レオナルドは王女セシリアだと思われる女性を宮殿へ連れ帰り、小さなセシリアが使っていた部屋へと案内した。
この部屋へは、何度、足を運んだことか。レオナルドはこの扉の前に立つたびに、
胸が躍ったものだ。
生きているのが、楽しいと思った。 そういうことは、それまでなかったことだ。
だが、今、その部屋には愛したセシリアはいない。
あの小さなセシリア、王女セシリアではなくて、その弟だった。 思い出が、レオナルドの胸をじわじわと圧迫した。
「ソフィラを呼べ」 とレオナルドが命じ、侍女たちが、慌ただしく動き出した。
*
まもなく、ソフィラが部屋に連れて来られた。
部屋の中にいる女性を見た瞬間、思わず、膝をついてすすり泣いた。
「セシリア様、よく、ご無事で」
ソフィラの視線はセシリアの頭の包帯に釘付けになった。
「お怪我をなさってしまわれたのですね」
セシリアが、ソフィラを見た。
「あなたは、誰?」
「私はあなたの女官、ソフィラですよ。お忘れですか」
とソフィラが、涙を拭った。
「二人で、アストリウス国に向かっていたではないですか」
「エリウスは、どこですか」
とセシリアが聞いた。
「わかりません。セシリア様は、今まで、どこにいらしたのですか」
「わからない」
「どこで怪我をなさったのですか」
「わからない。そんな質問はもういいから、早く、エリウスを連れてきなさい。なにをぐすぐすしているの」
「すみません」
ソフィラは王女は記憶を失ってはいるが、その話し方は変わってはいないと思った。
*
レオナルドは宮廷の医師団に診察をさせた。頭部や腕の傷は、時間とともに癒えるだろう。しかし、失われた記憶が、いつ戻るのかは、誰にも分からない。
「少しずつ戻ることもありますし」
医師が、慎重に言葉を選んだ。
「ある日突然、思い出すかもしれません」
「けれど、それが明日なのか、五年後、十年後なのかは、誰にも予測できません」
「医者なんて、金ばかり取って、実にいい加減なものだ。そんな診断なら、素人にもできる」
とレオナルドは怒った。
「私に、おまかせくださいませんか」
ソフィラは強い決意を込めた顔で言った。
「昔のことを、たくさんお話しすれば、きっと記憶が戻られるのではないでしょうか」
*
ソフィラはエルナリス国から輿入れの際に持ち込まれた美しいドレスを、王女セシリアに着せた。ドレスに合った靴も選び、メイクを施した。
セシリアはその装いを整えるたび、少しずつ穏やかな表情を取り戻していった。
ソフィラはことあるごとに、元の記憶を何度も何度も語った。
その朝、ソフィラはセシリアの髪を梳かしながら語った。
「セシリア様は昔からメイクがお好きでした」
ソフィラの顔に、かすかに感情が戻り、少し笑みが浮かんだ。
「それから、剣術もお得意で、敵う者がいませんでした。国王から女の子らしさを求められても、セシリア様は決して剣を手放しませんでした」
ソフィラはセシリアが好きだった話題だけを口にした。
セシリアはしばらくその話に耳を傾け、少しだけ微笑むことがあったが、その笑顔は、すぐに曇るのだった。
「エリウスは……どこなの?」
いつも、何かを思い出すと、この言葉を繰り返すのだった。
「エリウス様はきっとお元気でいらっしゃいますよ」
「何も知らない女官が、いい加減なことを言うべきではない」
突然、セシリアが強い言葉で叱責したので、ソフィラはどきっとしたが、本来の王女が戻られたということだから、少しうれしかった。
でも、その後は、またとろっとした表情になり、繰り返すのだった。
「エリウスは、どこ?」
「どこにいらっしゃるかは分かりませんが、今、国王が、捜索中でございます」
「エリウスは……」
セシリアの声が、震えた。
「エリウスは、殺されてしまったの?」
「いいえ、そんなことはありません。あのリリルが、エリウス様をしっかり守っているはずですから、大丈夫です」
「リリル?」
「はい、セシリア様の新米女官だったリリルです。足の速い、賢い子です」
セシリアはリリルのことは思い出せないようで、ため息をついて、またあの言葉を繰り返した。
「エリウスは、どこ?」
セシリアの記憶は、嵐の日の蝋燭の炎のように揺れ動いていて、ほとんどのことは、薄れていて、朧げにしか残っていない。
でも、彼女の脳裏に、しっかりと焼き付いていたのは「エリウス」という名前なのだった。
*
王女セシリアが宮殿に来てから、ほぼ一ヶ月が経過し、肩や腕の傷は、すっかり癒えた。髪に隠れている傷も、強く押すとまだ痛みが残るものの、着実に回復の兆しを見せていた。
ソフィラは、毎日セシリアに話しかけ、次第に、セシリアの反応も増えていった。
「私は、セシリア?」
ある朝、ソフィラがブラシで髪を整えていると、王女がふと振り返った。
「はい、そうです。あなたは、エルナリス国のセシリア王女です」
「ここは、どこ?」
「アストリウス国です」
ソフィラはセシリアの脳が動き始めているのを感じた。
「どうして、私はここにいるの?」
セシリアが、不思議そうに部屋を見回した。
「なぜ、ここにいるのと聞いている」
「それは、セシリア様が、レオナルド国王の元へ嫁いできたからです」
「嫁ぐ?」
「ご結婚のことです」
「結婚?」
セシリアが、首を傾げた。
「はい。セシリア様はこのアストリウス国の王妃になられるお方なのです」
「ああ」
セシリアはそう言って、少し考えた。
ソフィラは次の言葉を期待して待ったが、次の答えは、また「エリウスは、どこ?」
ソフィラは違ったやり方に切り替えることにした。
「エリウス様はどなたなのですか」
とソフィラが、逆に尋ねた。
「エリウスは……」
セシリアが、考え込んだ。「誰……?」
「セシリア様がいつも気にかけておられる方ですよ。いったいどなたのことですか?」
「エリウスは……とても可愛い」
セシリアの顔が、ほころんだ。
「エリウス様はもしかして、弟様ですか?」
「弟?」
セシリアが、眉をひそめた。「わからない」
ソフィラは、エリウスのことを教えたら、どうなるだろうかと考えた。
「エリウス様は五歳年下の弟王子様ではないですか」
「弟王子?」
「はい。とてもお姉様を大切にしておられて、お姉様のお願いを一度も断ったことがありません」
「なんて可愛い子」
「あなた様も、エリウス様をとても大切に思っていて、いつもかばっていらっしゃいました」
「そうなの?」
「はい。たとえば、エリウス様が学校でいじめられていた時など、セシリア様が必ず仕返しをなさっていました」
「そうなの?」
「はい。セシリア様は剣術に非常に優れていて、誰にも負けることがありませんでしたから」
「エリウスは強くないの?」
「セシリア様の方が、ずっとお強いです」
「エリウスはいじめられているの? エリウスはどこにいるの?」
またいつもの質問に戻った。けれど、ソフィラは心の中で手ごたえを感じていた。少しずつ、前進している。セシリアの記憶は戻り始めている気がしていた。



