下級女官リリルの片思いと奔走


迎えの馬車に乗り込むと、最初は石畳を軽快なリズムで進んでいたが、道が険しくなるにつれて不規則になっていった。

ガタン、ゴトン、ガタガタガタン。

車体が大きく揺れるたび、リリルの身体は座席に叩きつけられた。でも、痛みは感じなかった。 痛みよりも、不安が大きすぎて。

エリウスは向かいの席で、窓の外をじっと見つめていた。ヴェール越しでも、その横顔の緊張が伝わってくる。唇をきつく結び、時折、小さく息を吐く。
その息は白く曇って、すぐに消えた。外の空気が冷たくなってきたのだ。

エルナリス国の温暖な気候から、山岳地帯の冷気へ。景色だけでなく、空気も、匂いも、すべてが変わっていく。

リリルは何か話しかけるべきだと思った。こういう沈黙は、エリウス様をさらに不安にさせるだろう。
でも、何を話せばいいのだろうか。 慰めの言葉は空虚に響くだろうし、励ましの言葉は嘘っぽく聞こえるだろう。

馬車の中には、車輪の音と、馬のいななきと、御者の掛け声だけが響いていた。 どれくらい時間が経っただろうか。

窓の外の景色が緑の丘陵地帯から、次第に岩肌の露出した荒涼とした山道へと変わっていった。
木々は背が低くなり、やがてまばらになり、ついには岩と砂利だけの風景になった。

国境を越えたのだろう。エルナリス国から、アストリウス国へ。



「リリル」
エリウスが突然、口を開いた。その声はか細く、まるで何かに怯えているかのようだった。
「はい、エリウス様」
リリルは背筋を伸ばした。

「アストリウス国って、どんな国だか知っているかい?」
エリウスは窓の外を見たまま、リリルの方を向かなかった。まるで、答えを聞くのが怖いかのように。

「新興国だと聞いています」

「うん。レオナルド王がわずか数年で領土を広げたと。鉱山が豊富で、それが国の富の源だそうだ」

「強い王様なのですね」

でも、リリルはレオナルド王に関するほかのことを知っていた。ソフィラから聞いた噂。城の使用人たちが囁き合っていた話。
辺境の冷血国王。
銀色の髪に、黄色い目。猛禽類を思わせる、人を射抜くような目だという。 気に入らないと、人を簡単に死刑にする。感情を顔に出さない。笑わない。誰も近づけない。

そんな冷酷王のもとへ、エリウス様は向かっている。リリルの胸が、ぎゅっと締めつけられた。

「リリル」
エリウスがリリルの方を向くと、ヴェール越しでも、その目に浮かぶ不安が見えた。

「怖いかい?」
リリルは、嘘をついて「怖くありません」と強がろうと思った。

でも、「はい。怖いです」 と本当のことを言ってしまった。

エリウスの目が、驚いていた。リリルが弱音を吐くとは思っていなかったのだろう。

「でも」
とリリルは続けた。
「エリウス様が一緒だから、きっと大丈夫です」
それは、本心だった。エリウス様がいれば、どんな場所でも、たとえそれが地獄の底でも、行ける気がした。

エリウスが、小さく笑った。悲しそうな、でも少し安心したような笑みだった。

「逆だよ、リリル」

「え?」

「僕が、リリルのおかげで大丈夫なんだ」
その言葉が、リリルの胸の奥深くまで染み込んだ。温かくて、切なくて、そして、愛おしくて。

「はい。大丈夫です。私、怖くないです」
とリリルが力強く言った。

「私が、しっかりとエリウス様をお守りしますから、お任せください」

エリウスが手を伸ばして、リリルの手を握った。
「頼むよ」
リリルは気絶する寸前で、記憶が飛んだ。


窓の外の景色だけが、容赦なく変わっていく。 やがて、馬車が速度を落とした。小さな宿場町に差し掛かったのだろう。

「王女様、少しお休みください」

使者の声が外から聞こえた。「馬を休ませます」

扉が開かれ、エリウスはリリルの助けを借りて馬車を降りた。慣れないヒールで、一歩一歩が危うい。

宿場町は小さいながらも活気があった。商人たちが荷物を運び、子供たちが路地を駆け回っている。でも、エルナリス国の町とは何かが違った。

空気に、硫黄のような、鉱山から来る独特の匂いが混じっていた。
使者が宿屋へと案内した。小さな部屋に通され、「一時間後に出発します」と告げて去った。

扉が閉まると、エリウスはヴェールを外して長椅子に座り込んだ。

「ああ」
王子の口から、深いため息が漏れた。

リリルはエリウスの隣に座った。 窓の外から、子供たちの幸せそうな笑い声が聞こえてきた。こういう平和は、あとどれくらい続くのだろう。

「リリル」

「はい」

「ずっと一緒にいてくれるのかい?」

「もちろんです。どこへでも行きます」

エリウスがリリルの肩に頭を預けた。
えっ。
リリルの心臓が、一瞬止まった。

エリウス様の頭が、私の肩に乗っている。なんて無邪気な王子なのだろう。
よほどお疲れなのはわかるけれど、これって、ありえない。
これは夢?

「リリル」
エリウスの声が、リリルの耳元で響いた。

「僕ね、姉上のほかに兄弟はいないんだよ。母親違いの弟はいるけど、ほぼ接触がない」
エリウスの体温が、肩を通して伝わってくる。

「姉上は強い人で、剣術など、僕は一度も勝てたことがない。馬も、学問も、何もかも、姉上には敵わない」

「そんなことないです。エリウス様の方が、できること、あります」

「そんなもの、ないよ。姉上が泣いているのを見たら、どうしても助けたいと思ったんだ。誰よりも強い姉上が、あんなに苦しんでいるなら、僕が何かしなければって」

リリルはエリウスの頭をそっと撫でた。その髪は、ウィッグの下でも柔らかかった。

「お優しいのですね、エリウス様は」

「これって、優しいのかな」
エリウスが自嘲するように笑った。
「ただの弱虫かもしれない。本当は、断る勇気がなかっただけかもしれない」

「それは、違います」
と リリルがはっきりと言った。「エリウス様はお優しいんです。その優しさは、誰にも真似できません。それに」

エリウスが顔を上げて、リリルを見た。 二人の顔が、近い。息がかかるほど、近い。
彼の目には、驚きと、疑問と、そして、何か言葉にならない感情が浮かんでいた。

「それに、って?」
その時、扉を叩く音が響いた。
「王女様、そろそろお時間です」 と使者の声が聞こえた。

二人は、はっとして離れた。
リリルの顔が燃えるように熱い。
エリウスは立ち上がり、ヴェールを被り直した。その手が、わずかに震えているのをリリルは見た。

「さあ、行こう」
エリウスの声は、いつもより少し高かった。