下級女官リリルの片思いと奔走


蘭の丸いつぼみが、ゆっくりと芽を出す。やがて、息をのむほど美しい花を咲かせる。一人の人が成長してゆく様子は、それに似ている。なんと不思議で、心を打つものだろう。
カトリーヌは、ゼリアンの成長を見つめながらそう思っていた。

最初の頃、ゼリアンは道場で、ひたすら基礎練習を繰り返していた。 それでも、ゼリアンは体中に青あざを作っていた。

木刀がぶつかって、顔にまで怪我をしたり、また疲れすぎて山上の家まで帰れず、食堂に泊めてもらうこともたびたびあった。

「こんなに綺麗なお顔に、傷がつくなんて……」
とカトリーヌが、嘆いた。

「ああ、なんて、もったいないこと」
そして、それは一度や二度ではないのだった。

「気をつけて。顔にだけは怪我をしないでください」

「傷がついて、ますます男前になったと思わないかい」

「いやです。きれいな顔に傷がつくのは」

「では、カトリーヌは僕の顔が傷だらけになったら、嫌いになるのかい」

「そんなことは、言っていないけど」

「たとえカトリーヌの顔に、大きな傷がついても、僕の気持ちが変わることがない」
カトリーヌは驚いて、ためらいがちに尋ねた。

「あのう、どんな気持ちですか」

「好きという気持ちだよ」
カトリーヌは嬉しすぎて、思わず叫びだしそうになった。

「あのう、ゼリアンは私のことが好きなんですか」

「当たり前だろ。姉さんなんだから」
ああ、そういうことよね、カトリーヌは気まずそうに目を逸らした。

「もちろん。私も弟が大好きよ」



サラカレでは、毎年、全道場が参加しての剣術大会が開かれた。

一年目のゼリアンは初級の部にすら、道場の代表として、出場を許されなかった。
その頃、彼は食堂の料理の手伝いも始めた。 ゲリーに初歩から料理を教えてもらい、その腕は着実に上達していった。

「剣術はもうやめて、料理の道に進んだらどうだ」
とゲリーが、冗談めかして言ったほどだ。
「わしが引退するときは、この店を譲ってやってもいいぞ」

ゼリアンはどれだけ傷が増えても、休まずに道場に通い続けた。
「まだ前のあざが消えていないのに、また新しいのができている」

カトリーヌはベッドに寝ているゼリアンの頬に、冷やしたタオルを当てた。
「痛くないの?」

「今は、痛いけどね。でも、あるところまで行くと、ふと気持ちが楽になるんだ」
とゼリアンが笑った。

「また言ってる。やっぱり、ゼリアンって、マゾ系」

「そんな言い方は、やめてほしい」

ゼリアンが、苦笑した。「旅の途中、毎日ひたすら歩いていて、もうダメだって思った直後に、急に身体が軽くなる時ってあるだろ?」

「それは、あったかも」

「それと同じだよ」
ゼリアンが、真剣な顔で言った。

「もう限界だと思っても、その先にふっと楽になる瞬間がある。僕の痛みも、それに似ている。ピークを越えると、不思議と楽になるんだ」

「へえ、そういうもの?」

「だから、こうやって、その瞬間を待っている」

「へえ……」

カトリーヌはゼリアンの話をいつもとてもおもしろいと思った。 彼はいつも飾らず、まっすぐに、心のうちを言葉にできる。

セシリアとして生きていた頃は、声を出さないように、できるだけ話さないようにしていたから、彼のそんな魅力に気づけなかった。でも、今では、彼が稽古を終えて食堂に帰ってくるのが、楽しみで仕方ない。



一年目に大会に出られなかったが、その後、ゼリアンの剣術は目を見張るほどの速さで上達していった。
体つきも、次第に逞しくなっていった。

「どれだけ練習しても、なかなか上手くならなかったけど、今日、突然、今までできなかった技ができるようになったよ」
ゼリアンの目が、輝いていた。

「それって、一段ずつ階段を登るというより、一気に五段飛ばしで跳ね上がる感じなんだ」

「へえ」
「カトリーヌっていつも『へえ』しか言わないけど、他に言葉はないのかい?」

「すみません。考えます」
カトリーヌは、真面目な顔でそう答えた。それは、嘘のない本心だった。

ゼリアンは、高みを目指して日々鍛錬を重ねて、確かに、日々成長している。
それに比べて、自分はこのままでいいのだろうか。このままでは、置いていかれてしまうかもしれない。そんな焦燥が、カトリーヌの胸に広がっていた。

私ももっと自分を磨きたい。 これまでの自分ときたら、勢いだけで話し、言葉を選ばなかった。これからは、もっと品格のある女性になりたい。

カトリーヌは難しい字を知らないし、うまく書けない。 まずは、字を綺麗に書きたいと思ったので、習字を始めた。

それから、「詩」というものも習うことにした。
あのセシリア時代、退屈を持て余したエリウス様が、よくベッドの上で詩集を読んでいたのを思い出したからだ。



ある日、稽古から戻ったゼリアンは、支度部屋でカトリーヌが書いた詩を見つけた。

「戸が開くと、あの人が帰ってきたのかと思います。
天狗山を見ると、あの人のことを思います。
いつも、あの人のことを思っています。
けれど、あの人は今、稽古に夢中で、 その心には、私はいない。
私はいったいどこに行ってしまったのでしょうか」

その詩を読んだゼリアンは、思わず吹き出して笑った。
「それ、私の詩!」

支度部屋に入って来たカトリーヌが、彼の手にある紙を見て、顔を真っ赤にして、慌てて取り返そうとした。

「あの人って、だれ」
ゼリアンが、茶化した目で言った。
「僕のこと?」

「違います。ゼリアンは弟です!」
と カトリーヌが、叫んだ。「どうして、そう思うんですか」

「だって」
とゼリアンが、笑った。
「詩の中に、天狗山とか、稽古とか書いてあるし」

「それは……」
恥ずかしさに押しつぶされそうになって、カトリーヌは今にも泣き出しそうな顔をした。

「恥ずかしがることないよ。すごく素直な気持ちが書かれていて、いい詩だと思う」

「本当に、本当?」
とカトリーヌが、涙目でゼリアンを見た。
「うん」
ゼリアンが、頷いた。「ちょっとだけ言葉を直せば、もっと良くなる」

「じゃあ。ゼリアンが直してください」

「わかった。こっちへおいで」

「はいっ」

その日から、カトリーヌはゼリアンから勉強を教えてもらえるようになった。学校というものに通ったことのないカトリーヌにとって、それは、胸が躍るほどの嬉しい出来事だった。
ゼリアンが、優しく教えてくれる。字の書き方。詩の言葉の選び方。
カトリーヌはゼリアンの隣に座って、一生懸命勉強した。 時々、ゼリアンがほめてくれるのが、とても嬉しかった。
その時間が、幸せだった。

「カトリーヌ、字が、上手くなったね」

「本当ですか?」

「うん。最初の頃より、ずっと綺麗だ」

「はい」
カトリーヌの胸が、熱くなった。私も、成長している。ゼリアンと一緒に。
カトリーヌは、新しい詩を作った。

「あの人が隣にいると、世界が輝いて見えます。
あの人が笑うと、私も笑顔になります。
あの人が教えてくれるから、私は成長できます。
あの人は、私の太陽。 私を照らす光です」
カトリーヌはその詩を、そっと戸棚にしまった。