姉セシリアの部屋から帰る途中、エリウスは思い出した。この宮廷には美しい庭がいくつもあったことを。
祖国のエルナリスにいた頃、彼は詩を読むことや、静かに庭を眺めることが好きだった。
草花の揺れる音。
風に運ばれる花の香り。
季節の移ろいを語る色彩。
剣術よりも、そういうことのほうが好きだった。
そんな好みを察してなのか、レオナルド王が朝食の後、庭に連れ出してくれたことがあった。あれは、僻地の城に来てから、まだ数日しか経っていない頃のことだった。
記憶の中で、あの庭園はまるで夢の断片のように輝いていた。
陽光に照らされた花々は、色とりどりに咲き誇っていた。
深紅のバラ。純白のユリ。そして、デルフィニウムの澄んだ青が、手入れの行き届いた芝の上に鮮やかに映えていた。
噴水から高く吹き上げられた水は、空に溶けるように弧を描き、その雫が、陽の光を受けて、虹のようにきらめいていた。
エリウスが記憶を頼りに歩くと、ほどなくその庭は見つかった。
あの噴水が、今、目の前にあった。
そこに佇んでいると、エリウスの中に埋もれていた記憶が、しだいに蘇ってきた。
あの時、姉上が早く来てくれることだけを願い、エリウスは仮病を使ってほとんどの時間をベッドの上と窓際で過ごしていた。
あの朝は、ようやく外に出ることができて心から嬉しかった。
でも、ヒールには慣れておらず、足が痛かった。それに気づいたレオナルドが抱きかかえて、部屋まで運んでくれたのだった。
今思うと、あの頃の自分はまるで素人の芝居のような「セシリア」を必死に演じていた。
王は気づいていたような気はするが、冷血と呼ばれたレオナルド王は、そんな自分を二週間も見逃してくれた。自分が男子だということを勘付いていたのだろうか。王女だと思っていたのだろうか。
エリウスは自嘲気味に笑った。
彼はつめたい人なんかじゃなかった。
温かくて、優しくて、そして、愛してくれていたのではないか。
そんなことを考えていた時だった。
花の陰に、人の姿がちらりと見えた。
その立ち姿がレオナルドだと認識した瞬間、エリウスは素早くポケットから銀の仮面を取り出して、顔にかけた。
そして、息を詰めるようにして、その場を離れようとした。
「そこのお方は」
懐かしいレオナルドの声が、柔らかくも鋭く響いた。
「ゼリアン剣士ではないですか?」
「はい」
エリウスが振り返って、礼をした。
つい先日、歓迎晩餐会で同じテーブルに着いたことがあったが、国王が彼の正体に気づいた様子はなかった。
その記憶を思い出しながら、エリウスは自分を落ち着かせ、平静を装った。
「はい。サラカレから参りました剣士のゼリアンでございます」
エリウスが、丁寧に挨拶した。
「このたびは、ご招待にあずかり、ありがとうございます。勝手に庭へ入りこんでしまい、失礼いたしました」
「それは、全くかまいません」
とレオナルドが、微笑んだ。
「サラナント大会の勝者、ゼリアン剣士の噂はかねがね聞いております。王妃も、大会に来てくださることを知り、とても喜んでおりましたよ」
「王妃のために、この大会を開かれたと伺っております。なんて幸せな王妃様でしょう」
「そうでしょうかね」
レオナルドの声が、少し暗くなったように聞こえた。「そんなことは、ないのですよ」
「よき夫婦とは、どんなものなのでしょうか」
エリウスが、思わず口にした。
「ああ、失礼をいたしました。僕は最近結婚したばかりなので、ついおかしなことを聞いてしまいました」
「かまいません」
レオナルドが、優しく言った。「ゼリアン剣士は、結婚しているのですか」
「はい」
と エリウスが、頷いた。「つい最近のことですが」
「どうですか、結婚生活は」
そう問いかけたレオナルドが、ふと微笑みながら付け加えた。「いや、どうですかは変ですね。そういうことを聞くものではないか」
「僕が剣士となり、サラカレの大会で優勝できたのも、妻カトリーヌのおかげです」
「尽くしてくれたから結婚したのですか?」
「いいえ、それは違います。僕たちは、たとえれば金貨の裏表のような関係です。二人で一枚の金貨。金貨はどこに投げられても、共に転がっていきます。それに、支えられたのは僕のほうだけではありません。僕も、彼女に多くの喜びを与えてきたつもりです」
「たとえば?」
レオナルドが、興味深そうに尋ねた。
「僕たちは、夜は二人とも食堂で働いていました」
とエリウスが、語り始めたが、ふと立ち止まって、王の顔を窺った。「こんな些細なことに、ご興味がありますか。お忙しい王にとって、時間の無駄ではないですか」
「とても興味があります」
「はい。家は山の上にありましたから、帰り道は、彼女が灯を持ち、僕が妻を背負って山道を登りました。最初、僕は体幹も弱く、足腰も頼りなかったのです。でも、そんなふうにして、少しずつ、強くなっていきました」
「大変でしたね」
「いいえ。そんな努力の日々は、思い出せば、楽しいものでした」
「努力は楽しいものですか。あなたにとって、苦しいものではないのですか?」
「山を登っている最中は、もちろん、しんどいだけです。いやになることも、たびたびです。でも、頂上に着いたときは、爽快です」
エリウスが、遠くを見た。
「山の空気は澄んでいて、気持ちがよくて、今日も登ってこれてよかったと思えました」
「そうですかぁ……」
レオナルドは背伸びをしながら、空を見上げて笑った。「なにか、今日は、とても気分がよい。こんな気持ちは久しぶりです」
レオナルドが、まっすぐにエリウスを見つめたので、エリウスは視線を逸らした。
「ゼリアン剣士とは……」
とレオナルドが、首を傾げた。「前に、どこかでお会いしたことがありますか」
「いいえ」
とエリウスが、首を振った。
「そうですか」
とレオナルドが、遠い目をした。「以前、似たような空気の方に、会ったことがある気がします」
「どんな人ですか?」
エリウスの声が、少し震えた。
レオナルドが、優しく微笑んだ。 「その人といると、ただ生きているだけで、楽しくなるような……そんな、不思議な人でした」
それを聞いたエリウスの胸が、熱くなった。
「その方は、今はどちらに?」
「さあ」
レオナルドが、寂しそうに笑った。「すっかり嫌われてしまいましたからね。もう、私のことなど覚えてもいないでしょう」
その言葉にエリウスの胸が熱くなり、涙が出そうになった。
ちょうどその時、王の側近が現れ、「会議の時刻です。みんなが待っています」と告げたので、ふたりの時間は唐突に終わりを告げた。
レオナルドが、名残惜しそうにエリウスを見た。
「あなたとの会話をもっと続けたかったのに、残念です」
王は名残惜しそうに庭を見渡し、微笑んだ。
「この庭には、他の者は来させませんから、どうぞ、ご自由にお楽しみください」
そう言って、レオナルドは静かに去っていった。
エリウスは王の背中を見つめ、心の中で呟いた。 僕はあなたを嫌ってもいないし、忘れても、いない。
エリウスの仮面の下で、涙が一筋流れた。



