下級女官リリルの片思いと奔走


アストリウスを発つ前日、エリウスは父王と姉のセシリア、そしてリリルの四人で夕食を共にした。

燭光に照らされた迎賓館の食堂では、国王は旅が終わったらどうしても国に帰ってきてほしいと、エリウスに何度も念を押した。

「国のためだけではない。父親としても、きみたちにそばにいてほしい」

エリウスが曖昧な態度をしているので、国王がリリルに向かって優しく微笑んだ。
「いいかい、ふたりで、なるべく早く、帰ってくるのだよ。どんなことをしても、エリウスを引っ張って、帰ってくるのだよ。リリル、きみにしかできない仕事だ」

「はい」とリリルが答えた。



「緊張したかい」
迎賓館を出る時、エリウスがリリルに聞いた。

「はい」

「今夜は、みんなとゆっくり楽しむといい」

「用事が早く済んだら、来てくださいますか」

「そうだね」
その夜、リリルは女官仲間だったソフィラ、そして、婚約者で親衛隊のルイカが加わる予定になっていた。

「じゃ、あとでね」
エリウスがそう言い、リリルが頷き、その後、ふたりは廊下を左右に別れた。

*

エリウスには、ここを発つ前に、どうしても整理しておかなければならない思いがあった。

廊下の端にある窓から柔らかな月光が差し込み、少し首を垂れたエリウスの影が、床に映し出されていた。

数日前、剣士のための晩餐会で、エリウスは国王の二つ隣の席に着いていた。彼の顔が仮面で覆われていたこともあり、国王に気づかれることはなかった。

初めて王の顔を見た三年前、エリウスは彼を物悲しげな人だと感じた。しかし、その後に出会った彼の表情は違った。温和で、優しくて、情熱的だった。

しかし、先日の晩餐会では、ああいう表情を一度も見ることができなかった。一番最初に見た時の、物悲しい人の顔がそこにあった。


*

エリウスがレオナルド王の部屋の扉をノックした。

「どうぞ」
というレオナルドの懐かしい声が響いた。

エリウスが部屋に入ると、レオナルドは窓を背にして立っていた。

窓から差し込む月光が彼の背中を照らし、その姿はどこか神秘的で、三年前と同じような気もするし、どこか違うような気もした。

「ゼリアンです」

「ああ。先日、庭で会いましたね。今度の模範演技は見事でした」

「ありがとうございます」
エリウスは息を整えた。

「国王、僕が誰かわかりますか?」
レオナルドがじっと彼の顔を眺めてから、頷いた。

「私はエリウスです」

「セシリアの弟」
窓から差し込む青白い光が入りこみ、レオナルドの声には少し困惑が含まれていた。

「はい。弟のエリウスです」

「王妃が弟は留学していると言っていたが、戻ってきたのか」

「はい」

「それはよかった。セシリアがさぞ喜んでいることだろう」
レオナルドが喜びの表情を浮かべた。

エリウスはここで会話を切ることもできたが、彼は続けた。

「国王、私が誰かわかりますか。三年前、私は姉の身代わりでセシリアとして国王に嫁ぎ、ここで、陛下と、二週間暮らしました」

「ゼリアンがエリウスで、エリウスがセシリアだったということだな」
レオナルドの眉がわずかに動いた。

「あの時は申し訳ありませんでした」
エリウスの声が少し震えていた。

「実は、少し前から感づいてはいた。試合の最後でゼリアンの仮面が取れた時、確信になった。しかし、きみがここにいた三年前には、まさかセシリアの身代わりだったとは、全く知らなかった」

「すみません」

「エリウス、きみが謝ることは、ひとつもない」
レオナルドが顔を曇らせ、唇を固く結んだ。

「いいえ。謝ることがないことはないはずです。すべてが、僕の責任なのに」

レオナルドは深い呼吸をした。
「あの頃、私はセシリアに夢中だったのだよ。鋼のような私の魂に飛び込んできた存在を、私は天からの贈り物だと思っていた」

レオナルドの言葉が、エリウスの心を稲妻のように貫いた。

「すみません。でも、……僕は女子ではなかったから」

エリウスがそう言うと、レオナルドは一歩詰め寄った。

「わかるかい。私は、たとえばきみが話せても、話せなくても、目が見えても、見えなくても、男でも、女でも、恋をしていたと思う。どう言ったらよいのだろうか、きみの存在そのものを心から愛したのだよ」

レオナルドの声には真摯な思いが込められており、その言葉にエリウスの心中では、すまなさと、感激が交じり合っていた。

「同じです。僕も……愛していました」

「それは、本当なのか。すっかり嫌われてしまったと思っていたけれど」

エリウスは強く首を横に振った。
「いいえ。本気で愛していました。でも、それができないから、逃げてしまいました」

そうなのか、とレオナルドは天を仰いだ。

「私はあんなに人を愛したことがなかったのだよ。愛することのできる相手と出会うのは、奇跡のようなものだからね。あんなに愛する人は、これからもないだろう。でも、生きてはいけるが」
レオナルドの声には深い哀愁が漂っていた。

エリウスの心はすまなさでいっぱいで、自分の胸に押し寄せる感情を抑えようとした。
レオナルドはしばらく考えていたが、意を決したように口を開いた。

「エリウス、いや、セシリア、抱き上げてもいいか」

レオナルドが突然そう言うと、エリウスは頷いて微笑んだ。

「今は無理ですよ。重いですから」

「訓練しているから、大丈夫だ」

そう言うとエリウスを両手で抱き上げ、しばらくそのままでいた。

「セシリア」
レオナルドがそっと呼びかける声は、エリウスの心の深い部分に響いていた。
エリウスはレオナルドの瞳を覗き込むように見つめていた。

レオナルドはようやくエリウスを床に下ろした後も、エリウスの小指を放すことができないでいた。


「最後、ひとつお願いがあります」
とエリウスが言うと、レオナルドは深く頷きながら答えた。

「きみの頼みなら、何でも聞こう。何でも言ってほしい」

「ありがとうございます」

「難しければ、難しいほどよいのだけれど」

レオナルドがそう言うと、エリウスは歯を見せて笑うと、レオナルドも微笑んで、彼の指を放した。

「陛下が一番好きだと言われた場所に連れていってください」

「あのバルコニーか」

「はい。思い出の場所には行ってみたのですが、バルコニーに行く道がわかりません」

「ああ。わかったとしても、あそこは、私しか入れない場所なのだよ」

レオナルドは腰を曲げて、机の一番下の引き出しから鍵を取り出した。

「そうだな。久しぶりに、行ってみようか」