下級女官リリルの片思いと奔走


翌朝、エリウスが稽古場に足を運んだ時、そこには姉セシリアが家臣を相手に剣を交えている姿があった。一年前に出産を終えたばかりとは思えないほど、その動きは鋭く、力強い。

かつての自分では、到底敵わなかっただろう。
けれど、今のエリウスには、彼女の剣の動きが、まるでスローモーションのように見通せるのだった。
エリウスはかつての自分と比べ、この変化は一体何事なのか。彼は自分の力を計りかね、ただ驚くしかなかった。



稽古のあと、エリウスは一人でセシリアの部屋を訪れた。

リリルには、姉上の部屋に行くことをちゃんと伝えてある。余計な心配を、かけたくなかったからだ。

懐かしい部屋の扉を開けて中に入って行くと、セシリアが、金髪を揺らしながら勢いよく駆けてきて、思い切り弟に抱きついた。

「私の可愛いエリウス。私がどれほどあなたに会いたかったか、わかる?」
その言葉に、エリウスが大きな笑みを浮かべた。

「あなたはこんなに逞しくなったけれど、その美しい笑みは、少しも変わっていないわ」
とセシリアは涙ぐんだ。

「僕も会いたかったです」
エリウスが、優しく言った。

「私はその百倍、会いたかったわ。私たち、たったふたりの姉弟ですもの。ずっと一緒に育ってきたのですもの」
とセシリアが、笑った。

「僕はサラカレでこの大会のちらしを見て、姉上が生きていることを知ったのです」 とエリウスが、語り始めた。

「姉上がレオナルド王と結婚されたようだと知った時には、驚きました。ご無事とわかった時は、本当に嬉しかった」

セシリアは視線を落として、小さく、頷いた。
「ありがとう。まさか、あなたがサラナント国に行って剣の修行をしているなんて、思いもよらなかったわ」

少しの沈黙を置いて、エリウスが問いかけた。
「姉上は幸せなのですか?」

その問いに、セシリアはわずかに微笑んだが、でも、どこか遠い目をして答えた。

「ええ。子どもが健やかに育っているし、こんな大会を開けるほど国も落ち着いた。だから、幸せだと思いたい」

「思いたい、というのは……」
エリウスが続きの言葉を待った。

セシリアはかすかに唇を引き結んだ。
「レオナルド王はもともと寡黙なお方よ。領地や戦争のことばかりで、私とは心を通わせているとは言いがたいけれど」
セシリアが、肩をすくめた。

「でも、結婚とはそういうものでしょう。期待しなければ、失望もしない」
セシリアが窓の外を見つめた。

「それに、私には王子を立派な王へと育てるという役目がある。それが、今の私のすべて」
セシリアの声には、どこか諦めと冷ややかさが滲んでいた。

エリウスは、あの時のレオナルドの面影を思い出していた。 彼は、饒舌で、熱くて、ロマンチックな男だったはず。それなのに、今は、寡黙なのか。

「昨夜ね」
セシリアが、顔を曇らせた。
「あなたの結婚のことを思って、一人で泣いてしまったわ」
その涙が、喜びのものではなかったことは明らかだった。

「どうして、泣くのですか? 喜んではくださらないのですか」
セシリアが唇を少し噛んで、視線を逸らした。

「私があんなことをしてしまったから、あなたの人生を、変えてしまった」

「じゃ、姉上は……」
エリウスが、驚いた顔をした。
「僕が身代わりをしたことは、思い出したのですか?」

「ええ。……かなり前にね」
セシリアがため息をついた。

「でも、記憶を呼び戻して語ったところで、ややこしくなるだけで、良いことは何もない。そう思って、あの記憶は封印することにしたの」

けれど、彼女の声には後悔が滲んでいた。

「でも……あなたとアランには謝りたい」
セシリアの声が、震えた。「私が、あんなことをしなかったら、アランは生命を落とすことがなかったはずだし」

アランのことを語るセシリアの表情は、痛ましかった。

「アランのことは、今でも……」
と エリウスが、慎重に尋ねた。

「そうね。心から愛した人は、彼だけ」
セシリアが、遠くを見た。「今でもね。これからも、ずっと」

「それを陛下が知ったら、寂しいのでは」

「それは、大丈夫」
セシリアが、冷たく笑った。

「あの人には、忘れられない女性がいるのよ。口には出さないけれど、そういう気配はしっかりと感じているわ」
セシリアが、肩をすくめた。「でも、私たちは一生、別れることはないわ。国王と王妃だもの」

「姉上、それは違うのではないですか」

「そういうものよ。あなたが、下級女官と結婚したと知って……」
セシリアの顔が歪んだ。

「どうしようもなく、悔しかったわ」 彼女は声を荒らげて、テーブルを叩いた。

「私があんな過ちを犯さなければ、王子のあなたは、大国の王女や貴族の令嬢と結ばれたはず……。いいえ、そうでなければならないの。私の伴侶が国王でなければならないように、あなたの相手も、王女でなければならなかったのよ」

「姉上、それは違います」
エリウスは静かな声で、でも、はっきりと否定した。

エリウスが、真っ直ぐセシリアを見た。
「僕はリリルと出会えたことを何よりの幸運だと思っているんです」
エリウスの声は力強かった。

「身代わりのことがなかったとしても、僕はどこかで彼女と出会い、結ばれていたと信じたい」

その言葉に、セシリアは苦い笑みを浮かべた。
「まるで……」
セシリアが、呆れたような顔をした。「庶民のようなことを言うのね」

エリウスが、真剣な顔を向けた。
「姉上が、少しも成長しておられないのが、残念です」

「今、何と言ったの、この私に。私が、成長していないですって」
セシリアの顔が、真っ赤になった。

「エリウス、あなたは姉の私に逆らったことなんて、一度も、なかったのに。精神まで安くなってしまったかと思うと、こちらこそ、残念でならないわ」

「僕がもし宮廷に残っていたら、同じような考えをしていたかと思うと、怖くなる」

「そんなことまで、言うようになったのね」
セシリアは、唇を噛んだ。

「そうだわ」
と セシリアは頷いた後で言った。 「では、大会の最後に、私と一戦交えてみない?」
セシリアの目が、光った。 「エルナリス国から、父上もお見えになる予定ですから、あなたの今のご立派な姿をお見せしましょうよ」

「父上はお元気なのですか」
エリウスの顔が、明るくなった。

「ええ。あなたの姿をご覧になったら、きっと感激なさるはずよ。父王には、四人の王子がいるけれど、どの王子にも失望しておられる。第一王子など、浪費ばかりで、ひどいものよ」

セシリアが、エリウスを見つめた。
「きっと、あなたに王位を継いでほしいと仰せられるかもしれない」

「まさか」
エリウスは、苦笑を浮かべた。「姉上の想像力には、敵わないよ」

「僕には剣しかないし、王の器ではないですよ」

「一つの道を極めた人はね……」 とセシリアが、言った。「他の道も極められる、そうではなくて?」

「僕はまだ一つの道も、極めてはいません」
エリウスが、静かに言った。

「僕は模範演技を披露するために、ここに招かれたのですから、試合は遠慮します。この大会のあと、僕たちは世界を見るために、旅に出る計画なのです」
エリウスが、嬉しそうに言った。

「その前に、父上にお会いして、リリルを紹介できるのは、とても嬉しい」

「またもリリルなの」
セシリアの顔が、意地悪く曇った。「その子の名前は、もう二度と聞きたくないわ」

部屋の空気が冷たくなり、エリウスの瞳には深い悲しみが沈んでいた。