下級女官リリルの片思いと奔走


カトリーヌが夜に働いている食堂の老主人ゲリーと奥さんのナニーナも、ゼリアンが国立道場に入門できたことを祝ってくれた。

「私はたくさんのお弟子さんを知っていますが、あそこの先生はとても厳しい方だと聞いています。諦めないで、通われたことが、えらいです」
とナニーナが褒めた。ゲリーは無口で、おしゃべりの担当はナニーナである。

「僕はこれまで何かを断られたことがなかったのだけれど、今回は何度も何度も断られて、永遠に断られ続けて、町の笑い者になるのかと思ったことがあった」
ゼリアンは話しながら、何を思いだしたのか、ふっと笑った。「それが途中から、だんだん楽しくなってきたんだ」

「断られることが楽しいの?」

「そうなんだよ。ただだめだと断られるだけじゃなくて、毎回、精神がずたずたになるようなことを言われるんだ。でも、これにも耐えとみせるぞという気持ちが湧いてきて、それが、なんだか、愉快になってきたんだ」

「ゼリアンは、少しマゾっ気があるのかもね」
とカトリーヌがからかった。

「何を言ってる。言葉が悪いぞ」

「面白い姉弟だこと。若い人の話を聞くのは、楽しいわ」
とナニーナが笑った。

「ナニーナおばさん、お願いがあります」

「なんですか」

「僕を、この食堂で働かせてください」

「ええっ」
とカトリーヌが、慌てた。

「だめですよ。ゼリアンには、剣の修行だけに専念してほしいの」

「でも、カトリーヌだけに働かせるなんて、嫌だよ」
その言葉を聞いて、カトリーヌの胸が熱くなった。

「その気持ちは、嬉しいですけど、ゼリアンが働くことはないです」

「でも」
とゼリアンが、続けた。
「僕も働けば、もっと広い部屋を借りられるかもしれないだろう」

それはそうなのだけれど、この食堂で、彼に何ができるのだろうか。
「何でもやります。やらせてください」
ゼリアンが、真剣な顔で言った。

「それはありがたいけど」
とナニーナが言った。この食堂は、年配の夫婦が営む小さな店で、常に人手不足だった。

でも、いくらなんでも、王子様に皿洗いをさせるなんてできないとカトリーヌは思うのだ。

「僕、掃除は得意です。道場の掃除で慣れて、得意になったから・それに、カトリーヌ」
と彼がカトリーヌの肩をぽんと叩いた。
「僕たち孤児はね、何度断られても諦めないんだよな」

「いいだろう。では、この店で働きなさい」
とゲリーが言った。

「ありがとうございます。これから毎晩、稽古の帰りに、ここに来て働かせてもらいます」

「それにね」
ゼリアンがカトリーヌに小さな声で言った。
「毎晩、カトリーヌが帰ってくるまで、一人で待つのは、嫌なんだよ」

カトリーヌの目に、涙が浮かんだ。
「なんて仕方のない弟、じゃ、一緒に働いて、一緒に家に帰りましょう」



その晩から、ゼリアンは、剣の稽古の後、食堂で皿洗いや片付け、掃除を手伝うことになった。
もし、あのセシリア王女がこのことを知ったら、ただでは済まないだろう、とリリルは思わず身震いした。
でも、今、私はカトリーヌで、彼はゼリアン。

あの王女セシリア様は今、どうしておられるのだろうか。生きていらっしゃるのだろうか。
祖国の情報は、ここまで何一つ届かない。


そんなある日、食堂に来た客が話していた。
「アストリウスのレオナルド王は、また領地を増やしたらしい」
それを耳にしたカトリーヌの手が、止まった。

「ここ数か月で、二つも、まるで狂ったように戦いをしている」
カトリーヌは冷や汗をかいたが、そのことは、胸の奥にしまい込んだ。

アストリウスでのことを忘れて、剣の稽古に打ち込んでいるゼリアンに、陛下のことを思い出させたくはない。



そんなある日、カトリーヌが笑顔で、ゼリアンに報告した。
「ゼリアン、ついに探していた家を見つけました」

「家?」
ゼリアンが、驚いた顔をした。「部屋じゃなくて、家?」

「はい、一軒家です。それが、とても安いの」
カトリーヌの目が、輝いている。

「あばら屋?」

「それが、かなり立派な家」

「立派で、安い?」
ゼリアンが、首を傾げた。「じゃあ、お化けが出るとか」

「そうじゃなくて、場所が、少し変わっているだけ」

「どこ?」

「あそこ」
カトリーヌが、窓の外を山を指差した。

「天狗山よ。あのてっぺん」
指の先には、小さな山が見えていた。標高は、二百メートルほどだろうか。

「なぜ、そんなところに?」

「それはね」
カトリーヌが、声を潜めるように笑った。

「ゼリアンのトレーニングになるかと思って」

「トレーニング?」
「重いものを背負って坂を登ると、体幹が鍛えられるって聞いたから」

「重いものって?」

「わたし」
とカトリーヌが、自分を指差した。

ゼリアンははっとして、目を丸くした。
「ゼリアンが私を背負って、私が灯りで道を照らして、山を登るの。ね、良い考えでしょ?」

「いやいや。それはできる気がしないけど」

「最初はできるところまででいいの。そのうち、頂上まで行けるようになるわよ」

カトリーヌは、ゼリアンに屈んでみてとジェスチャーで示し、その背中に、乗ってみた。
「どう?」

「カトリーヌは、軽いから……」
ゼリアンが、カトリーヌを背負って立ち上がった。

「できるかもしれない気がしてきた」

「じゃあ、ちょっと歩いてみて」
カトリーヌが、灯りを掲げた。

ゼリアンはカトリーヌを背負い、バランスを取りながら、二歩三歩歩いてみた。

「なんか……、行けそうな気がする」

「私たち」
とカトリーヌが、笑った。「けっこう、いいチームかもね」

「これ」 とゼリアンが、笑った。「たぶんだけどさ」

「なに?」

「楽しいかも」

「ばかねぇ」
カトリーヌが、ゼリアンの背中を叩いて、嬉しそうに笑った。 夜の町に、二人の笑い声が響いた。