下級女官リリルの片思いと奔走


サラカレの町は剣士たちの熱気と情熱が渦巻く、活気に満ちた場所だった。ゼリアンはこの地で三年間にわたり、ひたすら剣技の修行に打ち込んだ。

それは他の修行者に比べると長いとは言えないが、彼は優勝という快挙を手にした。そして、彼は師範代理の重責を任されるまでに成長した。

最近になって、汗と疲れにまみれて道場をあとにする時、ゼリアンの胸には姉セシリアのことがよぎることがあった。

そして、彼を「セシリア」だと信じ、愛そうとしてくれたレオナルド王のことも。しかし、ゼリアンはそのことを、カトリーヌには一度も語ったことがなかった。



三年前のあの日、エリウスは姉のセシリアの身代わり花嫁として、アストリウス国へ向かった。それは、数日だけのはずだった。

でも、二週間たっても、姉は現れなかった。

国王はエリウスを本物のセシリアだと信じ、心から、愛してくれようとした。

でも、エリウスはその愛を受け止めきれなかった。
自分が男であることを打ち明けることもできず、宮廷から姿を消した。

姉上が、どこでどうしているのか。今となっては、想像するしかない。でも、レオナルド王がセシリアの失踪をどれほど案じ、どれほど心を痛めたかは、容易に、想像がついた。
けれど、アストリウス国は、遥か遠く、そこからの情報はサラカレには届いてこなかった。



そんなある日、町中が、ざわめきに包まれていた。

「聞いたか?」

「アストリウス国で、王妃主催の新人剣術大会が開かれるそうだ」

「セシリア王妃が、優勝者と親善試合をなさるんだって!」

「優勝者には、サラカレへの一年間の留学資金も出るらしいぞ」

その噂は瞬く間に町中へ広がった。

それはただの噂ではなかった。
ある日、通りの掲示板に一枚のポスターが貼り出された。 それはアストリウス国で開かれるという王妃主催の新人剣術大会のことが書かれていた。

ゼリアンとカトリーヌも、その文字を食い入るように読み、小声で、言葉を交わした。
「ここに」
とカトリーヌが、指差した。「『セシリア王妃』とありますね」

カトリーヌは同意を求めるかのように、ゼリアンの目を見つめた。
「ということは、レオナルド国王とセシリア様が、ご結婚された、ということでしょうか」

「この文面からだと、そうだとは思うけど。でも、姉上はいつアストリウスに到着したのだろうか」
ゼリアンが、険しい表情をした。

「僕が身代わりをしていたことは、どのようにして国王に伝え、解決したのだろうか」

「アストリウス国に行けば、わかりますよね」

「そうだな」

「行けば真実はわかりますが、危険じゃないですか?」
カトリーヌの顔には、深い不安の色がにじんでいた。

「心配することはないよ」
とゼリアンが、首を振った。「あそこには行くつもりはない。真実を知りたい気持ちは強いけど、行くことはない」
ゼリアンは憂いを帯びた瞳で、遠い空を泳がせた。

「姉上が王妃として元気に暮らしているなら、それで十分だ。今さら僕が現れて、騒ぎを起こすべきじゃない」

そう口にしたものの、ゼリアンの心には消えない想いがあった。 本当は、真相が知りたい。姉上がどうやってアストリウスに着いたのか。レオナルド王は、あの時のことをどう受け止めたのか。
そして、もし会えるなら、謝りたかった。何も言わずに消えてしまったこと、彼の優しさに応えられなかったことを。
でも、今さら現れれば、姉上の立場を危うくするだけなのだ。

「そうですね」
カトリーヌが、頷き、少し、沈黙が流れた。

ゼリアンは、前を見つめながら静かに言った。
「僕は旅に出ようと思う。もっと広い世界を、この目で見てみたいんだ」

「はい。でも、あのう」
カトリーヌは聞いておくべきものか、このまま黙っているべきか、心が揺れていた。

「なに」

「私も、一緒に行っていいのですか?」

ゼリアンが、静かにカトリーヌを見た。
「カトリーヌ、いや、リリルは、故郷のエルナリスに帰ったほうがいいと思う」

「……はい」
カトリーヌは、きっとその言葉がいつか来るだろうと覚悟していた。

ゼリアンはもう十九歳。自分の道を、進むべき年齢だ。
「僕の旅は、いつ終わるかわからないから」
とゼリアンが、優しく言った。

「リリルには、ずっと世話になりっぱなしだった。これからは、自分の人生を大切にしてほしい」

ゼリアンがカトリーヌの瞳を見据えた。
「リリルには、幸せになってほしいんだ」

「私の幸せを思って、そう言ってくださるのですか?」

「ああ、そうだよ」

「でしたら」
今度は、カトリーヌが、まっすぐゼリアンを見つめた。

「選ぶ道は、決まっています。私は、エリウス様と一緒に参ります。ご迷惑でないのなら」

「どうして?」

「それが、私の幸せだからです」

「これまで、僕に尽くしてばかりだろう。そんな生活はよくない」

「私、好きでやってきたのです。尽くす、というんじゃなくて、たとえば、自分でおいしいものを食べる時より、その人がおいしそうに食べているのを見ると、自分が食べている時よりもおいしく感じるって思える人って、めったにいません。めったにではなく、全然いないんじゃないですか。人のことを思って働くのは、自分のために働くより、楽しいです」

「そんな話は、初めて聞いたよ」

「そんなに思われるのは、重いですか」

「重くはないけど、軽くもないなぁ」
とゼリアンが笑った。

「そうですよね。でも、もし途中でご迷惑になるようでしたら、言ってください。その時は、すぐに姿を消しますから」
リリルは孤児なのだから、一度断られたくらいで諦めるような女ではないのだ。

ゼリアンは、しばらくカトリーヌを見つめていたが、やがて微笑んだ。
「うん、一緒に行こう」

「はいっ」
カトリーヌの顔が、輝いた。

「本当は、一緒に来てほしかったんだ」
とゼリアンが、照れたように笑った。
「だったら」
とカトリーヌが、頬を膨らませた。「最初から、そう言ってくれないんですか」

「ついからかいたくなるんだ」

「どうして、いつもからかうんですか」

「カトリーヌの反応がおもしろいからだよ。かわいいからだよ」

「私、かわいくないですけど」
そう言いながら、彼女の唇の端には微笑が浮かんでいた。

やった、やった。
カトリーヌは、心の中で叫んで、胸に手を当てた。心臓が、激しく跳ねていた。 一緒に旅に行けるなんて、嬉しくて、たまらない。

「カトリーヌ、ずいぶん、嬉しそうな顔だね。不安はないのかい」

「はい。私、嬉しいんです。新しいことをする時にはどきどきしますが、それも、嬉しく感じます」

ゼリアンが、優しく頷いた。

「うん。僕も、すごく嬉しいよ」

カトリーヌはゼリアンの横顔を見つめた。この人と一緒なら、どこへでも行ける。どんな困難も、乗り越えられる。だって、彼がそばにいると、やる気が湧いてくるのだもの。