下級女官リリルの片思いと奔走


レオナルドが重々しい音を立てて鍵を回し、バルコニーへの扉を開いた。

エリウスはまるで曲芸師を見る子供のように、急いで中に入って行き、手すりに手を置いて乗り出すようにしたが、暗すぎて、何も見えない。

レオナルドが手を挙げると、松明に火が灯されて、目の前に景色が現れた。もう一度、手を挙げると、家来たちが一斉に引き下がった。

きみが見たかったのは、これですか、とレオナルドの瞳が聞いていた。

そうです。これです、これ。
エリウスはあの時と同じ姿勢をして、外を眺めた。その姿が懐かしすぎて、レオナルドの目が釘付けになっていた。

エリウスはあの時、どうやってここまで来たのか、覚えていないが、レオナルドの「これが、私の最も好きな景色だ」という声と、この光景は不思議とよく覚えている。

あの時、陛下は「これからは、私の好きなものを全部、あなたに見せたいのです」と言ってくれた。

あの時の言葉がエリウスの胸にじんわりと広がっていき、大事なものを壊してしまい、もう二度と取り戻せないのだという思いが迫ってきて、泣きたいような気持ちになった。

松明は赤く燃えていた。目の中では、あの時のように、草原が黄金色に輝き、遠くの町からは、夕餉の煙が幾筋も立ち上っている光景が見えた。

エリウスが笑顔で、振り向いた。
「あの日に見た景色だけは、まるで昨日のことのように覚えているのに、どうして、ここまでの道のりが思い出せなかったのか。今、わかりました」
とエリウスが愉快そうに微笑んだ。

「どうして?」

「慣れないヒールに、足が痛くて、そちらに意識を奪われていたからです」
ふたりは、同時に吹き出した。

「そうだったね。それに、きみが何も言わなかったのは」

「声を出すと、すぐに男だとばれてしまうから」

「それに、いや、あの時は、私が抱えて連れて行ったのではなかったかな」
とレオナルドが、抱きかかえるような仕草をした。

「そうだったかもしれません」

「あの時は、よくリリルに睨まれたものだ。それに、今思うと、リリルが饒舌だったのは、そういうことだったのか。随分とでしゃばる女官だと思ったよ」

「リリルも、必死だったのです」
ふたりの視線が交わり、声をたてて笑った。

「こんな日も、来るものなのですね」

「生きていればな。エリウス、生きていてくれて、ありがとう」
レオナルドが笑顔で、肩を叩いた。

そして、彼はエリウスに向かってそっと囁いた。
「エリウス、もう一度だけ、あの時のセシリアになってはくれないか」

「は、はい」
エリウスが静かに頷いて目を閉じると、レオナルドは彼を抱き上げた。そして、少しだけ唇を重ねた後、すぐにそっと床に降ろした。

「これで最後だ」
王がそう言った。

しかし、レオナルドはまたエリウスの顔を両手で挟み、顔を近づけて、もう一度唇を重ねた。

それは問いかけるような、答えを見つけたいというような、どうしても相手の真の気持ちを確かめ合いたいというような、口づけ。

心を探り合うような、深い情熱が魂の奥まで届くような、そんな長い口づけだった。

唇が離れた後、ふたりは荒い息をしたまま、熱を帯びた頬を見つめ合った。

レオナルドが先に視線を逸らし、エリウスもゆっくりと足元の石畳を見つめた。

「あの時、僕は愛したかったんです。でも、できなかった」

「私も、セシリアのことを、何度、思い返したか知れない。でも、思い出すのも、これが最後にしよう」



ふたりは、空気が揺れたような気配がしたので周囲を見回すと、そこに緊張を破るような存在がいることに気がついた。

「あっ、リリル!」
エリウスが声を上げた。

「リリル、あなたは誤解なさったかもしれませんけれど」
とレオナルドが説明しかけた時、リリルはそっと手を挙げ、彼の言葉を遮った。

「いいえ、私は何も誤解はしていません」
とリリルがまっすぐに立っていた。

「私は、全て理解しています」
リリルは相手に口を挟む間を与えずに、言い切った。

「今、そこにいらっしゃったのは、あの時のセシリア様です」

彼女はつかつかと歩み寄り、エリウスの手を取った。
「こちらは、私の夫、エリウス様です。全部知っておりますから、ですから、何もご心配なさらないでください」

リリルは陛下に一礼し、エリウスに柔らかな微笑みを向けた。

「さあ、参りましょう。発つ前に、王妃様がぜひ赤ちゃんを抱いていただきたいから、お部屋に来てくださいとのことで、お待ちかねです」

「そうだね。行こう」


*

エリウスとリリルは礼をした後、バルコニーを出て、並んで宮廷の奥へと続く長い廊下を歩いて行った。

「私は国王とのことはいつも気にかけていましたから、おわりの時を見られて、安心しました」
リリルが先に口を開いた。

「うん、おわりだ」
エリウスはリリルの左手を強く握った。

リリルはそっと右手の指先で涙を拭い、そして、握られた左手に、ぐっと力を込めて握り返した。

エリウスは立ち止まって、リリルのほうを向いた。
「リリル、ありがとう」

「いいえ」
リリルは首を横に振った。
「私こそ、ありがとうございます」

「僕に?」

「はい」
リリルが頷いた。

「エリウス様は、ずっと苦しんでおられました。レオナルド陛下への想いを、心の奥に、しまい込んで」

エリウスの目に、涙が浮かんだ。
「でも、あなたは今夜、ちゃんと『おわり』にしました」
とリリルが微笑んだ。
「だから、私、嬉しいんです。悲しいけれど、嬉しいんです」

「リリル……」

「これからは」
リリルが、エリウスの手を両手で包み込んだ。

「エリウス様は、誰のものでもありません。過去に縛られることなく、自由に、生きていけますね」

「うん」

「そして」
リリルが顔を上げて、エリウスをまっすぐ見つめた。

「二人で、新しい世界を見に行きましょう。ずっと夢見ていた、あの旅に」
エリウスがリリルを抱きしめた。

「私、エリウス様と出会えて、本当に運がよかったと思います。あの時、宮廷に雇われて、セシリア様付きの女官になって、そして」
リリルが少し笑った。

「あの嵐の夜の翌日、エリウス様と一緒に、アストリウスに向かい、それから逃げ出して、いろいろなことを乗り越えました。冒険でしたね」

「そうだね。リリルがいてくれたから、冒険ができたんだよ。これからも、一緒に、冒険を続けていこう」

「わたし、冒険大好きです」
リリルが、大きく頷いた。「でも、人生が冒険だなんて、今さっき、気がついたんです。だから、今度はもっとやれます」

「落ち着いていこうな」
エリウスが、リリルの背中を優しく撫でた。

「そうなんです。私、すぐに興奮してやりすぎちゃうから、気をつけます」
リリルが、照れ隠しに舌を少しだけ出した。

二人はしばらく抱き合っていたが、やがて離れると、手を繋いで再び歩き出した。
リリルの頬を、一筋の涙が静かに滑り落ちた。
           


二人の前には、広い世界が広がっている。
行ったことのない町。
見たことのない景色。
出会ったことのない人々。
新しい世界には、何が待っているのだろうか。

ひとつの物語が終わり、ひとつの物語がここから始まる。
          

                了