に焼きついて離れない。

 誰が書いたのか。
 自分に向けたものなのか。
 それとも、別の誰かに宛てられたものなのか。

 分からない。

 けれど、ひとつだけ確かなことがあった。

 これは、冗談ではない。

 文字の乱れ方。
 紙の端に残る小さなしわ。
 急いで書かれたような筆跡。

 書いた人間は、焦っていた。
 恐れていた。
 そして、どうしてもこの言葉を残さなければならなかった。

 逃げろ。

 その言葉が、部屋の白さを少しずつ違う色に変えていく。

 ここは安全な場所ではない。

 そう思った途端、今まで見逃していたものが、急に目につき始めた。

 ベッドがない。

 点滴台がない。

 ナースコールがない。

 薬品の匂いもしない。

 白い壁。
 白い机。
 硬い椅子。
 開かない窓。
 鍵のかかったドア。

 自分は治療されていたのではない。

 ここに、置かれていた。

 まるで誰かが、自分が目を覚ますのを待っていたみたいに。

 壁の高い位置に、黒い点があった。

 最初は汚れかと思った。
 けれど、白い壁の中で、そこだけが不自然に黒い。

 近づいて見上げる。

 小さな丸い穴。

 通気口にしては小さすぎる。
 傷にしては整いすぎている。

 見られている。

 そう思った瞬間、心臓が大きく跳ねた。

 誰かが、この部屋の外から見ている。

 いや、そんなはずはない。
 ただの穴かもしれない。
 何かの設備かもしれない。

 そう言い聞かせても、視線を感じた。

 白い壁の向こう側から、じっと見つめられているような気がした。

 紙を握る手に力が入る。

 逃げろ。

 逃げたい。

 けれど、どこへ?

 ドアは開かない。
 窓も開かない。
 この部屋には、隠れる場所すらない。

 ふと、壁の時計が目に入った。

 丸い時計。
 何の飾りもない、白い縁の時計。

 針は八時を指していた。

 長針が十二。
 短針が八。

 秒針は、動いていない。

 八時ちょうどで止まっている。

 朝の八時なのか、夜の八時なのか。
 それとも、ずっと前から止まっているのか。

 分からない。

 だけど、止まった時計を見ていると、不思議と胸の奥がざわついた。

 八時。

 その数字を、どこかで見た気がする。

 記憶の底で、何かが動いた。

 暗い部屋。
 誰かの声。
 机を叩く音。
 まぶしい光。

 そこまで浮かびかけて、頭に鋭い痛みが走った。

「っ……」

 思わず机に手をつく。

 視界が揺れた。
 白い部屋が、ぐにゃりと歪む。

 耳の奥で、誰かの声がした。

 ――思い出すな。

 誰の声だ。

 自分の声なのか。
 それとも、知らない誰かの声なのか。

 顔を上げる。

 部屋は変わらず白かった。
 静かだった。
 何も起きていない。

 でも、手の中には紙がある。

 逃げろ。

 これは現実だ。

 自分は、この部屋に閉じ込められている。

 ドアへ向かう。
 もう一度、ノブを回す。
 やはり開かない。

 叩く。

「開けてください!」

 声が少しだけ強くなる。

「誰か! 聞こえてるなら開けてください!」

 返事はない。

 代わりに、天井のどこかで低い音がした。

 ぶうん、と機械が動き出すような音。

 換気の音だろうか。
 それとも、別の何か。

 空気がわずかに冷たくなった気がした。

 部屋の隅に、細い線が見えた。

 壁と床の境目ではない。
 白い壁に、縦の細い切れ目がある。

 近づいて触れる。
 指先に、かすかな凹みがあった。

 何かの扉?

 だが、取っ手はない。
 押しても引いても動かない。

 ただ、壁の一部がそこだけ不自然に分かれている。

 隠し扉かもしれない。

 そう思った瞬間、希望に似たものが胸に浮かんだ。
 けれど、すぐに消えた。

 開け方が分からない。

 部屋の中を探す。
 机の下。
 椅子の裏。
 床の隅。
 壁の近く。

 何もない。

 鍵も、道具も、メモもない。

 あるのは、机と椅子と、あの紙だけ。

 まるで、最初から選択肢など与えられていないみたいだった。

 そのときだった。

 かちり。

 小さな音がした。

 全身が固まる。

 音は、ドアの向こうからだった。

 鍵の音。

 誰かがいる。

 紙を握りしめる。

 呼吸が止まりそうになる。
 逃げろという言葉が、頭の中で何度も繰り返される。

 でも、逃げ場はない。

 ドアノブが、ゆっくりと動いた。

 がちゃり。

 白いドアが、ほんの少しだけ開く。

 隙間から、廊下の暗がりが見えた。

 白い部屋の外は、白くなかった。

 その事実に、なぜかひどく恐怖した。

 隙間の向こうに、人影が立っている。

 顔は見えない。
 逆光になっているわけでもないのに、なぜか輪郭だけが黒く沈んでいる。

 その人物は、すぐには入ってこなかった。

 ただ、こちらを見ていた。

 見られている。

 壁の穴から感じたものと同じ感覚が、今度ははっきりと形を持って目の前にあった。

 逃げろ。

 紙の文字が、手の中で潰れる。

 人影が、静かに口を開いた。

「目が覚めたんですね」

 その声を聞いた瞬間、頭の奥で何かが割れた。

 知っている。

 この声を、自分は知っている。

 でも、思い出せない。

 思い出してはいけない。

 そんな感覚が、胸の奥からせり上がってくる。

 人影が一歩、部屋に入る。

 白い床に、黒い靴が触れた。

「大丈夫です。怖がらないでください」

 優しい声だった。

 けれど、その優しさが怖かった。

 なぜなら、その人は一度も言わなかったからだ。

 ここがどこなのか。

 自分が誰なのか。

 なぜ閉じ込められていたのか。

 何も説明しないまま、ただ微笑む気配だけをまとって、こちらへ近づいてくる。

 あなたは一歩、後ずさる。

 背中が壁に触れた。

 もう下がれない。

 人影の視線が、あなたの手元に落ちる。

 握りしめた紙。

 逃げろ。

 その文字を見たのか、人影の動きが止まった。

 ほんの一瞬。

 本当に、ほんの一瞬だけ。

 その人の声から、優しさが消えた。

「それを、どこで見つけました?」

 答えられなかった。

 声が出ない。

 人影はまた、一歩近づく。

 その瞬間、部屋の時計が動いた。

 止まっていたはずの秒針が、かちり、と音を立てた。

 一秒。

 二秒。

 三秒。

 白い部屋に、時計の音だけが響く。

 かちり。

 かちり。

 かちり。

 あなたは紙を握ったまま、人影を見つめる。

 逃げろ。

 逃げろ。

 逃げろ。

 でも、どこへ。

 人影が、手を伸ばす。

 その指先が紙に触れようとした瞬間、天井のどこかから、突然、短い電子音が鳴った。

 ぴ、と。

 人影が顔を上げる。

 その隙に、あなたは動いていた。

 考えたわけではない。
 体が勝手に動いた。

 人影の横をすり抜け、半開きのドアへ向かう。

「待って!」

 声が追いかけてくる。

 けれど、止まらない。

 白い部屋を飛び出した瞬間、冷たい空気が頬を打った。

 廊下は暗かった。

 長く、細く、先が見えない。

 白い部屋の中では聞こえなかった音が、廊下にはあった。

 遠くで鳴る足音。
 低く響く機械音。
 誰かの話し声のようなもの。

 そして、どこかで聞こえる、笑い声。

 あなたは振り返らなかった。

 手の中には、しわくちゃになった紙。

 逃げろ。

 その三文字だけを頼りに、あなたは暗い廊下を走り出した。

 自分が誰なのかも分からないまま。

 何から逃げているのかも分からないまま。

 ただひとつだけ、確信していた。

 あの白い部屋に戻ってはいけない。

 絶対に。

 廊下の奥で、赤いランプが点滅している。

 その下に、扉があった。

 扉の上には、かすれた文字で何かが書かれている。

 走りながら、それを読む。

 ――取調室。

 その文字を見た瞬間、足が止まりそうになった。

 病室では、なかった。

 白い部屋は、病室ではなかった。

 背後から、足音が近づいてくる。

「逃げても無駄です」

 優しかったはずの声が、もう優しくない。

「あなたは、まだ何も思い出していない」

 胸の奥で、何かが崩れた。

 思い出していない。

 では、自分は何を忘れている?

 何をした?

 何を見た?

 そして――誰から逃げている?

 赤いランプが、また光る。

 その光の下で、手の中の紙がわずかに開いた。

 裏には何も書かれていなかったはずだった。

 けれど、今は違った。

 汗で濡れた紙の裏側に、薄く文字が浮かび上がっていた。

 震える手で、紙を広げる。

 そこには、小さく、こう書かれていた。

 ――探偵を信じるな。

 背後で、足音が止まった。

 そして、あの声が言った。

「やっと、そこまで読めましたか」

 あなたは、振り返る。

 暗い廊下の先に立つその人が、ゆっくりと微笑んだ。

 誰なのか、まだ分からない。

 けれど、ひとつだけ分かった。

 これは、始まりだ。

 自分が失った記憶と、これから起こる事件。

 そのすべてが、この白い部屋から始まっていた。

 逃げろ。

 探偵を信じるな。

 二つの言葉を握りしめたまま、あなたは再び走り出した。