下級女官リリルの片思いと奔走


二人が旅の準備を進めていたある日、ゼリアンは兄弟子のモンタグリに道場へ呼び出された。

道場に行くと、モンタグリが、一通の手紙を差し出した。

「アストリウス国の剣術大会に、優勝者である君宛てに招待状が届いている」

「この僕宛にですか」

「剣術大会で、模範演技を披露してほしいそうだ」

「すみません。でも、出るつもりはありません。春になったら、もっと広い世界を見るために、旅に出ようと思っているのです」

モンタグリは眉をひそめて、言った。

「ゼリアン、君はサラカレ大会の誇り高き優勝者だ。その君が、剣を志す若者たちに手本を示すことは、勝者としての義務ではないのか」

そう言って、彼はもう一通の手紙を差し出した。

「君だけではない。サラナント国の歴史ある三道場に、同じく特別招待状が届いている。我々国立道場を代表して、君が模範を示してほしい。我らの師範も、そう望んでおられるのだ。よく考えるがよい」



その夜、客が去って静まり返った食堂の空間で、ゼリアンは隣にいたカトリーヌに話しかけた。

「カトリーヌ、僕は、三年前と比べて、どれくらい変わったと思う?昔の知り合いが見たら、僕だと気づくだろうか」

カトリーヌは、ゼリアンの顔を見つめた。

「昔の知り合いというのは、つまり、アストリウスへ行けば、かつて『セシリア様』だったことが露見するかどうか、ということですよね」

「そうだ」
カトリーヌが、ゼリアンをじろじろ見て、彼の周りを、ゆっくりと歩いた。

「セシリア様がエリウス様だったこと。そして、エリウス様が今のゼリアン様だと気づける人は……いないでしょう」

カトリーヌが、立ち止まった。
「でも、レオナルド陛下は例外です。鋭い目をお持ちですから」

「それでも、招待されたからには、大会に行かねばならないと思っている。カトリーヌはどう思う?」

「万が一、素性がバレてしまったら、どうなるか、ということですね」
ゼリアンが、静かに頷いた。

「僕は道場の代表として、どうしても行かなければならないのだ。でも、カトリーヌには、ここで待っていてほしい。模範演技を披露したら、すぐに馬車で戻る。そしたら、一緒に旅に出よう。世界を見てまわろう」

「いやです」とリリルが、首を振った。「私は待ちたくありません。一緒に行きたいです」

リリルの目には涙がいっぱいに浮かんでいて、小さな鼻が、赤くなっている。


ゼリアンが、優しく笑った。

「そうだね。僕たち、この三年間、一度も離れたことがなかった」

「あまりしつこすぎましたか」

「そんなこと、あるはずがない」
ゼリアンが優しくリリルの頭を撫でた。

「ところで、カトリーヌは、いくつになったの?」

「え?」カトリーヌが、首を傾げた。

「私たちは同い年ですから、十九歳ですよ」

「適齢期だね」

「そんなの……」
カトリーヌが、少し拗ねたように顔をそむけた。「関係ないです。私、一生、結婚なんかしませんから」

「そうなのか。カトリーヌは結婚したくないのか」
カトリーヌの顔が、真っ赤になった。

「どうして、からかうんですか」

「だって、カトリーヌの反応がかわいいから、つい」

「またですか。ほんと失礼しちゃいます」

「ほんとは、驚かせたかったんだ」
とゼリアンが、立ち上がった。

「ここからが、本番だよ」

「本番?」

「僕たち、結婚しよう。リリル、結婚してください」

リリルは心臓が高鳴りすぎて、息をするのを忘れた。
「えっ……」

リリルの声が、震えた。

「わ、わ、わたしを、からかっているんですか」

「からかっていない。真剣だ」

ゼリアンが、リリルの手を取った。

「リリル、二人で、アストリウスへ行こう」

リリルの瞳から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちた。

「ありがとうございます……」
とリリルが、震える声で言った。

「でも、できません」

「どうして?」

「私は……」
リリルが、涙を拭った。「エリウス様と一緒にいられるだけで、いいんです。一生、お仕えします」

「結婚は、嫌なの?」

「違いますよ。エリウス様のことは、大好きです。でも、私の好きな気持ちは、そのお顔が美しいとか、格好がよいとか、そういうことから始まったことで」

リリルの声が、小さくなった。
「私、自信がないんです」

リリルは涙声で続けた。
「私は孤児で、学もなく、エリウス様のことをどれほど理解しているか、わかりません。女官としてならお役に立つかもしれませんが、結婚したら……」

リリルが、唇を噛んだ。
「きっと、すぐに飽きられてしまうと思います」

「三年間、一度だって、飽きたことなんてないよ。それとも、リリルは、僕に飽きたの?」

「いいえ。ちっとも」

「じゃあ、どうしてそんなふうに思うの?」

「食堂で……」
リリルが、悲しそうに言った。

「毎日、たくさんの人の話を聞いてきました。『結婚したら、もう好きじゃなくなる』って、そんな話ばかりだったから、このままのほうがいいと思うのです」

ゼリアンが、リリルの両手を握った。
「リリルほど、僕のことをわかってくれている人なんて、いない」

ゼリアンが、微笑んだ。
「むしろ、僕のほうが、リリルのことをどれだけわかっているか、不安になるよ」

「エリウス様は、私のことをよくご存じです。私なんて、底の浅い人間ですから、わかりやすいんですよ」

「なに言ってるの?」
とゼリアンが、苦笑した。「僕は、リリルのことを全然わかっていないよ」

「え?」

「だって」
だって、何ですか、とカトリーヌが見上げた。

「プロポーズを断られるなんて、思わなかった。リリルは、喜んでくれると思っていた」

「喜びました。嬉しかったんです。でも……」

「『でも』で終わらせるのは……」
とゼリアンが、笑った。

「僕たちらしくないだろ。僕たちは、一度や二度で諦めるコンビじゃないよね」

「こんな私で……いいのですか?」

「うん」
ゼリアンが、力強く頷いた。「リリルじゃなきゃ、だめなんだ」

ゼリアンが、リリルをまっすぐ見つめた。

「こんなに人を愛したのは、人生で、……二度目なんだ」

その言葉を聞いて、リリルは彼が本当のことを言っているとわかった。

そして、その『一度目』に愛した相手が誰なのかも。

「こういうときって……」
とリリルが、涙を拭いながら笑った。

「『初めて』って言うものじゃないんですか? 最初の人のことは、忘れてください。あの方は、幻想ですから」

「そうだったね。じゃ、訂正するよ」
とゼリアンが、リリルの両手を握りしめた。

「こんなに、誰かのことを大好きになったのは、リリルが初めてだ」

リリルの瞳に、ぱっと笑みが灯った。

「はいっ」
リリルが、大きく頷いた。

「エリウス様、不束者ですが、私をお嫁さんにしてください」

ゼリアンが、リリルを抱きしめた。
リリルは、こんな日が来るなんて、夢にも思っていなかった。姉弟のように一緒に暮らせるだけで、もう十分だと思っていた。

けれど、ずっと心の奥では、こうなることを願っていたのだ。
リリルは、ゼリアンの胸の中で泣いた。嬉し涙が、止まらなかった。


ゼリアンが、リリルの髪を撫でた。
月明かりが、食堂の窓から差し込んで、二人を優しく照らしていた。