二人が旅の準備を進めていたある日、ゼリアンは兄弟子のモンタグリに道場へ呼び出された。
道場に行くと、モンタグリが、一通の手紙を差し出した。
「アストリウス国の剣術大会に、優勝者である君宛てに招待状が届いている」
「この僕宛にですか」
「剣術大会で、模範演技を披露してほしいそうだ」
「すみません。でも、出るつもりはありません。春になったら、もっと広い世界を見るために、旅に出ようと思っているのです」
モンタグリは眉をひそめて、言った。
「ゼリアン、君はサラカレ大会の誇り高き優勝者だ。その君が、剣を志す若者たちに手本を示すことは、勝者としての義務ではないのか」
そう言って、彼はもう一通の手紙を差し出した。
「君だけではない。サラナント国の歴史ある三道場に、同じく特別招待状が届いている。我々国立道場を代表して、君が模範を示してほしい。我らの師範も、そう望んでおられるのだ。よく考えるがよい」
*
その夜、客が去って静まり返った食堂の空間で、ゼリアンは隣にいたカトリーヌに話しかけた。
「カトリーヌ、僕は、三年前と比べて、どれくらい変わったと思う?昔の知り合いが見たら、僕だと気づくだろうか」
カトリーヌは、ゼリアンの顔を見つめた。
「昔の知り合いというのは、つまり、アストリウスへ行けば、かつて『セシリア様』だったことが露見するかどうか、ということですよね」
「そうだ」
カトリーヌが、ゼリアンをじろじろ見て、彼の周りを、ゆっくりと歩いた。
「セシリア様がエリウス様だったこと。そして、エリウス様が今のゼリアン様だと気づける人は……いないでしょう」
カトリーヌが、立ち止まった。
「でも、レオナルド陛下は例外です。鋭い目をお持ちですから」
「それでも、招待されたからには、大会に行かねばならないと思っている。カトリーヌはどう思う?」
「万が一、素性がバレてしまったら、どうなるか、ということですね」
ゼリアンが、静かに頷いた。
「僕は道場の代表として、どうしても行かなければならないのだ。でも、カトリーヌには、ここで待っていてほしい。模範演技を披露したら、すぐに馬車で戻る。そしたら、一緒に旅に出よう。世界を見てまわろう」
「いやです」とリリルが、首を振った。「私は待ちたくありません。一緒に行きたいです」
リリルの目には涙がいっぱいに浮かんでいて、小さな鼻が、赤くなっている。
ゼリアンが、優しく笑った。
「そうだね。僕たち、この三年間、一度も離れたことがなかった」
「あまりしつこすぎましたか」
「そんなこと、あるはずがない」
ゼリアンが優しくリリルの頭を撫でた。
「ところで、カトリーヌは、いくつになったの?」
「え?」カトリーヌが、首を傾げた。
「私たちは同い年ですから、十九歳ですよ」
「適齢期だね」
「そんなの……」
カトリーヌが、少し拗ねたように顔をそむけた。「関係ないです。私、一生、結婚なんかしませんから」
「そうなのか。カトリーヌは結婚したくないのか」
カトリーヌの顔が、真っ赤になった。
「どうして、からかうんですか」
「だって、カトリーヌの反応がかわいいから、つい」
「またですか。ほんと失礼しちゃいます」
「ほんとは、驚かせたかったんだ」
とゼリアンが、立ち上がった。
「ここからが、本番だよ」
「本番?」
「僕たち、結婚しよう。リリル、結婚してください」
リリルは心臓が高鳴りすぎて、息をするのを忘れた。
「えっ……」
リリルの声が、震えた。
「わ、わ、わたしを、からかっているんですか」
「からかっていない。真剣だ」
ゼリアンが、リリルの手を取った。
「リリル、二人で、アストリウスへ行こう」
リリルの瞳から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「ありがとうございます……」
とリリルが、震える声で言った。
「でも、できません」
「どうして?」
「私は……」
リリルが、涙を拭った。「エリウス様と一緒にいられるだけで、いいんです。一生、お仕えします」
「結婚は、嫌なの?」
「違いますよ。エリウス様のことは、大好きです。でも、私の好きな気持ちは、そのお顔が美しいとか、格好がよいとか、そういうことから始まったことで」
リリルの声が、小さくなった。
「私、自信がないんです」
リリルは涙声で続けた。
「私は孤児で、学もなく、エリウス様のことをどれほど理解しているか、わかりません。女官としてならお役に立つかもしれませんが、結婚したら……」
リリルが、唇を噛んだ。
「きっと、すぐに飽きられてしまうと思います」
「三年間、一度だって、飽きたことなんてないよ。それとも、リリルは、僕に飽きたの?」
「いいえ。ちっとも」
「じゃあ、どうしてそんなふうに思うの?」
「食堂で……」
リリルが、悲しそうに言った。
「毎日、たくさんの人の話を聞いてきました。『結婚したら、もう好きじゃなくなる』って、そんな話ばかりだったから、このままのほうがいいと思うのです」
ゼリアンが、リリルの両手を握った。
「リリルほど、僕のことをわかってくれている人なんて、いない」
ゼリアンが、微笑んだ。
「むしろ、僕のほうが、リリルのことをどれだけわかっているか、不安になるよ」
「エリウス様は、私のことをよくご存じです。私なんて、底の浅い人間ですから、わかりやすいんですよ」
「なに言ってるの?」
とゼリアンが、苦笑した。「僕は、リリルのことを全然わかっていないよ」
「え?」
「だって」
だって、何ですか、とカトリーヌが見上げた。
「プロポーズを断られるなんて、思わなかった。リリルは、喜んでくれると思っていた」
「喜びました。嬉しかったんです。でも……」
「『でも』で終わらせるのは……」
とゼリアンが、笑った。
「僕たちらしくないだろ。僕たちは、一度や二度で諦めるコンビじゃないよね」
「こんな私で……いいのですか?」
「うん」
ゼリアンが、力強く頷いた。「リリルじゃなきゃ、だめなんだ」
ゼリアンが、リリルをまっすぐ見つめた。
「こんなに人を愛したのは、人生で、……二度目なんだ」
その言葉を聞いて、リリルは彼が本当のことを言っているとわかった。
そして、その『一度目』に愛した相手が誰なのかも。
「こういうときって……」
とリリルが、涙を拭いながら笑った。
「『初めて』って言うものじゃないんですか? 最初の人のことは、忘れてください。あの方は、幻想ですから」
「そうだったね。じゃ、訂正するよ」
とゼリアンが、リリルの両手を握りしめた。
「こんなに、誰かのことを大好きになったのは、リリルが初めてだ」
リリルの瞳に、ぱっと笑みが灯った。
「はいっ」
リリルが、大きく頷いた。
「エリウス様、不束者ですが、私をお嫁さんにしてください」
ゼリアンが、リリルを抱きしめた。
リリルは、こんな日が来るなんて、夢にも思っていなかった。姉弟のように一緒に暮らせるだけで、もう十分だと思っていた。
けれど、ずっと心の奥では、こうなることを願っていたのだ。
リリルは、ゼリアンの胸の中で泣いた。嬉し涙が、止まらなかった。
ゼリアンが、リリルの髪を撫でた。
月明かりが、食堂の窓から差し込んで、二人を優しく照らしていた。



